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この腕表紙(タイトルあり)
画像素材として、
キャラクターをキャラクターなんとか機様にて作成させていただきました。
ニコニ・コモンズ様より、
おぴっつ様 GANGERIO_mk様 漫博堂様 つのがわ様 (順不同)
の作品をお借り致しました。
ありがとうございます。

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四界戦記 月空界・地表界編外伝~ずっと、この腕のなかに・・・~ (1)


少年らしく逞しささえ感じられるようになった貫太の背中が、まだ熱を持たない早朝の眩しすぎる光の中、自宅に面した細い坂道を下り、次第に遠く、小さくなっていく。
 門の前で見送るショーコの胸は、キュウッと締めつけられていた。鼻の奥と言おうか、目と目の間の骨と言おうか、とにかく、その辺りに違和感。軽く息も詰まる。貫太を初めて幼稚園に送り出した時の気持ちに似ている。
「お母さん、僕、戦うよ」
貫太が突然、そう切り出したのは、昨日の晩のことだった。そして、急な旅立ち。
 やがて、坂道を下った突き当たり、中村家の前の道を左に曲がり、貫太の姿は完全に見えなくなった。
 それでもなお、立ち尽くすショーコ。
 清次が門の内側方向へ体の向きを変えつつ、不器用に、そっとショーコの肩に手を置き、気遣わしげに口を開く。
「お母さん、もう入ろう。あんまり外にいると、体に良くねえよ」

 
 先に立って歩き出す清次のすぐ後に続き、ショーコは、家のほうへ1歩踏み出してから、もう一度、貫太が行った坂道を振り返った。
(戻れたらいいのに……)
貫太がまだ幼かった頃に戻れたら、そして、そのまま時が止まってくれたら……。


四界戦記 月空界・地表界編外伝~ずっと、この腕のなかに・・・~ (2)

* 第1部




            * 1 *


 県営団地の4階の一室、ベランダ側南向きの4畳半に、春の優しい陽が射し込む。穏やかな昼下がり。ショーコは、窓際の壁に寄り掛かって座り、窓とベランダの手摺の向こうに見える空を眺め、眠気と戦いつつ、生後2ヵ月の次男・清次に、母乳を飲ませていた。飲み終われば清次は眠るはず、そうしたら少し横になろう、それまでの辛抱だ、などと思いながら……。
 と、そこへ、トイレから戻ってきた5歳の長男・貫太、
「きーちゃんっ 」
清次に覆い被さるように、至近距離から、その顔を覗き込む。
 それまで口だけはジュッジュッと音をたてて忙しく動かしながらも、目はウットリと半分近く閉じ、今にも眠りそうだった清次は、パッチリと目を開けた。
 貫太は一度身を起こして清次と距離をとり、また、
「きーちゃんっ 」
と覗き込む。
 そしてまた距離をとり、三たび、
「きーちゃんっ 」
と、繰り返した。
 清次は乳首から口を放し、貫太が覗き込む度、歯の無い顔でニチャッと笑い、距離をとる度、貫太の姿を追って体を反らせ、飲むことに集中しない。
 ショーコは眠気のせいもあり、イライラ。それでも、貫太は清次のことが可愛くてたまらないから、こんなふうに構うのだと分かっていることと、清次も喜んでいることから、暫くは我慢していた。
 しかし、あまりにしつこく清次を構い続ける貫太に、ついに、
「もう! いい加減にしてよっ! キーちゃんが全然飲まないじゃん! イライラさせないでっ! 」
 貫太はピタッと動作を止め、気持ちを探るように、ジーッと ショーコの目の奥を見つめる。
 清次は大声に驚いたのか、
「ふえええぇ……! 」
泣き出した。
 ショーコは時々、自分を可哀想に思ってしまう。声に出して怒ったことで、余計に、怒る気分も盛り上がってしまい、きっと貫太は傷つくだろうと分かっていながら、怒りにまかせてフイッと貫太から視線を逸らした。
 貫太がショーコを見つめ続けているのを、ショーコは気配で感じる。
 部屋の中に、清次の泣き声だけが響く。
 ショーコは早くも、少し、自分の行動を後悔していた。目は背けたまま、気配で貫太の気持ちを探ろうとする。
 ややして、貫太が口を開いた。
「まま、いらいら しちゃって、かわいそう」
 それはまるで知らない国の言葉のようで、ショーコは、一瞬、意味を理解出来なかった。理解して驚き、貫太を見る。
(イライラしちゃって、可哀想っ? )
そんな言葉が返ってくるなど、思いもしなかった。もしショーコが貫太の立場で、何か言葉を返すとしたら、
「そんなふうにイライラされたら、こっちまでイライラしてくる! 」
と、返しただろう。
 貫太は心配げにショーコを見つめている。
 貫太の言葉は、ゆっくりとショーコの胸に染み込み、フワッと広がった。
 (どうして、こんなに優しいの……)
ショーコは、涙が出そうになった。急に貫太を抱きしめたくなり、
「カンちゃん……」
片方の腕を伸ばして抱き寄せる。……温かい。
「まま、いらいら なおった? 」
貫太の問いに、
「うん。…ゴメンね……」
ショーコが一生懸命、目を優しくし、口元に笑みを作って見せると、貫太は、ニコッと明るく笑ってショーコから離れ、ちゃぶ台の前に座った。そして、お絵かき帳に向かい、舌を上唇と下唇の隙間にチョロッと出して集中した様子でクレヨンを動かし、トイレに行く前に描きかけていた絵の続きを描き始める。
 その横顔を見つめ、ショーコ、
(ゴメンね……)
もう一度、心の中で呟いた。広い心で貫太や清次を包み込んで甘えさせてあげられるような、信頼される母親になりたいのに、実際には、優しい貫太に甘えてしまっている。いつもいつも、ほんの少し、何かに気持ちを追い詰められては、自分が可哀想になり、貫太に甘えてイライラをぶつけてしまう。後悔も反省もしているのに、繰り返してしまう。
 情けない自分に溜息を吐きつつ、ショーコがふと清次に目をやると、清次は再び目を半開き状態、口だけは、やはりジュッジュッと音をたてながら忙しく動かしていた。
 清次は一瞬、乳首を吸う口を休め、半分寝ている状態の中で何か面白い夢でもみたのか、ニカッと笑う。
 つられてショーコも、自然と笑みがこぼれた。
(…あったかい……)
ショーコは、今、自分の周りに存在する全てを、温かく感じていた。


四界戦記 月空界・地表界編外伝~ずっと、この腕のなかに・・・~(3)

             *  *  *



 ショーコの目の前に、果てしなく開けた、風景……と言っていいものかどうか、髪が洗われる程度の心地よい風が吹いている以外には何も無い空間。頭上には、輪郭のボヤけた、クリーム色の太陽。眼下の白い雲の隙間には、太陽の光を受けてきらめく、青く大きな宝石の一部のような、優しい丸みを帯びた海面が見えた。ショーコの故郷・青の国の、風の縁からの景色に似ている。
 青の国は、月空界という、ショーコが現在暮らしている地表界とは次元を異にする空に浮かぶ4つの国々から成る世界の中で、最も国土面積が小さく人口も少ない小国であり、月空界と地表界、それぞれの次元同士を重ねて考えるとすれば、丁度、ショーコの現在の自宅のある日本の上空に位置する。
 ショーコは、月空界、特に青の国と、地表界の国々のうち日本との間に、何となく縁を感じていた。違う次元に在りながら、驚いたことに、月空界に住む人々・月空人と日本に住む人々は、ほぼ共通の言語を用い、外見の特徴もよく似ている。しかも、青の国などは、次元同士を重ねて考えた時に、日本の真上に在る。
 ショーコだけではない。言語や容姿、それぞれの国の存在する場所から、青の国民と日本人は祖先が同じとの説を唱える学者もおり、また、それを信じる青の国民も多い。


「ショーコ様ー! 」
遥か後方からの呼び声に、ショーコは振り返った。背後は見覚えのある深い森だった。今、ショーコがいる、ここは、風の縁としか思えない。
(どうして……? )
ショーコは辺りを見回した。深い森を正面にした時の左手側には、小さな古い教会。その手前に木製の壊れかけたブランコ。右手側には、大きな岩山にポッカリと開いた、「立入禁止」の立札が立てられた洞穴。足下には、桃色、水色、黄色の、小さな小さな野の花々。どこをどう見ても、やはり、風の縁だ。
「ショーコ様ーっ! 」
呼び声の主は、月空人の 一番の特徴である背中に生えた黒い翼で、森の上をショーコの前まで飛んで来、舞い降りた。
「ショーコ姫様! 」
その人物は、紺色のロング丈のワンピースの上に清潔感のある白いエプロンを身につけた、優しげな細い目をしたふくよかな初老の女性。
(うそ……)
ショーコは目を疑う。 
 女性は、もともと細い目を更に細くして微笑み、
「ショーコ様。王様が、お呼びでございますよ」  
(……ホントに)
「バアヤッ! 」
ショーコは、懐かしさのあまりバアヤに抱きついた。バアヤは、ショーコが貫太を出産する際に、地表界まで手伝いに来てくれた。その時には特に変わった様子も無く元気だったのだが、青の国に帰って間も無く病気のため亡くなったと、親友から聞かされていた。
 ショーコの涙が、バアヤの服を濡らす。
「…会いた、かった……! 」
 バアヤは、ショーコの背をトントン、と、宥めるように叩いてから、そっとショーコの両肩に手を添えて体を離し、自分のエプロンの裾でショーコの涙を拭った。
「あれあれ、いかがなされたのでございましょうね、この姫様は。会いたかった、などと。バアヤは小1時間前に、姫様のお召し替えをお手伝いしたばかりでございますよ」
(……え……? )
キョトンとするショーコを、バアヤは、
「さあさ、王様がお待ちです。参りましょう」
促す。
 ショーコは全く状況が掴めないまま促されるまま、森の上を移動するため、地表界での生活には支障を来すという理由から普段は仕舞ってある翼を出そうとして、
(? )
既に出ていることに気づいた。同時、自分の身に着けている服の肩の部分の若草色の生地が視界に入る。
(? ? ? )
この色の服は、持っていない。ショーコは、自分の着ている服を確認すべく、まず、腕を視界まで持ってきた。肩の部分と同じ若草色の長袖、袖口に同色のフリル。次に、首を曲がる限り下に向かって曲げた。全体が肩の部分や袖と同じく若草色の、地面につきそうなほど長い丈のワンピース。少し高めの位置にウエストが作られ、裾と胸元にも袖口と同じフリルがついている。
(……この服! )
それは、ショーコがまだ青の国で暮らしていた頃の、お気に入り。一番よく着ていた服だった。
(…どうして……? ) 
「さ、参りましょう」
バアヤが繰り返し促す。
 ショーコは、いくつもの疑問を抱えながら、バアヤの斜め前を、実家である青の城へ。


 青い屋根に白い壁の青の城は、ショーコの身長の倍ほどの高さの高い塀に囲まれ、国土のほぼ中央にドッシリと構えている。
 青の城の、開け放たれた大きな正門を、一般開放された庭で食事をとるつもりらしい、弁当と思しき荷物とゴザを手にした何組かの一般の国民の家族連れ。青の城正門前に到着したショーコは、その中にまじり、バアヤと連れ立って通り抜けた。
 何だか、懐かしい。今のところ目にした限り、ショーコが暮らしていた頃と何ひとつ変わらない青の国。一緒に正門を通った家族連れや、正門前を行き交っていた人々の、本当に久し振りに見た、色もデザインも控えめな、実に青の国民らしい服装も……。

 父王の私室へ向かうべく、ショーコは斜め後ろにバアヤを従えて、車が通れそうなくらい広い廊下の、赤い絨毯の上を歩く。
 壁に掛けられた、くどいくらいの装飾が施された鏡を、その前を通り過ぎざま何の気なく見、ショーコは、あっ、と声を上げ、立ち止まった。
「いかがなされました? 」
バアヤの問いに、
「何でもない」
ショーコは短く答え、歩き出す。
(そういうことだったんだ……)
鏡に映ったショーコは、若かった。今も、一般的には、若者、と呼ばれるような年齢だが、鏡の中のショーコには、現在のショーコには、もう無い、はちきれんばかりの若さがある。疑問は、全てキレイに解決した。……これは、夢だ。「ショーコが暮らしていた頃と変わらない」、も何も、今、ショーコは、ショーコが暮らしていた頃の青の国が舞台の夢をみているのだ。
 と、その時、鏡が掛けられた壁とは反対側、窓の外から、小さな子供の泣き声が聞こえ、ショーコは再び立ち止まって、外を覗く。
 そこは、色とりどりの花々が咲き乱れる中庭。1つ年下の弟・ユウゾと、その幼い頃からの友人2人、それから、近所に住む小さな子供たち数人がいた。
(ん、やっぱ 夢だ)
ユウゾも、その友人たちも、ショーコと同じく若かった。もう長いこと会っていないが、夢でないなら、ユウゾも友人たちも、今、ショーコの目の前にある、この姿よりは、少しくらい大人っぽくなっているはずなのだ。
 若いユウゾの前で、1人の女の子が、丁度その子の手のひらくらいの大きさの赤い花・ルンルン草の花を手に、泣いている。
「ごめんなさい おうじさま……」
しゃくり上げながら女の子は、花があまりに綺麗だったため触ったら、折れてしまったのだと、説明した。
 ユウゾは優しく笑み、
「大丈夫だから、泣かないで」
地面に膝をついて女の子と目の高さを合わせ、彼女から、折れたルンルン草を受け取ると、
「このお花さんはね、きっと、君の髪飾りになりたかったんだよ」
言って、彼女の髪に、それを飾った。
 女の子は涙を拭い、笑顔になる。
 ショーコは、胸がホッと温かくなるのを感じながら、視線を廊下の前方に戻し、歩を進めた。
 

四界戦記 月空界・地表界編外伝~ずっと、この腕のなかに・・・~ (4)

父王の私室前で足を止め、ショーコは、一度大きく息を吸って吐いた。父王とは6年前、現在の夫・慎吾との結婚のことで気まずくなったまま城を出て以来、会っていない。夢だと分かっていても緊張する。
 木製の大きく重厚な観音開きのドアをノックし、
「ショーコです」
「入れ」
ドア越しの父王の声を待ってからドアを開ける。
 父王は、部屋の中央に置かれた、すっかり地表界での生活に慣れたショーコの感覚からすれば1人で寝るにはもったいないような、大きなベッドに横たわっていた。
 起き上がろうとする父王にバアヤは駆け寄り、手を貸し、その肩にガウンを掛けてから、父王が寄り掛かれるよう、その背の後ろ、ベッドのヘッドボード部分に枕を立て掛ける。?
 ベッドの上に上半身起き上がった父王は、バアヤに外してくれるよう言い、ショーコに自分の傍まで来るように言った。
 言われるまま、ショーコは父王のベッド脇へ。
 バアヤが会釈をして部屋から出て行くのを待ち、父王は、立て掛けられた枕に凭れ、腹の上で10本の指を組み合わせて一度大きく息を吐いてから、真剣な眼差しをショーコに向け、口を開く。
「ショーコ、お前は次期王位について、どう考える? 」
(あの時? )
ショーコは、この場面に憶えがあった。
 父王が続ける。
「私は、お前に継いでもらいたいと考えている」
(やっぱり、あの時のことを夢にみてるんだ)
この場面は昔、現実にあった場面。健康に自信があり大きな病気の経験が無かった父王が、生まれて初めて寝込むほどの病に罹ったため弱気になり、自分亡き後の青の国について、真剣に頭を悩ませていた時だ。
 青の国の王位は代々、男子が継いできた。そのような決まりは無いが、慣習として、そうだった。慣習からすれば、次期王はユウゾだ。……ショーコは何の疑いも無く、そう思い込んでいた。おそらく、城の召使たちや国民たちも。 
 父王の言葉に、この、今、夢にみている場面が現実だったあの時、ショーコは驚いた。
 父王はショーコを王にと考えた理由を2つ挙げる。 
 1つは性格。
 この場面より少し前、ショーコとユウゾが共に受けた王位継承者候補としての学習の中で、他国の紛争で犠牲になった乳飲み子の実話を取り上げた。その際、心優しいユウゾは涙し、悲しみに暮れ、平和を祈った。対してショーコの反応は、悲しみより、むしろ怒り。如何にすれば幼い命が犠牲にならずに済むのか考えた。そのショーコの反応は、出来ることがあるならば実行するということを意味すると、その時の学習内容の報告を後から担当の家庭教師より受けた父王は、受け取ったらしい。 父王は、君主の務めを、国民を幸せにすることであると考えている。そのためには平和な暮らしが第一、と。それ故、父王はユウゾの反応についても否定はしない。平和を祈る気持ちが無ければ、世の中は平和になどならない。この世に生きる全てのものが優しい気持ちで他者と接し、心から平和を望んだとき、初めて、本当の平和が訪れる。平和への祈りも優しい心も、とても大切であるためだ。とは言え、優しいだけでは何も守れず祈るだけでは何も変わっていかないのが現実。父王は、ショーコの前向きで行動的な性格を買ったのだ。
 もう1つは、能力の種類による向き不向き。
 月空人は皆、月空力と呼ばれる能力を持っている。特に、王家の者の月空力は強い。月空力はバリエーションに富んでおり、それぞれ違うため、同じ王家の姉弟の能力を力の強さという観点で比べることは不可能だが、父王は、単純に、能力の派手さから、ショーコのほうが王に向いていると判断したらしい。時々は派手な能力で力を顕示する。王にはカリスマ性も必要と、父王は言う。父王自身の月空力のタイプがショーコと同じく派手なタイプであるため、余計にそう考えるのだろう。
 ショーコは父王の挙げた理由に首を傾げた。
 性格については、本当にショーコが父王の考えているとおりの性格だとしたら頷けもするのだが、父王は、完全に勘違いをしている。ショーコは、前向きでも行動的でもない。先の学習の際の怒り、如何にすれば幼い命が犠牲にならずに済むかとの考えは、その場だけのものだった。と、言うより、その怒り自体が、学習の時間を遣り過ごすためポーズ……? のような……。子を持つ母となった現在のショーコであれば、もう少し違ったであろうが、当時のショーコは、気の毒な話だ、くらいに思った程度。正直、顔や態度に出るほどの強い感情は湧かなかった。ただ、何かしらの反応を見せなければならないような気がして……。
 一方、ユウゾは、おそらくポーズなどではなかった。学習の時間だけでなく、学習の時間が終わった後も、悲しみに暮れながらも1歩踏み出し、ショーコがポーズで口にしただけの、「如何にすれば幼い命が犠牲にならずに済むか」をテーマに、真剣に考え続けていた。父王の望む、前向き、という性格に近いのは、ユウゾのほうではないのか。……もっとも、ショーコは、父王から、この、次期王位についての話をされるまで、自分はユウゾの学習に付き合わされているだけであると思っていた。自分もきちんとした王位継承者候補であると知っていれば、もっと真面目に取り組んでいたかもしれないが……。
 前向き・行動的という性格を抜きに考えたとしても、ユウゾが子供からお年寄りまで多くの国民から慕われている事実は無視できない。
 能力の面でも、ショーコは、自分の派手な能力より、地味だがユウゾの能力こそ王に相応しい能力でははいかと思う。ショーコの能力は、物に直接手を触れずに動かすタイプの能力。目にはっきり見えるため派手だが、便利なだけの能力だ。無ければ無いで自分の体を動かし、場合によっては道具を使い、同じことを行えばよいだけのこと。当然ショーコのものよりは弱いが、似たようなタイプの能力を持つ人は大勢いる。だが、ユウゾのようなタイプの能力は、非常に珍しい。と、言うより、おそらく他にいない。ユウゾの月空力は、人の心を癒す。ユウゾにそっと手を握られるだけで、怒りや悲しみはどこかへ行ってしまう。ユウゾの微笑みひとつで、満ち足りた幸せな気分になる。比較的分かりやすい能力としては、一瞬で他人を眠らせたり、他人の記憶を操作したり……考えようによっては恐ろしい能力だ。だからこそ、優しく穏やかな性格のユウゾが持って生まれてきたのではないかと思う。能力を正しく使い、未来の青の国を幸せに導くため王家に生まれた、生まれながらの王者なのではとさえ思える。 
 自分よりユウゾのほうが王に向いている。ショーコは、所詮は夢の中だが、現実のあの時と同じく、父王の顔色を窺いつつ、しかし、キッパリと、
「父上。私は自分よりも、ユウゾのほうが王に相応しいと考えます。国民も、女である私を王とは認めないでしょう」
 青の国民は、伝統を重んじる向きがある。
 父王は、ウム、と低い声で頷き、
「国民の反応については、私も考えた」
それから一呼吸置いて、
「そこでだ。お前に、地表界に行ってもらいたい」
唐突な言葉が続く。
 現実のあの時には驚いたショーコだが、今回はもう2度目のため驚かない。無論、地表界に行く理由も知っている。
 父王は、もともと地表界びいきであった上に、数年前、忍んで地表界へ1人旅をした際、地表界に住む人……地表人から多大なる恩を受けたという。
 この夢の当時、地表界の、父王が恩を受けたという人が暮らす、丁度、風の縁の真下に位置する地域一帯は、日空界にっくうかいによる侵略の危機に瀕しており、父王は、何とかしたいと考えていた。しかし、自分は病床にある。そのため、ショーコに地表界へ行き、日空界から送り込まれた軍隊を退却させるよう命じたのだ。それだけのことが出来れば、国民もショーコを認めるであろう、と。
 王位の件はさて置き、ショーコは、病床の父王を気遣って地表界侵略の阻止を引き受け、この後、地表界に向かうことになる。


 日空界とは、月空界とも地表界とも次元を異にする世界。存在する正確な位置は分かっていないが、そこの住人である日空人を、侵略の危機以前から、頻繁に、地表界上空で見かけることがあったらしい。
 月空人が黒い翼を持ち、黒髪、こげ茶色の目、黄色がかった肌色をし、口から音声として言葉を発して会話するのに対し、日空人は白い翼に金髪、青色の目、白い肌、と、全体的に色素の薄い外見で、白い一枚布を全身に巻きつけただけのような変わった服装をし、特定の言語を持たず、頭の中に直接語りかけてくる。
 ショーコは、あまり日空人が好きではない。この夢の当時の時点では、そのように考えてはいなかったが、この後、地表界へ行き、日空人と会話を交わし、その気質故、そう思うようになった。勘違い気質とでも言おうか、自分たち日空人が、異なる次元も含めた全ての世界のリーダーであるとでも思っているようだ。
 地表界侵略に関しても、そう。日空界には大地が無く、人々は特殊な方法で固めた雲の上で生活していると聞く。大地が無いのだから、日空界の農作物は、全て水耕栽培であると思われる。大地で育まれたほうが美味しい種類の作物は多いだろう。地表界へ出掛けた青の国民が地表界上空で見かけた日空人のほぼ100%が地表界産の農作物を手にしていた点からの憶測に過ぎないが、日空人は大地で育まれた作物を好み、大地を欲している。日空界が地表界を狙う理由をそう考えたため、ショーコたち王家の者も含め、青の国民は、日空界による地表界への一方的な攻撃を侵略と呼んでいた。……そのほうが、まだまともに思える。この後、ショーコが地表界で出会う日空界の軍人たちは、自分たちが地表界に攻め込んだ理由として、
「地表界ハ環境・治安トモニ悪化ノ一途ヲ辿ッテオリ、ソノ影響ハ他ノ次元ニモ及ビカネナイ。全テノ世界ヲ守ルタメ、人格的ニモ技術的ニモ先進シテイル我々ガ指導スベキ」
との大義名分を掲げ、本気でそう考えているようだった。ただ、更に後になって、地表界における日空界の軍隊の責任者と話す機会があり、大義名分は間違いなく国としての方針だが、地表界の大地を手に入れることについて、全ての世界を守るために戦ったことに対する当然の報酬と位置づけ、当初から大地を手に入れることが念頭にあったと知ることになった。結局は侵略だった。しかし、侵略と知れば異を唱える者が現れるためだろうか、一般の軍人には伝えていなかったのだ。だが、話してみて、やはり、その勘違い気質が、どうしても本物であるとも知った。

 悪いことに日空人は、地表人の思い描く神の御使いたる天使に、姿が似ている。そのため、日空界の地表界侵攻はスムーズに進んでいた。
 事態は急を要する。
 ショーコは、バアヤの手を借りて大急ぎで、携帯できる簡単な食糧と飲料水・父王が地表界を旅行した際に使用した日本の通貨の残り・汚れたり破けたりした時のための着替えを1組、と、最低限の荷物をナップサックに詰め、出来るだけ目立たない服装をとの考えから、父王からの地表界土産……それまで一度も袖を通したことのなかったTシャツとジーンズに着替え、最後に、ショーコが降り立つ地表界の地点は寒い季節であると聞いたため、上にコートを羽織って仕度を済ませた。

四界戦記 月空界・地表界編外伝~ずっと、この腕のなかに・・・~ (5)

               *


 風の縁から、ショーコは飛び下りる。
 どういった仕組みかは分からないが、風の縁から飛び降り重力に任せて5秒経過した地点で1回宙返りすることで、月空界の次元と地表界の次元の間にある壁のようなものを越えられると、先人が偶然気づいたそうだ。
 ショーコも、下からの風に邪魔されながらクルッと1回転。直後、眼下の景色が変わった。月空界の次元では海のはずの場所に陸が現れた。……日本だ。
 頬を打つ風が冷たい。耳が千切れそうに痛い。ショーコは翼を使ってスピードを徐々に緩めながら、地上に降り立つ。
 地表界に於いて黒い翼は良いイメージではないため 地表界に着いたら先ず翼を仕舞うように、との父王の言葉に忠実に従った現実の時と同様、ショーコは真っ先に翼を仕舞った。
 この夢の時点のショーコにとっては初めての地表界。だが、今のショーコにとっては、降り立ったその場所は、特に珍しくなどない場所。自宅から歩けないこともない距離に在る寂れた商店街。祭りの時は歩行者天国になるため一時的に賑わう、(慎吾曰く)元・繁華街だ。
 車が1台も通らない。歩いている人も1人もおらず、いつもにまして静か。崩れた建物がいくつも見受けられ、電柱も倒れ、道路標識のついたポールが根元から折れ、車道の真ん中に転がっている。 空き缶や枯れ葉、シワになった新聞紙なども散乱する、そんな元・繁華街を、ショーコは歩道に立ち、何の気なく見回す。 現実の時のショーコは、もの珍しさと状況把握のためキョロキョロしていた。
 その時、
「見タゾ! 」
ショーコの頭の中に直接、誰かの声が響いた。
 ショーコは声の主を捜して視線を走らせる。
 バサバサッという羽音。
 羽音のしたほうにショーコが目をやると、丁度、ショーコの立ち位置から車道を挟んで向かい側、2階建ての楽器店の上に、背に白い翼を持つ5人の人物。日空人だ。全員が20代前半と思われる(日空人が、月空人や地表人と同じような成長過程をとるかどうか不明なため、また、仮に同じであったとしても、年齢の数え方が同じとは限らないため、実際の年齢は分からないが)、若そうな日空人。
 ショーコは咄嗟に身構える。
 日空人たちは、ゆっくりとショーコの前、車道中央に舞い降り、そのうちの1人が、
「オ前ハ、月空人ダナ? 」
ショーコの頭の中に語りかけてきた。
 そこへ横から、革のブルゾンにジーンズ姿、茶色い短髪の、見覚えのある広い背中が、ショーコと日空人との間に割り込んで来、
「逃げろっ! 」
肩越しに振り返った。少し若いが、慎吾だった。
 日空人たちは、ショーコと同じような、手を触れずに物を動かす能力を持っており、崩れた建物の大小の瓦礫やその辺に転がっている空き缶などを、その能力で、前面に立つ慎吾に向け、手当たり次第に投げつけてきた。
(あ、同じ……)
今のところ この夢は、自分の意識が作用している部分以外、現実の時と全く同じであると、たった今、ショーコは気づいた。
 現実の時のショーコは、この場面では、慎吾を戦いの邪魔としか感じず、彼の前に割り込み返して背に庇い、少々乱暴に、
「それは、こっちの台詞! 逃げなさい、地表人っ! 」
などと言い放ってから日空人に向かって行った。
 しかし今は、慎吾が日空人と戦うのに充分な能力を持っていると知っており、また、夢の中ということもあって、日空人に立ち向かって行く彼を、後方から安心しきって眺める。
 慎吾は、日空人が投げつけてきた瓦礫などを掻い潜り、日空人まで50cmというところまで間合いを詰めると、素早く、足下に転がっていた標識のついた重そうなポールの端、標識のついていない側を両手で掴み、持ち上げ、力任せに振り回して、5人のうち4人をいっきに薙ぎ払った。
 4人は地べたに蹲る。 残る1人は寸前でポールをかわし、慎吾の頭上に舞い上がって、2階建ての建物の屋根の高さと同じくらいの高さで静止。
 慎吾は、その、宙に静止しショーコと慎吾を見下ろしている日空人を仰ぎ、睨みつける。 
 ショーコが背後でゴトンと音のしたのを聞き、
(? )
振り返ろうとした、瞬間、その音の正体であろう物がショーコの頬をかすめて慎吾の後頭部めがけ、勢いよく飛んでいった。
 それは、枯れかけたアロエが植えられた大きく重そうな鉢だった。 ショーコは慌てて、月空力で鉢を割る。
 自分を狙う気配を感じ取ったらしく振り返った慎吾は、目の前で勝手に鉢が割れるのを目撃し、それがショーコの仕業であると気づいたようで、ショーコを見、目を丸くした。
 ショーコは、割った鉢の破片を全て、宙に浮かんでいる日空人に向けて飛ばす。
 破片は日空人の服を裂き、肌や翼を傷つけた。
 日空人は痛そうに顔を歪め、自分を抱きしめて地面に降り、頭の中に直接であっても、苦しい時はやはり苦しげになるらしく、
「…我々ハ、オ前ガ地表界ニ来タ目的ヲ確カメ、警告シヨウトシタダケダ……。 地表界ハ環境、治安トモニ悪化ノ一途ヲ辿ッテイル。ソノ影響ハ他ノ次元ニモ及ビカネナイ。 全テノ世界ヲ守ルタメ、人格的ニモ技術的ニモ先進シテイル我々ガ指導スベキナノダ。我々ノ邪魔ヲスルナ、ト。 …ダガ、今ノデ オ前ノ立場ハ ハッキリシタ。死ヌ、ガ、イイ……」
途切れ途切れ伝えるだけ伝えると、ガクンと膝を折った。
 ショーコが地表界に来た目的など気にするということは、この5人の日空人たちは軍人だったと考えられる。
(ホント、どうにかならないのかな? この勘違い気質って……)
ショーコは小さく息を吐いた。
 そこへ、四方八方から羽音が、初めは遠く、次第に近く。 
 羽音に空を仰いだショーコの視線の先、ショーコと慎吾を囲むように、宙に円を描く形で、後から後から、日空人が集まって来る。
 数秒後、集まりきった最終的なその数は、ざっと30人を超えている。が、ショーコの知る限り、たまに例外はあるが、日空人は30人集まってもショーコの敵ではない。現実の時にも、地表界に来て早々、同じくらいの人数に同じように囲まれ戦ったが、傷ひとつ負わなかった。
 現実の時には、新たに集まってきた日空人について、最初の5人より強いのではと警戒し、初めのうちは様子見をしながら戦い、その力の程を見極めた後で本気を出して一蹴したショーコだったが、今回は、その力量を分かっているため、最初から本気。いっきに片をつけることにした。
 本気の力を出そうとすると、どうしても、仕舞ってあった翼が飛び出してしまう。
 ショーコは翼を動かし、宙に舞い上がって、日空人たちと目の高さを合わせた。そして一度、深く息を吸い、腕を左右に突き出して、
「ハアッ! 」
声とともに、右足を軸に回転。月空力で、周囲にいる日空人たち全員を、いっぺんに攻撃。
 ある者は姿が見えなくなるほど遠くまでふっ飛び、またある者は翼に強いダメージを受けて地に落ちる。
 深手を負いながらも辛うじてその場に留まっている数名に向かい、
「私は月空界・青の国の王女、ショーコです。我が父・青の国の王の命を受け、日空界の軍隊の方々に 地表界より引き揚げていただけるようお願いに参りました。あなた方の上官に伝えて下さい。今すぐ、地表界から撤退されるように、と」
そこまでで一旦、言葉を切り、挑む感じで目に力を込め、声は低く、
「これは、警告です」
ショーコの口から、静かに、自然に、現実の時と一言一句変わらない台詞。
 言い終えてから自分で驚き、口元に手をやるショーコ。そして、思った。この夢の中では、特に意識しなければ、自分の言動さえも現実の時と全く同じに進んでいくのかも知れない、と。
 その場に残っていた数名の日空人たちは、怯えた目でショーコを見ながら2・3歩後退り。逃げるように飛び去った。
 ショーコが地面に降りるべく下を見ると、慎吾が呆然とショーコを見上げていた。


 

四界戦記 月空界・地表界編外伝~ずっと、この腕のなかに・・・~ (6)



 ショーコは、慎吾が1人で暮らす県営団地の一室、現在ショーコの自宅である部屋に世話になり、暫く地表界に滞在することにした。
 ショーコは、慎吾が日空人を地表界(地表人は、自分たちの住んでいるこの地を、地表界、とは呼ばないらしいが)から撤退させるという、ショーコと同じ目的を持って活動していると聞いた。先にも触れたが、日空人は、地表人の思い描く神の御使いたる天使に姿が似ているという理由から、スムーズに侵攻、多くの地表人を何処かへ連れ去っていた。日空人が甘い話で誘えば、一部の地表人は簡単について行く。残りの単純でない多くの地表人には、目の前で、天罰と称し、地表人からしてみれば不思議な日空人の持つ能力を使い、大きめの建物の1つでも破壊して見せれば、大人しく従うようになるというわけだ。慎吾は疑問を持ち、抵抗した。慎吾はどちらかと言えば単純なほうだが、神の使いが暴力で人を従わせようとすることに、どうしても違和感があったのだ。慎吾は自分と同じ考えを持つ人々を集め、自分をリーダーとして日空人に抵抗するグループを結成し、日空人が地表人を連れ去ろうとしているところを邪魔したり、日空人の行く先を阻んだり、日空人について「神の御使いなどではないから、ついて行くな」といった内容のビラを撒いたりと、細々と抵抗を試みてきた。日空人は、抵抗する者に容赦ない。当初、慎吾を含め20人いたメンバーは、作戦の中で次々と、その尊い命を落とし、ついに慎吾が残るのみとなってしまった。目的として掲げていても、慎吾にとって、日空人を撤退させるなど、夢のまた夢だった。しかし、ショーコの戦いぶりを目の当たりにし、この人の協力が得られれば夢が現実になると確信したと話してくれ、協力してくれるのであれば、必要であれば、自分の部屋を提供すると申し出てくれたのだった。ショーコにとっても、先程の警告くらいで日空人が撤退するとは思えず、(この夢の時点では)勝手の分からない地表界で戦いを続けなければならないのであれば、地表界に住む人の協力は有り難い。また、月空界から地表界に行くには重力に任せればよいだけで何も大変なことは無いのだが、逆は自力で昇って行かなければならず、何度も行き来するのは辛いと想像できたため、慎吾の家に身を寄せることを決めたのだった。

 玄関のドアを開けて入る慎吾に、ショーコは続いた。
 家の中は、玄関からして現在と比べてかなり殺風景で、当然のことだが、玄関の正面奥の開け放たれた襖の向こうに見える6畳間にも、玄関からは見えないがその隣、襖で仕切られた4畳半にも、貫太と清次はいないのだろう、玄関を入って左手側の台所の冷蔵庫の音がハッキリと聞こえるくらい静まり返っている。何となく違和感。ああ、そうだ、こんな感じだった、と、今も同じ家に住んでいるにもかかわらず、懐かしくも感じ、ショーコは周囲を見回す。
 慎吾が靴を脱いで玄関を上がり、右手側の襖を開け、
「この部屋、オレ、使ってないから、自由に使っていいよ」
 そこは3畳間。現実だった時にもそうだったが、使っていないどころか、物置にすらなっていない。
 慎吾が6畳間に入って行くのを待って、ショーコも靴を脱いで上がり、3畳間に入って襖を閉める。
 隅に月空界から持ってきたナップサックを置き、ガランとしすぎていて何となく居心地の悪い3畳間の真ん中に腰を下ろしながら、ショーコは、現実の時には考えなかったことを考えた。さっき日空人たちに対して、自分は月空界・青の国の王女であると名乗り、自分が地表界へ来たのは王の命によるものであると発言したが、それは不味かったのではないか、と。王の名を出してしまえば、国対国の問題になってしまう。自分はただの月空人の娘で、自分の考えのみで地表界に来たのだということにしておくべきだったのではないか、と。考えてみれば、父王は「君主の務めは国民を幸せにすることであり、そのためには平和な暮らしが第一」との考えを持っていながら、何故、自己中心的に過去の恩に報いる道を選んだのだろうか。何故、日空界との間に争いの種を蒔くようなことをしたのか。日空界とは国交も無く、月空人が日空界の在る場所を知らないのと同様、日空人も月空界の在りかを知らないと思われるが、万が一、日空人が月空界の場所を何らかの方法で突き止め、攻め込んでくれば、父王が第一に考えていた青の国民の平和な暮らしは壊れてしまう。月空界の他の3国に被害が及べば、その3国との関係も危うくなってしまう。過去に恩を受けたとは言え、国交が無いのは地表界も同じだ。放っておいても何ら問題は無かったはず。関わりあいにならないほうが良かったのではないか。……父王の考えはどうあれ、自分が青の国の王女であると名乗ってしまったことは、あまりに軽率だったと、今になって思う。何も考えていなかった。怖いものなど何も無かった。若かったのだな、と思う。それに比べ、今は、本当に怖いものだらけだ……。
 ショーコは小さく息を吐き、首を横に振るう。
(…今さら気にしてもね……。実際に言っちゃったのは、6年も前だし……)
 親友が、時々、青の国の様子を知らせてくれるが、幸いなことに、ショーコの軽はずみな発言の影響は無かったようで、平和な日々を過ごしているらしい。

四界戦記 月空界・地表界編外伝~ずっと、この腕のなかに・・・~ (7)

                *

 対日空人の戦いは、ショーコの予想以上に長引いた。

 ショーコは、地表界に出発する前から、自分がどう戦うか決めていた。
 日空界の軍隊がどれほどの規模のものか分からないが、こちら側は自分ひとり。数の上で不利であることは分かりきっている。予定外に慎吾が味方についたが、やはり人数的に不利であることに変わりは無い。と、なれば、とるべき戦法は1つ。日空軍の陣地を突き止め、目標を軍の最高責任者1人に絞る。出来れば話し合いで、それが無理であれば力ずくで、軍を引き揚げてくれるよう責任者を説得するのだ。 
 ただ、実際に地表界に来てすぐ、話し合いは不可能かもしれないと感じた。自分を助けようとしてくれた慎吾の身を守るためショーコが日空人を傷つけたことで結論を急ぎ、攻撃を仕掛けてくるような人種と話し合いなど出来るわけがない。日空人が皆そうとは限らないが、30人もいて誰も止めないのだ。ほぼそうであると考えていい。もっとも、その時の30人は、上の命令で動く軍人だ。30人という人数のうち1人として異論を唱えなかったということは、命令に忠実に従っての行動であったと考えるのが自然。つまり、ショーコが、出来れば話し合いでの解決を、と望んでいた相手である日空軍の責任者が、話しの出来ない人物かもしれないということになる。
 話し合いなのか力ずくなのか、手段はとりあえず置いておき、先ずは陣地を突き止めなければならないのだが、これが苦労した。
 当初の計画では、日空人が1人でいるところを捕まえて陣地の場所を聞き出すはずだったが、実行に移したところ、捕まえた日空人に、答えを得る前に自殺されてしまい、その方法に慎吾が強い拒絶反応を示したため、急遽変更。尾行で突き止めることにした。
 頭の中に直接語りかける方法で会話する日空人には、近くで何かハッキリと考え事をしていたりすると聞こえるらしく、尾行は困難。それでも、他に方法が考えられないため、出来るだけ無心になって、ショーコは空(初めのうち、ショーコは良いイメージではい黒い翼を気にして徒歩だったが、スピード面でどうにもならず、日空人を退却させればすぐに青の国へ帰る身だからと開き直り、翼を使うことにした)、慎吾は自転車に乗り地面の上で、それぞれ幾度も尾行を繰り返す。
 抵抗する者に容赦ない日空人だが、先の戦闘でショーコの力量を知ってか、尾行に気づいても撒くだけにとどめ、一切、攻撃してくることはなかった。

四界戦記 月空界・地表界編外伝~ずっと、この腕のなかに・・・~ (8)


                *


 ショーコが地表界に来てから3ヵ月が経過した頃、ようやく、慎吾の家より翼で飛んで30分ほどの場所に建つ公立小学校を、日空軍が陣地としているのを、ショーコが見つけた。
 その時までに、地表人は見事なまでに日空人によって連れ去られ、少なくとも、慎吾の家の周辺では、全く地表人を見かけなくなっていた。
 陣地を突き止めても内部の様子など全く分からず、作戦をたてようがないため、即日、ショーコと慎吾は乗り込むことにした。
 移動手段が自転車の慎吾にとって、家から日空軍の陣地への道のりは遠い。ショーコは、自分が飛びつつ慎吾を月空力で飛ばせて、陣地へと向かう。


 日空軍の陣地上空に到着し、陣地を囲うフェンス内側にゆっくりと降りたショーコと慎吾は、あっという間に50人ほどの日空人に囲まれた。
 ショーコは自分たちを囲む日空人たちを見据えつつ、慎吾に向かい、
「伏せてっ! 」
慎吾が素早く地面に伏せるのを目の端に確認し、左右の腕をそれぞれ真横に突き出し、
「ハアアッ! 」
右足を軸に回転。月空力で、日空人50人をいっきにふっ飛ばした。
 回転を止め、小さく息を吐くショーコ。
 慎吾は身を起こし、近くに仰向けに転がった日空人に歩み寄って、片膝をつき、その顔を覗き込む。
 覗き込まれた日空人は、恐怖からか飛び上がるように上半身起き上がり、いざる格好で後退り。
「ここの責任者は、どちらにいらっしゃいますか? 」
との慎吾の言葉に、その日空人は後退りを続けながら、震える手で校舎を指さした。同時に、その日空人のものらしい、パニック状態、完全意味不明の声が、ショーコの頭の中に響く。どうやら日空人は、近くでハッキリと考え事をしている人の思考が聞こえるのと同様、日空人のほうも、興奮し、大声(? )で何かを考えると、伝える意思が無くとも周囲の人に伝わってしまうようだ。  
 直後、その日空人は、体の中身を全て吸い取られたようにフウッと目を閉じ、一瞬ユラッと不安定になった上半身は、再び、力なく空を仰いだ。
 慎吾はショーコを見、親指を立てて校舎を指し、
「あの中だって」
立ち上がって校舎のほうへ向き直る。
「行こう」
ショーコは頷き、慎吾の横に並んで校舎へと歩いた。


 昇降口を入ると、8人の新手の日空人が、ショーコと慎吾の行く手を阻んだ。
 ショーコは、すぐに動けるよう身構え、その隣で慎吾は、昇降口を入ってすぐの壁に立て掛けてあった、昇降口の清掃に使用すると思われる1.2メートルほどの柄のワイパーを逆さに掴み、構えた。
「コレ以上進マセルナッ! 」
興奮している日空人の声は、頭痛がしてくるくらいの大音量で、ショーコの頭の中に響く。
 8人を倒して進んだ後も、ポイントポイントで現れる日空人たちは、皆、一様に興奮し、頭の中への直接の大音量で、的確に、ショーコたちを責任者のもとへ導いた。
「階段ヲ上ラセルナ! 」
「4階ヘ行カセルナ! 」
「左ニ行カセルナ! 」
「音楽室ニ行カセルナッ! 」


 階段を4階まで上り、階段から見て左手側へ進むと、突き当たりに音楽室はあった。
 ショーコは、いっきにドアを開け放ち、音楽室内へ踏み込んだ。慎吾が、すぐ後ろに続く。
 音楽室の中では、強めのパーマがかかった短髪の日空人が1人、窓辺に立ち、オレンジ色に染まり始めた窓の外を眺めていた。
 窓辺の日空人が、ショーコたちを振り返る。年齢は30歳くらい(やはり、実際の年齢は分からないが)に見えた。
 ショーコ、
「あなたが、地表界における日空界の軍隊の責任者ですか? 」
 窓辺の日空人は頷き、
「指揮官ノ、ターク デス」
「私は……」
ショーコが自己紹介しようとしたのを、指揮官・タークは、両手のひらを見せ、止めた。
「ソチラノ地表人ノ青年ハ存ジマセンガ、アナタノ事ハ、部下カラ聞キ、存ジ上ゲテオリマス。月空界・青ノ国ノ姫君、デスネ? ゴ要件モ存ジテマスガネ……」
そこまでで一旦、ショーコの頭の中へ流れ込んできていたタークの言葉は止まる。タークは表情を隠すように下を向いた。
 と、すぐ次の瞬間、タークは腰に差してあった小剣を抜き、逆手に持ってショーコに襲いかかった。踏み込みが速い。
 一瞬で間合いを詰められ、ショーコはギリギリ皮一枚でかわす。
 これまで戦った日空人たちとは、明らかにレベルが違う。
 素早く体勢を立て直し、タークは再びショーコに切っ先を向けた。
(避けきれない! )
固まるショーコ。
 慎吾が、ショーコを後ろから二の腕を引っ張って強引に自分の背中に隠し、ワイパーの柄で、タークの小剣を握る手を打つ。
 タークは小剣を床に落とした。
 すかさずショーコが、月空力でタークを壁に叩きつける。
 壁からズルッと床に崩れるターク。
 ショーコは軽く息を吐いた。
 タークは補助的に床に手をつき、ガクガク震える脚で立ち上がろうとするが、出来ずに膝をついた。
 ショーコはタークに歩み寄り、片膝をついて視線を合わせる。
「殺すつもりはありません。地表界の人々を解放し、軍を退いて下さい」
 タークは無言で視線を逸らした。
 ショーコ、背後に気配を感じる。タークが他の日空人と同様の、手を触れずに物を動かす能力で、ショーコの背後の机を動かし、ショーコに狙いを定めていることに気づいたのだ。
 慎吾も気づき、
「ショーコさん! 危ないっ! 」
叫ぶ。
 同時、ショーコはタークを見据えたまま、月空力で、背後の机を出来るだけ派手に破壊した。
 先程、タークに小剣を向けられた時には、本気で危なかったのだが、ショーコ、
「無駄です。あなたは、私たちに勝てない」
視線に力を込め、はったり。
 タークはガックリと項垂れ、
「何故、全テノ世界ノ タメニ戦ッテイル我々ノ邪魔ヲ スルノデスカ? 」
 ショーコはその問いには答えず、逆に問う。その大義名分は、先に戦った軍人も語っていたが、国としての方針なのか、自分たち青の国民は、日空人の地表界への攻撃を、大地を手に入れるためのものと考え、侵略と位置づけていたが、それは完全な間違いなのか、と。
 タークの答えは、
「全テノ世界ヲ守ルタメノ戦イ デス。大地ハ当然ノ報酬デス」
 ショーコは、軽く吐き気を覚えた。


 その後すぐに、ショーコと慎吾の立ち合いのもと、地表界の人々は解放され、日空軍も去り、ようやく、対日空人の戦いは終わりを迎えたのだった。

四界戦記 月空界・地表界編外伝~ずっと、この腕のなかに・・・~ (9)


                *


 一度、慎吾の家に戻って荷物をまとめ、月空界に帰るため、ショーコは、慎吾の家のベランダに出た。
 慎吾も、見送りに出る。
 慎吾、
「本当に、ありがとう。元気で……」
 返してショーコ、
「こちらこそ、ご協力、感謝します。お元気で……」
 別れの言葉を交わしたものの、別れを惜しんで慎吾を見つめるショーコ。数分の後、思い切り、
「じゃあ……」
背を向けた。
 だが、すぐに肩越しに振り返り、
「あの……」
「ん? 」
「あのね……」
言おうとして、躊躇う。
 実は、1週間ほど前から、ショーコは、自分の体の異変に気づいていた。
 妊娠している、と。
 物に手を触れずに動かす能力に比べ、一応持っている、程度の弱い能力であるが、ショーコは、透明でない入れ物に手を触れることで、その中身を透かして見る能力を持っている。
 少し体調を崩していた1週間ほど前のある日、ショーコは何の気なく自分の下腹部に触れ、見たのだった。……腹の中に、自分とは別個の生命体が存在しているのを。
 まだ、小さな小さな、しかし、もう、しっかりと人間の形をした、胎児だ。
 間違いなく、慎吾の子供。
 慎吾に言うべきかどうか、この1週間、ずっと悩んでいた。
 自分と慎吾は、同志以外の何ものでもない。
 あの夜、成り行きで、一度限りの関係を結んだだけなのだから……。



 ショーコが地表界に来てから丁度1ヵ月が経った日の、あの夜、昼間の出来事のショックから慎吾が眠れずにいるのを、ショーコは気配で感じ、気になって寝つけなくなってしまっていた。

 昼間、地表界の少女が1人、ショーコと慎吾の目の前で命を落とした。
 日空軍の陣地を突き止めるため、慎吾が尾行をしている最中の出来事。
 慎吾と別行動をしていたショーコが、その場に居合わせたのは、偶然だ。
 尾行するにあたって、ショーコと慎吾、2人で決めた決まり事が、1つだけある。
 それは、尾行にのみ徹すること。
 向かう先は陣地であろうとの推測から、日空人が地表人を連れている時を狙って尾行していたのだが、連れて行かれる人を助けようとしてはならない、ということだ。
 理由は、抵抗する者に容赦ない日空人たちが、捕まえた地表人が逃げようとした時、どんな酷い仕打ちをするか分からない、最悪の場合、殺すことも考えられるため。
 連れて行かれた後も、どんな仕打ちを受けているか分からないが、生き延びていてくれると信じ、地表界における日空軍の最高責任者に解放を求める方法が、最も安全であると考えたからだ。もっとも、連れて行かれる途中の地表人の多くは、納得の上で連れて行かれているため、何処の何者とも知れないショーコや慎吾が助けようとしたとしても、素直に助けられてくれないであろうが……。
 ただ、昼間の少女は違った。
 慎吾は、少女を片腕で抱えて海の上を飛んでいる日空人を、海沿いの道、自転車で追っていた。
 ショーコは、自分が追っていた、地表人を連れた日空人に撒かれ、諦めて、新たに追うべき日空人を探している最中だった。
 少女は慎吾を見つけ、助けを求めた。
 悲痛な声で叫び、日空人の腕の中でもがき、慎吾に向かって腕を伸ばす。
 一瞬、日空人が不快な表情を見せたような気がした。
 直後、日空人は空中に直立の姿勢で静止し、無表情で、体ごと慎吾を振り返った。
 おそらく状況が掴めず、警戒する意味で停まり、自転車から降りた慎吾。
 日空人は徐に少女の頭に手をのせた。そして、横方向に力を加える。
 鈍い、嫌な音がした。
 少女の頭と四肢は力を失い、ダランと垂れた。
 日空人が少女を抱える腕を放すと、少女は人形のように海へ。
 慎吾は自転車を放り出し、素早く服を脱ぎ捨てながら、おそろしく冷たいはずの海へと走り、飛び込んだ。
 日空人は、宙に止まっているショーコを一瞥してから飛び去った。
 ショーコは、慎吾が飛び込んだ地点、狭い砂浜の上に降り、慎吾が脱ぎ捨てた服を拾い集め、両手で抱えながら水面を見つめる。
 ややして、少女を抱えた慎吾が海から戻った。
 砂の上に少女を寝かせ、慎吾は思いつめた表情で、少女の鼻に手のひらを近づける。次に胸に耳を当て、最後に、首に手で触れた。
 慎吾の目から、パタパタと涙が零れる。
「…ゴメン……、ゴメン……、ゴメン……、ゴメン……、ゴメン……、ゴメン……」
全身を震わせながら、かすれた声で小さく繰り返す慎吾。
 少女は、首の骨が折れていたのだった。

 その場を動こうとしない慎吾を、ショーコは、夕暮れ時になってやっと、何とか家まで連れ帰った。
 家に帰ってからも、慎吾は食事も摂らず、6畳間に籠りっきり。
 夜、ショーコが床に就き、静かに横になっていると、6畳間で慎吾が溜息を吐くのが時々聞こえ、それは、夜中になっても続いた。
 ショーコは悪いと思いつつも、6畳間と3畳間の間の壁に手を触れ、慎吾の様子を窺う。
 カーテンが開けっ放しのため外から入ってくる薄明かりの中、窓際のベッドの上で、慎吾は膝を抱えていた。
 ショーコは、ふと思いつき、台所に立って、片手鍋でミルクを温める。
 昔、ショーコが落ち込んで自分の部屋に閉じこもっていた時に、バアヤが温かいミルクを持ってきてくれ、そのおかげで少し気持ちが落ち着いたことを思い出したのだ。
 ミルクを慎吾のカップに注いで持ち、閉まっている6畳間の襖の前で、ショーコは慎吾の反応を気にしつつ、そっと、声をかける。
「シンゴさん、開けていい……? 」
 慎吾の応答は無いが、入ってくるなという空気も感じられない。
 ショーコ、
「入るよ……? 」
静かに襖を開けて、慎吾に歩み寄り、
「ミルクを持ってきたの」
慎吾にカップを差し出した。
「飲んで。温まるから……」
 慎吾は受け取り、沈んだ声で、ショーコと目も合わせず、
「…ありがとう……」
 ショーコは、慎吾がひと口飲むのを見届けてから、
「おやすみなさい」
3畳間に戻ろうと、慎吾に背を向け、襖へと歩いて、襖に手をかけた。
 と、
「ショーコさん」
 名を呼ばれ、ショーコは振り返る。
 慎吾は、ベッドの縁に畳の上に足を下ろす形で座りなおし、ショーコを真っ直ぐに見ていた。
「少し、話さない? 」
 小動物のような臆病な瞳で縋るように見つめられ、ショーコは首を横に振ることが出来ず、自分と話すことで少しでも気が紛れるのなら、と、慎吾の隣に腰を下ろした。
「…昼間の女の子、歳はもっと上だけど、最初に犠牲になったオレの仲間に、よく似てたんだ……」
慎吾は右肘を広げた脚の右膝に、左肘を左膝につけ、カップの持ち手を右手人指し指と中指に引っかけ、左手は軽く底に添えて持って、宙を見据え、ポツリポツリと話す。
「仲間が犠牲になるまで、オレたち、分かってるつもりで、本当は、全然分かってなかった……。大きな勢力に抵抗するって、どういうことなのか……」
慎吾は小さく息を吐き、視線を落とす。
「…本当に、そっくりだった……。オレに向かって腕を伸ばして、『助けて』『助けて』……。…また、助けられなかった……」
そしてギュッと目を瞑った慎吾の表情は、見ているショーコまで辛くさせた。
 ショーコは立ち上がって、慎吾の正面に回り、心の中で、
(ユウゾ、今だけ、ユウゾの能力を貸して)
呟き、そっと腕を伸ばして、慎吾の頭を自分の胸に引き寄せる。
 慎吾の全身の筋肉が、ビクッと緊張したのが分かった。
 しかし、ショーコが静かに慎吾の髪を撫でると、その緊張は、スウッと解けてなくなった。
 カップが畳の上に転がる。
 ショーコがカップに気をとられた瞬間、慎吾はショーコのウエストに腕を回し、そのままベッドに押し倒した。
 ショーコは驚いたが、拒もうとはしなかった。
 初めてだった。
 だが、慎吾ならいいと思った。
 組み敷いた形でこちらを見下ろす慎吾に、小さく頷く。

 腹の中の子供は、そうして関係を結んだ結果だ。



 ショーコは、首を軽く横に振るう。
(やっぱ、言わないにしよう)
シンゴさんには、きっと迷惑。……そう考えたのだ。
 ショーコは笑顔を作って見せ、
「ん、何でもない。間違えただけ……」
言って、顔を正面に向け、空を仰いだ。
 仕舞ってあった翼を出し、もう一度、慎吾を頭だけで振り返って、
「それじゃあ」
バササッと翼を動かし、宙に浮く。
(…これでいい……。子供は、シンゴさんと出逢えた記念に、大事に育てよう……)
 手摺から斜め上方へ1メートルほど離れたところで、ショーコは止まり、もう一度、と、振り返って慎吾の顔を見た。
 そして、三たび前を向いて翼を動かす。
 と、突然、左足首が何かで固定され、進めなくなった。
 見れば、慎吾が手摺から身を乗り出し、腕を伸ばして、ショーコの足首を掴んでいた。
 慎吾は、ショーコの足首を掴む手にグッと力を込め、いっきに引っ張る。
 ショーコはバランスを失い、慎吾の腕の中に落ちた。
 慎吾はショーコを腕から下ろしてから、
「『何でもない』って感じじゃ、ないんだけど? 」
真剣な表情でショーコの目の奥を覗く。
「話してよ」
 真っ直ぐにショーコを見つめ、言葉を待つ慎吾。
 ショーコは、その視線に負け、話した。
 妊娠していること、間違いなく慎吾の子供であること、月空界に帰って産み、ひとりで育てようと考えていたこと……。
 ショーコが話し終えると、慎吾は無言で、ギュウっとショーコを抱きしめた。
 ショーコは息が出来ずに、
「シンゴさん! 苦しいっ! 」
もがく。
 慎吾は慌てて、ゴメン、と言い、腕を緩めた。
 そして再び、しっかりとショーコを見つめ、緊張気味の声で、
「結婚しよう、ショーコさん」
 唐突な言葉に、ショーコは驚く。
 慎吾は、
「結婚、して下さい」
繰り返す。
 驚きすぎて声が出ないショーコ。
 慎吾は、あの夜のことを成り行きだなどと思っていないと言った。ショーコが愛しいと言った。「ショーコさんと離れたくない」慎吾の願いを神様が聞き入れて、離れなくてすむよう子供を授けてくれたに違いないとまで言った。
 ひとつひとつの言葉を大切に、丁寧に、慎吾はゆっくりと語りかける。
「子供を、一緒に育てさせてほしい」
 驚きは治まったが、代わって、感動がショーコの声を奪っていた。
 ショーコは慎吾の首に両腕を絡め、何度も何度も、ただ、頷いた。 

四界戦記 月空界・地表界編外伝~ずっと、この腕のなかに・・・~ (10)


                *


 ショーコは、対日空人の戦いについての報告、そして、ショーコにとっては、もっと重要な話を父王にするため、一旦、青の国へ帰った。
 ショーコが地表界へ出発した時には病床にあった父王は、完全に健康を取り戻し、書斎にて執務中だった。
 ショーコの対日空人の戦いについての報告を受け、父王は大変喜んだ。
 椅子から立ち上がり、ショーコの肩を叩いて労をねぎらう。
「ご苦労であった。やはり次期王は、ショーコ、お前だ。国民も、お前を王として認めるであろう」
 満足げな笑みを浮かべる父王を前に、ショーコは、戦いの報告よりも、ショーコにとって重要な話、慎吾との結婚の話をなかなか切り出せずにいた。
 父王も満ち足りた気分を、粉々に打ち砕くものと分かっているからだ。
 それでも、
「…父上、そのことですが……」
言わないわけにはいかない。
 重々しく切り出したショーコの態度に、父王は、
「ん? 何だ……? 」
スッと笑みを消し、ショーコを見つめる。
 ますます言い辛くなるショーコ。
 だが、言わないわけには……。
 ショーコは一度、目を伏せ、深く息を吐いて腹を据えた。
「私は、地表界の男性を愛しました。既に、彼の子供も身籠っています。彼と結婚し、地表界で暮らそうと考えています」
 父王はわなわなと震え、
「…何と……」
絶句。その状態のまま数分の後、懸命に自分を落ち着かせ、
「お前は、王位継承者候補である自分の立場というものを、理解していなかったのか……? 」
低く、言葉を紡ぐ。
「…私は、確かに地表界が好きだ。仮にお前が王女などではなく、一般の国民の娘であったら、そして、やはり私も、王ではなく、一般国民の父親であったら、地表界の男性との結婚を喜んで認めていたであろう……。だが、お前は王女なのだ。王位継承者候補なのだ。王家の血、純粋な青の国の血統を守っていかねばならぬ立場なのだぞ」
 ショーコは、真っ直ぐに父王を見つめ、
「分かっています。ですから、私に王の資格はありません。王位は、ユウゾに譲ります」
 慎吾と結婚し、2人で子供を育てることは、もう、決めたことだ。それ以外の道は考えられない。
 父王に、理解してほしかった。祝福してほしかった。
 ショーコには母がいない。ただひとりの血の繋がった親に祝ってもらえないのは、寂しすぎる。
 祈りにも似た気持ちで、ひたすら父王を見つめるショーコ。
 父王は吐き出すように、
「私は、お前に継いでもらいたいと言っておいたはずだぞ! 」
言ってから、ショーコから顔を背け、首を横に振りながら深く溜息を吐き、
「…もうよい……! 出て行け! 二度と私の前に姿を見せるでないっ! 」
「父上っ! 」
 父王の方に縋りつき、強引に視界に入り込んだショーコの手を、
「出て行けっ! 」
父王は手で乱暴に振り払いざま、その手を足下の絨毯、自分の立っている位置とショーコの立っている位置、丁度、その中間に向けた。
 父王の手が向けられた位置から、火が出る。
 その火は、勢いよく燃えさかる炎の柱となった。
 炎の柱によって分けられた、ショーコと父王。
 すぐ次の瞬間、
(っ! )
炎の柱はショーコに襲いかかった。
 ギリギリで、何とかかわすショーコ。
 しかし、炎の柱はショーコの動きに合わせて動き、執拗にショーコを追い回す。
 たまらず、ショーコは転がるように書斎から出、背中でドアを閉めた。
(父上……)
 ドアに寄りかかった姿勢で項垂れるショーコに、
「…ショーコ様……」
バアヤが遠慮がちに声をかけた。
「王様も、いつか、きっと分かってくださいます」
「バアヤ……」
 バアヤはショーコの手をとり、自分の両の手で、そっと包む。
「バアヤは、いつでもショーコ様の味方でございますよ。どうか、地表界でお幸せに。そして、元気なお子を……」
「ありがとう、バアヤ……」
 
 ショーコはバアヤに見送られ、風の縁から地表界へと旅立った。
 父王から、二度と姿を見せるなと言われた以上、もう、青の国へは帰れないかもしれないという覚悟と、父王に理解してもらうためにも、必ず、慎吾と腹の中の子供と一緒に、幸せに暮らすのだという決意を胸に。

四界戦記 月空界・地表界編外伝~ずっと、この腕のなかに・・・~ (11)


              * * *



「まま」
 遠くで、何だかとても懐かしい声。
「まま、みてー」
 声は近づいて来、右肩から上腕にかけて、これもまた懐かしい重みと温もり。
「まま」
 声は耳もと。
 ショーコは、ハッと目を覚ました。
「まま、みてー」
 重みと温もりの正体は、立ち膝をし腹でショーコの上腕に寄りかかっている貫太だった。
(そっか、夢だった……)
夢の中で既に夢であると分かっていたはずだったのだが、いつの間にか夢であることを忘れ、浸りきってしまっていた。
 清次は、ショーコの腕の中で気持ち良さそうに寝息をたてている。
 ショーコは片手で、胸がはだけたままだったシャツを直した。
(懐かしい夢だったな……)
青の国、バアヤ、父王、ユウゾ、結婚する前の慎吾。そして、何より自分自身……。
 小さな何かが、チクリとショーコの胸を刺した。
 それは今朝のショーコの、慎吾に対する態度。

 今朝、慎吾は仕事に出掛ける際、ショーコに、
「行ってくるよ……」
遠慮がちに声を掛けた。
 ショーコは清次のオムツを替えながら、無言で、背中で見送った。…いつもならば、慎吾が仕事に出掛ける時には、ショーコは何をしている最中でも、中断して、ちゃんと玄関まで見送りに出るのだが……。
 特に何があったわけでもない。いつもと変わらない朝。
 自分で起きる自信の無い慎吾を、ショーコは前夜に頼まれていた時刻に起こす。
 現在、貫太の幼稚園は春休みで、ショーコの起床時刻は、慎吾を起こす時刻次第。
 慎吾は絶対、頼んであった時刻どおりには起きない。30分から1時間ほど、遅く起きる。
 そう分かりきっているため、最近は、ショーコも、慎吾を起こす時刻に朝食の仕度が間に合うようになど起きないようにしていた。
 それでも、頼まれている以上は、頼まれたとおりの時刻に、とりあえず声を掛けるため、起きなくてはならない。
 起きないと分かっている慎吾に、とりあえず一度、声を掛け、それから朝食の仕度を始めても、時間が余る。
 暫くの後、「ヤバイ」と独り言を言いながら、予定時刻より少なくても30分遅れで起き上った慎吾は、朝食も食べたり食べなかったり。しかも、その朝食は、トーストとミルクだけで簡単に済ますショーコと貫太とは別メニュー。慎吾だけのために用意したものだ。
 いつものこと。
 確かに普段から、慎吾のそういうところを不満に思ってはいた。
 本当に起きる時間を教えて欲しい。朝食を食べない日は、前日のうちに、朝食はいらないと言っておいて欲しい。そうしたら、自分も、あと30分なり1時間なり多く眠れるし、朝から、別メニューの仕度など余計な労力を使わずに済むのに、と。
 いつものこと。
 だが、今朝は許せなかった。
 清次の深夜の授乳時、上手に飲めずに、清次は、そのままグジュグジュ言いながら明け方まで起きていて、ショーコも眠れなかったのだ。
 やっと清次が静かになり、ショーコもうつらうつらしていたところへ、目覚ましが鳴った。
 その後の、いつもと変わらない朝。
 慎吾が起きてきて以降、ショーコは腹立ち紛れに慎吾と目も合わさず、無視し続けたのだった。

 慎吾だって、仕事で疲れているから起きれないのに、何故、不満が先にきてしまうのだろう。疲れを心配してあげられないのだろう。今みた夢の中で、落ち込んでいた慎吾に温かいミルクを持って行った優しさは、どこへ行ってしまったのだろう。
 今になって、反省。そして、そうだ、と、思いつく。
(晩ゴハンは、何か、シンゴさんの好きなものにしよう)
 慎吾は、あまり食べ物の好き嫌いが無い。
 何にしようかと、メニューを思い巡らせるショーコ。
 そこへ貫太が、
「みてー」
何度呼んでも自分のほうを向いてくれないショーコの正面に回る。
 ショーコは、ようやく完全に現実世界に引き戻された。
「ほら」
貫太は、手にしていたお絵かき帳の絵を見せ、
「なんの え でしょーか? 」
 貫太は、とても絵が上手い。そのため、何の絵かなど、見てすぐに分かるのだが、ショーコは、わざとらしく考える素振りを見せ、
「カンちゃんが、キーちゃんを抱っこしてあげてる絵? 」
 貫太はニンマリ、得意満面。
 その時、パササッと微かな羽音がし、1羽のカラスがベランダに降り立つのが見えた。
 怪我でもしているのか、その様子が何となく不自然なように感じ、気になって、ショーコは腕を伸ばして窓を開ける。
「ショーコ姫…様……」
 カラスは、ヨロヨロとショーコに歩み寄った。やはり怪我をしている。しかも、かなり酷い。
 月空人は、カラスと話が出来る。地表界に来たばかりの頃、ショーコは、カラスの言語も月空人や日本人と共通だと思い込んでいたが、ショーコがカラスと話している時にたまたま居合わせた慎吾から、カラスの言葉は地表人には通じない、と言うより、そもそも聞こえていないと教えられた。気味悪がられるおそれがあるため、地表人の前ではカラスと話さないほうがいい、とも。
 酷く傷つき弱ったカラスの姿に、ショーコは驚き、反射的に腰を浮かせ、
「ハナコさんっ? 」
悲鳴を上げる。
 ハナコ、と呼ばれた、その傷ついたカラスは、ショーコの親友。
 ハナコは、月空界と地表界を頻繁に行き来する。バアヤの死も、彼女から知らされ、また、時々青の国の様子を知らせてくれるのも、彼女だった。
 ショーコは一旦、清次を座布団の上に寝かせ、ハナコを、壊れやすいものを扱う時のように、そっと両の手の上に抱き上げる。
 ハナコは懸命に嘴を動かし、ショーコに何かを伝えたがっているように見えた。
 体に障るから喋らないほうがよいとのショーコの言葉に首を横に振り、息も絶え絶えにハナコが伝えた内容は、衝撃的なものだった。
 青の国が日空界から攻撃を受け、壊滅状態。国土は占領され、生き残った人々は捕虜となった。父王は死亡が確認され、ユウゾは行方不明であると言うのだ。
(…そんな……)
 何とか伝えたいことを全て伝えきった様子のハナコは、ショーコの手の上で息を引き取った。
(…ハナコ、さん……)
ショーコは、グタンと力を失い重さを増したハナコの体に、頬を寄せる。
(…父上が、死んだ……。ユウゾが、行方不明……。青の国が壊滅……。ハナコさん、も……。…どうして……? どうして、どうして……? )
ハナコから伝えられた内容、そして、たった今、目の前で起こった現実だけが、ショーコの頭の中をグルグル回る。あまりのことに、何の感情も湧かない。
「まま? 」
貫太が不思議そうにショーコの顔を仰いだ。
 そこへ、バササッと大きな羽音。
 ショーコはハッと顔を上げ、外に目をやる。
 こちらを、ベランダの手摺の向こうから見据える、羽音の主と目が合った。
(ターク! )
実際には、以前戦った時に会っているだけな上に、当然、少し年もとっているが、間違いない。先程、夢の中で会ったばかりだ。

四界戦記 月空界・地表界編外伝~ずっと、この腕のなかに・・・~ (12)



 タークはゆっくりとベランダに降り立つ。
 ショーコは、ハナコを片腕に移して、清次をもう片方の腕に抱き上げ、貫太を自分の後ろに隠すようにして立ち、タークを見据えた。
 不敵な笑みを浮かべたタークの言葉が、ショーコの頭の中に響く。
「オ元気ソウデスネ、青ノ国ノ姫君」
「ターク……」
何の用か、と、ショーコは警戒する。
 青の国は日空界の攻撃を受けて壊滅状態であると聞いた。
  タークは日空界の軍人。自分は青の国の王女。お茶を飲みに来たのでないことだけは分かる。
「アナタノ オ子サン デスカ? 可愛イ デスネ」
 ショーコの清次を抱く手に、力が入る。
  5歳児でも不穏な空気が分かるのか、貫太は、キュッとショーコのウエストにしがみついた。
「日空界が青の国を攻撃したと聞きました。本当ですか? 」
 ショーコの問いに、ターク、
「本当デアッタトシタラ、ドウナサル オツモリ デスカ? 」
ニヤニヤ笑いながら返す。
「理由が知りたい」
 タークは、ニヤニヤと嫌な笑いを浮かべたまま、イイデショウ、と言い、答えた。
 当初は、平和的な交渉であったという。日空界は再び地表界に軍を進めることを決定したため、青の国に出向き、前回のような妨害工作をしないでいただきたい、と。しかし、交渉は決裂。戦争になったそうだ。そして、青の国は壊滅に追い込まれた。
(…前回のような、妨害工作……? )
それは、間違いなく、6年前の日空界による地表界侵攻の際に、ショーコがとった行動のことだ。
(私の、せいだったんだ……! )
ショーコは、一度、大きめに息を吸い込んだのを最後に、呼吸が出来なくなってしまった。
 自分が6年前、青の国の王女であると名乗り、王の命を受けてのことだなどと発言したばかりに、父上は、ユウゾは、青の国は……。
 先程の夢の中でのショーコの不安が、現実のものになってしまった。
 あの夢は、ただの夢ではなかったのだ。…虫の、報せ……。 
 苦しい。
 ショーコの目に涙が滲む。
「ツイ先程、私ヲ含メ、私ノ率イル小隊ハ、地表界ニ到着シマシタ」
 話し続けるタークの言葉に集中出来ない。
 タークは、フッと真顔になり、
「今回、私ハ、指揮官デハ アリマセン。偶然、アナタノ思考が聞コエ、辿リ、見ツケルコトガ 出来タタメ、立チ寄リマシタ。上ノ命令デハ アリマセン。私ノ」
目に暗い影を落として、
「個人的恨ミヲ晴ラスタメデス! 」
腰に差した小剣を勢いよく抜いた。
 小剣の刀身が太陽の光をキラッと反射した瞬間、ショーコの意識は、ハッと、タークに集中。呼吸もふつうの状態に戻った。
 判断力及び動作を鈍くするおそれのある、頭の中にモヤっと残るショックを一時的に振り払うべく、ショーコは頭を横に強く振る。
 タークの踏み込みは速いと知っている。
 特に、貫太と清次のいるこの状況では、先手を打つ必要がある。
 ショーコは、清次とハナコを何とか右腕と肩だけで支え、今からとび出す予定の、長年仕舞いっ放しになっていた翼にぶつからないよう、貫太を少し下がらせてから、左手をタークに向けて構えた。
 ショーコの背から、翼がとび出す。
 タークを弾き飛ばすべく、ショーコは本気の力をタークの胸あたりに集中させ、
「ハアッ! 」
放出した。
が、タークは空いているほうの手をグッと握っただけで、その場に踏み止まった。
 ニヤリと笑うターク。
(どうしてっ? )
一瞬、ショーコは月空力を緩めてしまった。
 その隙をついて、タークは小剣を逆手に持ち、笑いながらショーコに向かって突進。
 ショーコは、今度は手を使わず、タークの進路を阻むべく、テレビを、ちゃぶ台を、本棚を、ゴミ箱、新聞紙まで、部屋中の動かせる物を全て、タークに投げつける。
(……! )
 タークは、それらを軽くかわした。
 ショーコは咄嗟に、タークに背を向け、左腕で貫太を自分に引き寄せ、貫太・清次・ハナコを胸に庇うように身を屈める。
 タークが終始薄ら笑いを浮かべていたのは、自信からだったのだと悟った。
(お願い! カンちゃんとキーちゃんだけはっ! )
ショーコは、ギュッと目を瞑る。
 その時、玄関のドアの開く音、玄関から台所を経由して4畳半への短い距離をこちらへ向かって走る足音。
 直後、
「ヒッ、ウアッ! 」
パニック気味のタークの声が頭の中に響いた。
(……? )
ショーコが顔を上げ、振り向いて見ると、慎吾がタークに跳びかかったところだった。
 慎吾とタークは揃ってカーペットの上に転がり、代わる代わる、上になったり下になったり、揉み合う。
 慎吾は、自分が上になったタイミングで、必死にタークを押さえつけながら、ショーコを仰ぎ、
「子供たちを頼むっ! 」
「…でもっ……! 」
ショーコは途惑った。
 タークは以前に戦った時にも強かったが、今は、その時とはレベルが違う。慎吾ひとりを残して逃げるなど出来ない。
 しかし、
「早くしろっ! 」
 普段めったに声を荒げることのない慎吾に噛みつくように叫ばれ、その迫力に圧されて、ショーコは頷き、貫太と清次とハナコを連れて隣の6畳間に入り、襖を閉め、逃げるべく、窓に手を伸ばした。
 が、やはり慎吾が心配だ。
 ショーコは伸ばした手を引っ込め、6畳間内の押入れへと歩き、開けて、押入れ下段の荷物を少し引っ張り出して小さな隙間を作ると、その隙間に貫太を座らせて清次を抱かせ、貫太の隣のダンボールの上にハナコを横たえた。
 そして、
「カンちゃん、ママがいいって言うまで、出てきちゃダメだよ」
言って、不安げな貫太の顔を見つめる。
 死ぬ覚悟でいるわけではない。自分がいなくなってしまったら、貫太も清次も困るだろう。それ以上に、自分が、もっと貫太や清次と一緒にいたい。必ず、戻ってくる。……そう心の中で呟きながらも、以前とは比較出来ないくらい強くなったタークを相手にすると思うと、不安が消えない。名残は尽きない。
 と、4畳半からガラスが割れる音。
 こうしている間にも、慎吾の身が危険に晒されている。
 ショーコは首を横に強く振って、ほとんど無理やりに不安を振り払い、両腕を伸ばして、貫太をキュッと清次ごと抱きしめた。一度、深く貫太を呼吸してから、ゆっくりと体を離し、静かに押入れを閉める。

四界戦記 月空界・地表界編外伝~ずっと、この腕のなかに・・・~ (13)


 6畳間と4畳半の間の襖を、思いきり開け放ったショーコの目に、真っ先に飛び込んできたのは、体中にガラスの破片が刺さり仰向けに倒れている慎吾の姿だった。
(……っ! )
ショーコは声になりきらない悲鳴を上げ、慎吾に駆け寄って、その脇に膝をつく。
 慎吾は目を見開いた状態で身じろぎもしない。
 ショーコは慎吾を見つめ、恐る恐る手を伸ばし、その頬に触れた。
 温かい。だが、動かない。
 ショーコは震える指先を滑らせるようにして、ゆっくりと慎吾の頬から鼻へと移動させる。慎吾は、息をしていなかった。
「タワイナイ デスネ」
ショーコの頭の中に、タークの声。
 顔を上げて見れば、タークはニヤニヤ。
 と、その時、背後で、
「ままー? 」
貫太の声。
(……! どうして出て来ちゃったのっ? )
 ショーコは貫太を振り返って叫んだ。
「来ちゃだめっ! 」
 清次を重たそうに抱えて、貫太は途方に暮れたようにショーコを見、
「…だって、さみしかった から……」
その目を涙でいっぱいにする。
「アナタヲ 苦シメル タメニハ、先ズ、オ子サンヲ 狙ウベキ ノ ヨウデスネ」
(! )
タークの言葉に、ショーコはタークに視線を戻して立ち上がり、貫太と清次を背に庇って、キッとタークを見据える。
 タークは、ニタァーと口を横に広げて笑った。
 瞬間、ショーコの背後でパササッと羽音。
 ショーコが振り返ると、ほんの少し前まで貫太に抱かれていたはずの清次の背から、小さな黒い翼がとび出し、彼を宙に浮かせていた。
(キーちゃんっ? )
ショーコは驚く。
 清次に翼など、初めて見た。
 貫太も驚いた様子でポカンと口を開け、宙に浮いた清次を見、ややして驚きから立ち直ったらしく、自分の背中に短い腕を回し、両の手のひらで確かめるようにペタペタ触った。
 その時、
「ふえええええっ! ほえええええっ! 」
清次が、周囲にある物がビンビンと震動するくらい大きな声で泣き出した。
 これまで聞いたことのないほどの大声に、ショーコは面食らい、貫太は耳を塞ぐ。
 そして、最も強い反応を示したのは、タークだった。
 両耳を塞ぐような形で頭を抱え、カーペットの上を、のたうち回る。
 タークの混乱しきった思考が、ショーコの頭に流れ込んできた。
 泣き続ける清次。
 タークは苦しげに顔を歪めながら立ち上がり、頭を抱え、前傾姿勢でヨタヨタと窓まで歩いてから、力を振り絞って、といった様子で、
「今日ノ トコロハ、ココマデ デス」
 フラフラとベランダに出、弱々しく翼を動かし、去っていった。
 タークを追い払ったのは、間違いなく清次の泣き声。清次の月空力だ。
 翼を見たのが初めてなら、能力を見たのも初めて。
 ショーコと貫太には、うるさいだけで特に影響が無かったが、おそらくタークには、体の内部を傷つけたか、あるいは、精神に作用して苦痛を与えたかの、どちらかなのだろう。
 当然まだ上手には飛べない清次は、不安定に宙に浮き、泣き続けている。
 ショーコは腕を伸ばし、清次を抱き取った。
 両腕で包み込むように抱き、少し揺すってやると、清次は泣き止み、疲れたのか、スウッと眠った。
 貫太が、アッと小さく声を上げた。
 困ったように、泣きそうに、
「ままー」
ショーコのシャツの裾を引っ張る。
 その視線の先には慎吾。
 ショーコは、清次を右腕だけで支え、空いた左手で貫太の頭を引き寄せて腹に押しつけることで、その目を塞いだ。
 と、部屋の隅、台所との境に、コンビニエンスストアの小さなビニール袋が転がっているのが目に留まる。
 その中から、カップ入りのレアチーズケーキが覗いていた。……ショーコの、好物。
(…シンゴさん……)
 それは、今朝のショーコの態度に対しての慎吾の気持ちに思えた。
 ショーコの不機嫌の原因が自分だと気づいていたかは分からないが、そこにあるのが、ショーコを気遣う優しさであることは分かる。
 ショーコが慎吾に持てなくなっていた、優しさ。
 鼻の奥が、ツンとなった。
 涙が、後から後から……。止まらない。


 貫太と清次を抱いたまま、溢れ落ちる涙もそのままに立ち尽くすショーコの脳裏を、色々なことが、ハッキリとした形を持たず、浮かんでは消え、浮かんでは消え……。
 慎吾に優しくしてあげられなかった後悔と、今さら強く感じる愛情。
 父王のこと、ユウゾのこと、青の国のこと、その全てが自分のせいであること。
「今日ノ トコロハ」と言い残して行ったターク。
 これからの、自分たち母子のこと……、そこまでで、ショーコの涙は止まった。
 ハッキリと形を持ったものが、頭に浮かんだのだ。
 それに取り憑かれたような感覚で、ショーコはベランダへと歩く。
 ショーコに頭を抱えられたままの貫太が、引きずられそうになって、焦って足を動かしながら、
「まま? 」
不思議そうにショーコを仰いでいるのが、目の端にチラリと映った。
 ベランダの手摺の前で、ショーコは翼を仕舞い、手摺の向こうの地面を覗いた。
 ここは4階。下は硬いコンクリート。
 翼無しで飛べば、シンゴさんと一緒に行けるかもしれない。カンちゃんとキーちゃんも、一緒に……。
 …家族みんなで、穏やかに暮らそう。ハナコさんは、もう、向こうに着いたのかな? バアヤに会ったら、キーちゃんを紹介しよう。きっと、可愛い可愛いって頬ずりするね。父上には、どんな顔をして会おう? ちょっと気まずいな……。ユウゾには、会えないことを祈るけど……。
 夢見心地で、右腕の清次を手摺の外へ差し出そうと、そっと、自分の胸から少し離した。
 瞬間、ショーコの頭を、ふと、慎吾の言葉が過ぎった。
「子供たちを頼む」
 ショーコはハッとする。
 自分は一体、何をやっているのだろう、と。せっかくシンゴさんが命懸けで守ってくれたのに……、と。
(私が、しっかりしなきゃ! )
清次を、元の通りに抱きなおし、腰を屈めて、貫太も、しっかり胸に抱きしめた。
(カンちゃんとキーちゃんを、守らなくちゃ! )



四界戦記 月空界・地表界編外伝~ずっと、この腕のなかに・・・~ (14)


            * 2 *



「ショーコちゃん、もう上がっていいよ。後は、僕がやっとくから」
夕方5時、ハンドパッカーで仕越し分のパックをしていたショーコに、30代後半のチーフ・黒田が声を掛ける。
 タークからの再度の攻撃を避けるため、出来るだけ急いで、出来るだけ遠くへ、と、まだ首も座っておらず長時間の外出は無理な清次を連れて1日で決めるという条件下では限界の距離である隣の町で、即日入居可の賃貸物件を探し、甘い審査を軽く通り抜け、タークの襲撃を受けた翌々日、ショーコたち母子は引っ越した。
 それから3ヵ月。タークのことがあり、離れている間の不安は大きいが、生活のため、ショーコは、貫太と清次を町立の保育園に預け、徒歩で通うには少し遠いスーパーマーケット「フレッシュマート」の鮮魚部でパート勤めをしている。

「お先に失礼します」
黒田に挨拶をして作業場を出、タイムカードを押してから、更衣室で着替え、ショーコは、職場で夕食の買物を済ませる。
 夕方の混雑時。人手不足でレジに駆り出された50代の女性店長のレジを通ると、店長、
「今日はハンバーグ? 子供って、皆、ハンバーグ好きですよね」
ニッコリ笑顔で話しかけてきた。
「子供さん、ママの帰りを待ってますね。お疲れさま」
「お先に失礼します」
ショーコも笑顔で返してから、買ったものを持ってサッカー台へ移動。レジ袋に詰めて、フレッシュマートを出、貫太と清次を迎えに保育園へ。


               *


 フレッシュマートから保育園へは、徒歩で15分ほど。
 丁度、フレッシュマートから自宅への道のりの中間地点くらいだ。
 フレッシュマートの前の道路を、左手方向へと坂道を上り、下り坂に転じてからも、ひたすら道なり。小学校と道路を挟んで向かいにある、車の入れない細い下り坂を下る。

 保育園の門を入ったところで、
「ままー! 」
園庭の砂場で遊んでいた貫太が、ショーコの姿に気づき、駆けて来て、腹にギュッと抱きつく。
 それを受け止め、ただいまを言ったショーコに、貫太はニコッと笑って頷き、回れ右。ちょっと得意になった感じでショーコの先に立って清次の保育室へ歩いて、保育室入口の引戸を開け、
「きーちゃん、ままが きたよー。かえるよー」
 保育室の中で、清次の担任が、貫太越しにショーコに会釈してから、マットを敷いた床の上で転がって獲物をむさぼる野獣のような凶暴な表情でガラガラを口に突っ込んで遊んでいる清次に向かい、
「清次くん、お迎えですよー」
声を掛けた。
 それから担任は、清次の荷物を持ち、清次を抱き上げてショーコの前まで来、先ず荷物、次に清次をショーコに引き渡しながら、今日の園での清次の様子を簡単に話す。
 一通り聞いてから、ショーコは担任に挨拶。
 担任が挨拶を返してくれてから、登園時に園に置きっ放しにさせてもらっていたベビーカーに清次を乗せ、ベビーカーの座席の下のカゴに買物の袋を入れて、今度は貫太の保育室へ。
 すぐに帰れるよう準備して、まだ降園していないクラスメイトたちの荷物と一緒に保育室前の通路に並べてある自分のカバンを貫太が背負うのを待ってから、ショーコは貫太と手をつなぎ、空いているほうの手でベビーカーを操り、園庭を見回して貫太の担任を捜す。
 門を入ってすぐ左手の滑り台横に、その姿を見つけ、貫太・清次と一緒にそこまで行って、声を掛けた。
 貫太の担任から、
「貫太くん、プールで顔を水につけれたんですよ」
清次の時と同じように今日の園での様子を聞いてから、挨拶をするショーコ。
 担任はショーコに挨拶を返してから、貫太にも、
「貫太くん、さようなら」
ニッコリ笑い、手を振る。
 担任に向かって、貫太は、バイバイ、と空いた手を振った。


                 *


 貫太と手をつなぎ、片手でベビーカーを押しながら、人工的に作られた貯水池の脇を、ショーコは自宅方向へ。
 歩きながら池を眺めていた貫太、
「かめ だ! 」
 見れば、どこかの家で飼われていたものか、妙に大きく成長したミシシッピアカミミガメが、茶色に近い緑色の水面にチョコンと顔を出していた。
「ホントだ。カメさんだねー」
 この町は、本当に長閑だ。
 ショーコたちの通る、この時間、貯水池の向かいのゴルフ練習場には全くひと気が無く、道を歩いている人もいない。
 しかし、立ち並ぶ民家からは、しっかり生活の気配。…煮物の匂い、焼魚の匂い、カレーの匂い、揚げ物の匂い……。
 現在、連日テレビや新聞で報じられている、首都圏で起こっている戦闘。……先日、初めて自分たちのことを日空人と名乗った白い侵略者相手の、それが、ここで生活していると、映画かテレビドラマか何かの中の出来事のように感じられる。

 ゴルフ練習場脇の細い坂道を30メートルほど上り、左へ曲がる。
  公民館前の横断歩道を渡り、少し行くと見えてくる、白い外壁の昭和時代に建てられた見るからに古いアパートの1階の一室。
 そこが現在、ショーコたち母子の自宅だ。

四界戦記 月空界・地表界編外伝~ずっと、この腕のなかに・・・~ (15)


               *


 玄関の前でショーコがポケットから家の鍵を出すと、貫太、
「かんちゃんが あけるー」
ショーコから鍵を奪い、鍵穴に差し込む。
 しかし、開けられない。
 古いアパートの玄関の鍵。開けるにはコツがあるのだ。
 鍵くらいで悪戦苦闘している貫太が、あんまり可愛くて、少し笑ってしまいながら、ショーコは貫太の手に自分の手を添え、鍵を開けた。
 鍵が開いた音が聞こえると、貫太はドアノブを掴んで、後ろへ体重を移してドアを開け放ち、家の中へ駆け込んで行く。
 ベビーカーに乗ると、短い距離でも眠ってしまう習性の清次は、今も、やはり眠っているため、ショーコはベビーカーのストッパーをかけ、動かないよう固定してから、先にカゴの中の買物の袋を玄関の中に運び、それから清次を片腕に抱き上げ、もう片手でベビーカーを畳んで持ち上げて、玄関を入った。
 ベビーカーは玄関の壁に立て掛け、ドアを閉め、内側から鍵をかける。
 靴を脱ぎ、清次を居間の座布団の上に寝かすべく居間へ向かいがてら、ショーコは台所の床に散乱している貫太のカバンと通園帽、園服を、溜息まじりに拾い集めて歩いた。
 そして、居間のテレビの前に陣取って保育園の男の子たちの間で人気の特撮ヒーロー・スーパーファイブのビデオを見ている貫太に、突きつける。
「ちゃんと片付けて」
 貫太はカバン・通園帽・園服を受け取り、
「はーい」
と返事するが、それらを抱えたまま、ビデオに見入り、片付けようとする気配がない。
 ショーコは座布団の上に清次をそっと寝かし、上にバスタオルを掛けてから、もう一度、貫太に、
「片付けなよー」
言ってから、再び玄関へ。
 置いたままにしてあった買物の袋を台所のテーブルの上に運び、夕食の仕度を始める。
  流しの横に包丁とまな板を用意し、玉葱の皮をむいていると、
「ままー」
背後から声が掛かる。
 手を休め、振り向くと、貫太が居間から出て来ながら、
「きょうの ごはん なあにー? 」
「ハンバーグだよ」
 ショーコの返事に、
「ちょうど たべたいと おもってたんだー」
と、貫太はニコニコして調子良い言葉を返した。
 夕食の仕度やメニューとは全く関係無いが、
「あ」
ショーコは、ふと思い出し、
「カンちゃん、カバンとお帽子と園服、片付けたの? 」
絶対に片付けていないと分かっていながら、聞いてみる。
 ニコニコしたままの貫太の答えは、やはり、
「あ、わすれてたー」
 そして、ショーコに何も言わせまいとしたのか、ニコニコ顔のまま、
「ごめんごめん、いま かたづけるよ」
言って、逃げるように居間へ。
 ショーコは玉葱の皮むきを再開。
 むき終え、水道でサッと洗って、みじん切りを始めたところで、また、
「ままー」
 振り返ると、貫太は折り紙製の手裏剣を片手に1つずつ持ち、
「みてー。ほいくえんで つくったんだよ。はるきくんが おしえてくれたんだー」
「そう。上手に出来たねー」
ショーコは笑顔で返しておいてから、
「ところで、カバンとか、片付けたの? 」
 すると貫太、
「あ」
独り言のように、
「そうだった そうだった」
言いながら、居間へと姿を消す。
 ショーコは溜息を吐いてから、みじん切りの続き。
 みじん切りを終え、ボールに移し、その中に挽肉も入れた、その時、ドスン。居間で震動。
 続いて、「とうっ! 」「はっ! 」と声。
(……? )
ショーコは仕度の手を止め、居間を覗きに行く。
「……」
ショーコは頭を抱え込みたくなった。
 居間の貫太は、背の低い棚の上から飛び下り、部屋中走り回り、手にしていた手裏剣を投げ、拾い、また投げ……。
 カバンと通園帽と園服は、テレビの前に転がったまま。カバンなどは中身まで散乱している。
 タークの一件以前のショーコであれば、こんな時、とっくに、せっかくキレイに片付けてあった部屋を散らかされたことで、片付けをした自分が可哀想になり、
「ちょっと! 何回言えば分かるのっ? さっさと片付けな! 」
などと、感情にまかせて怒鳴っていたはずだが、最近は、すっかり甘くなった。
 いつまで一緒にいられるか分からない。
 もしかしたら、1秒後には再びタークに襲われ、タークでなくても、他の、ショーコより強い日空人によって、3人一緒にではなくバラバラに連れ去られるなどして、離れ離れになってしまうかもしれない不安が、常につきまとう。
 貫太や清次と一緒にいられる、当たり前でない、宝物のような一瞬一瞬を大切にしたい。笑顔でいたい。悲しい顔など見たくない。
 大切にするのと甘やかすのは違うことくらい、分かってる。躾け上よくないことも、充分承知だ。
「…カンちゃん……」
ショーコは、そっと呼びかける。今は、それが精一杯。
 しかし、怒っているショーコのイメージが強いのか、貫太はピタッと動きを止め、ショーコを振り返り、
「あ、かたづけるよ……」
転がっているカバンに手を伸ばした。

                 

 夕食の仕度が丁度終わったところへ、清次の泣き声。
 貫太が大騒ぎしていた傍でも平気で眠り続け、今、ようやく目を覚ましたのだ。
 そろそろ、授乳の時間だ。
 ショーコは消毒済みの哺乳瓶に湯を入れ、冷蔵庫の中に作っておいた湯冷ましで温度を調節してから粉ミルクを入れて溶かす。
 ショーコは、このところ母乳の出がすっかり悪くなり、完全に粉ミルクに切り替えていた。
 ショーコが調乳している間、ショーコに「早く来い」とでも言っているのか、清次は狂ったように泣き続ける。貫太があやしてくれている声が聞こえるが、全く効果無し。
 貫太の赤ちゃんの頃に比べ、清次の泣き方は激しいような気がする。
 しかし、タークに襲われた時に現れた清次の翼は、ショーコが苦労して仕舞って(翼を自在に出し入れ出来るようになるには訓練が必要なため、今の清次が自力でそれをするのは無理)以来、現れていない。
 泣く度に翼が出てきてしまうのではないかと、ショーコは心配していたが、どうやら、激しい泣き方であっても、日常生活の中で泣くぐらいでは、翼は出ないようだ。
 翼の出現と、泣くという行為は、無関係なのかもしれない。
 考えてみれば、赤ちゃんにとって泣くことは自分の要求を伝える手段であり、言葉の代わりだ。大人の月空人が、言葉を発するだけで、仕舞ってあった翼がとび出すということなど、無い。それと同じだ。
 ショーコが哺乳瓶に作ったミルクを手に居間へ行き、座って、清次を膝の上に抱き上げると、清次はピタリと泣き止んだ。
 そして、ショーコが持っているミルクを見つけたのか、ミルクを飲む形に口を開ける。

                            

 清次の授乳後、ショーコが台所のテーブルの上に夕食を並べ、
「はーい、ゴハンでーす」
呼ぶと、貫太は、
「はーい」
と元気に返事をし、台所へ駆けて来て、自分の席に座る。
「いただきまーす」
と挨拶をし、食べ始めた貫太が食事中に話すのは、専らスーパーファイブのこと。
 このところ、いつもそうだ。たまに、
「きょう ほいくえんで、よっちゃんと すーぱーふぁいぶごっこ したんだー。よっちゃんが れっどで、かんちゃんが ぶるーで、さあちゃんが ぴんくで……」
といった具合に、保育園での出来事を話すこともあるが、やはり、スーパーファイブから完全には離れない。
 幼稚園に通っていた頃に比べ、保育園では、親が関わる場面が少ないため、本当は、もっと保育園での話を聞きたいのだが、特に何も言わないということは、特に問題無く楽しく過ごせているのだろうと解釈し、ショーコは、貫太の話の腰を折ってまで保育園での話を聞き出そうとしないことにしていた。



 夕食の後は、ショーコ・貫太・清次、揃って風呂の時間。
 それぞれの頭と体をキレイにしてから、3人一緒に浴槽で温まる。
 清次は、湯面を手のひらでパシャパシャ叩き、湯を飛ばして貫太の顔にかけて楽しそうに笑い、貫太も、湯をかけられては手のひらで拭い、嬉しそうだ。



 遊びながら温まった後、風呂から上がり、パジャマに着替え、歯磨きをして、寝室に布団を敷き、湯冷めしないうちに布団の中へ。
 ショーコを真ん中に挟んで、右に貫太、左に清次。3人一緒に1つの布団にもぐり込んだ。
 貫太のリクエストで、今日は、仔ダヌキを擬人化したキャラクターが活躍する絵本「オマメタヌタヌのぼうけん」を読む。
 清次も、まだ分からないだろうに、大人しく聴いていた。



 絵本を読み終え枕元に置いて、
「おやすみ」
横になったまま消せるよう長くした電気のヒモを引っ張る。
 少しもしないうちに、貫太も清次も、寝息をたてはじめた。
 遮光でないカーテン越しの外からの明かりに照らし出される貫太と清次の寝顔を見つめながら、ショーコは、このまま、この穏やかな日々が続いて欲しい、と願った。

四界戦記 月空界・地表界編外伝~ずっと、この腕のなかに・・・~ (16)

             
              * * *



 昼食から戻るついでに売場を手直ししてから、鮮魚部の作業場に戻ったショーコに、黒田、
「あ、ショーコちゃん、丁度良かった。電話だよ。保育園からだって」
手にしていた受話器を差し出す。
 保育園からだと聞き、貫太か清次に何かあったのではとドキッとしながら、ショーコは受話器を受け取り、
「もしもし、お電話代わりました」
ドキドキしながら受話器を耳に当てる。
 電話の相手は、
「こんにちは、保育園の下川です」
貫太の担任だった。
「あ、先生。いつも、お世話になってます」
 用件は、
「お母さん、すみませんが、すぐに貫太くんと清次くんを、お迎えに来ていただけますか? 」
 何があったのか、担任の話し方が変によそよそしい気がする。
 理由を聞いても、とにかく迎えに来てくださいとしか言わない。
 ショーコは電話を切り、黒田に許可をもらって、着替え、小走りにフレッシュマートを出た。



 小学校の向かいの細い坂を下ると、閉まった門の内側に、子供が1人、少し離れた後方に大人1人の人影が見えた。園庭に、他の人影は無い。
 迎えに来るよう連絡をよこしたからといって、すぐに来るとは限らないのだから、園庭に出て待つなど普通なら無い。しかし、遠目だが2つの人影の服の色、そして他に人影が無いという状況。それらから、人影は貫太と保育士の誰かであると判断出来た。
 胸騒ぎを感じ、ショーコは走る速度を上げる。

 門の数十メートル手前、門の内側に立つ2つの人影の様子がはっきりと確認できるようになった地点で、
(……! )
ショーコは思わず立ち止まった。
 清次を、貫太が重たそうに抱いている。
 清次の背には、翼。
 ああ、そういうことだったのか、と、ショーコは、呼び出された理由を理解した。
 少し離れて後方に立つ貫太の担任の隣に、貫太と清次の私物を載せた清次のベビーカー。
 ベビーカーに載りきらない分は担任が持ち、貫太と清次の、全てと思われる量の保育園に置いてあった私物が運び出されていた。

 ショーコが門の前まで行くと、貫太の担任が、持っていた貫太と清次の私物を、一旦、地面に置き、門を開けた。
 貫太が、転びそうになりながらショーコに駆け寄り、
「ゆうとくんが きーちゃんを おとしたんだよ。だいじょうぶかなあー? 」
 ショーコを待つ間、清次の身が心配で、不安で、仕方なかったのだろう。そして、ショーコの顔を見て安心したのだろう。それまで泣いてなどいなかったのだが、口を開いた途端、貫太の目から大粒の涙がパタパタと落ちた。
 ショーコは貫太の手から清次を抱きとり、片腕に抱きなおして、空いた腕で貫太の頭を自分の腹に引き寄せる。
「ママが来るまで、ずっと、カンちゃんひとりで、キーちゃんを心配してくれてたの? 」
 腕の中の貫太は、小さく頷いた。
 ショーコ、貫太の髪を撫で、
「キーちゃんは大丈夫だよ。キーちゃんは、強い子だから」
言ってから貫太を放し、清次を貫太の目線まで下ろして見せる。
「ほら、キーちゃんも、『にいに、しんぱいかけて ごめんね』って言ってるよ」
 貫太は涙を拭い、手を伸ばして、そっと清次の頭を撫でた。
 そこへ、
「あの……」
貫太の担任が、普段の会話をする時に比べ、不自然に距離をとった状態で口を開く。
 距離をとる理由は、明らかだ。
 清次の翼。……それ以外ない。
 地表人にとって黒い翼は、あまり良いイメージではないと、昔、聞いた。加えて、6年前と現在、白い翼だが、同じく翼を持つ者たちによって、地表人が大変な目に遭わされている。特に6年前などは、この地域からも大勢の人が連れ去られたことを考えれば、当然の反応と言える。
「申し訳ありません。私たちが少し目を離した間に、勇人くんが、清次くんを抱っこしようとしたらしいんです。頭は打っていないようなんですけど、念のため、病院で検査を受けられたほうがいいかも知れません。勇人くんのお母さんにも連絡を入れておきましたから、後ほど、勇人くんのお母さんのほうから、連絡が入るかと思います」
担任は、一息に必要最低限だけを話してから、運び出してあった貫太と清次の私物を全て、門の外側へ移動させ、
「緊急の職員会議の結果、すみませんが、当園では、もう、貫太くんと清次くんをお預かり出来ないことになりました。理由は、お母さんも察しがついていらっしゃると思います」
やはり一息に、貫太と清次を退園させる旨を伝え、ショーコと目も合わせず、
「失礼します」
退園の理由を理解し、仕方ないと受け入れたショーコの、「今までお世話になりました」との挨拶が終わらないうちに門を閉め、身を翻し、逃げるように駆け足で保育室へと去って行った。
 担任の背中を見送りながら、貫太、
「まさみせんせい、かんちゃんに さよーなら いってくれなかった」
寂しそうに、ぽつりと呟いた。



四界戦記 月空界・地表界編外伝~ずっと、この腕のなかに・・・~ (17)

               * * *



 貫太は台所のテーブルの自分の席に座り、俯き加減で、チビチビと朝食のパンをかじりながら、溜息まじりに、独り言のように、
「…つまんないなあ……」
 保育園を退園になった理由を考えると、貫太と清次の新しい預け先を探すことも出来ずに、仕事を休み続けて10日間。毎日毎日、必要最低限の物は揃う、程度の、自宅から貫太の足でも徒歩2分弱の近所の個人スーパーに買物に行くくらいで、家に閉じこもりがちに過ごしていた。
 絵を描いたり工作したりするのが好き、テレビやゲームも好き、清次を構うのも大好き、な貫太も、11日目の今日、さすがに家の中でばかり遊ぶことに厭きた様子で、朝、起きた瞬間から、独り言のように、
「つまんないなあ……」
を連発している。
 ショーコは、この10日間、貫太が話しかけてくる度、毎回、まともに相手をするようにしていたが、やはり、既に幼稚園や保育園という家以外の世界を経験したことのある貫太。ショーコでは、相手として不足なのだろう。
 ショーコは、ちょっと考え、思いついた。自宅から、そう近くはないかも知れないが歩ける距離に、大きな公園があったはずだ、と。
 今日は薄曇りで陽射しが弱く、過ごしやすい。
 公園で遊ぶには丁度いい。
 ショーコは、食器棚のガラスに挟んであった保育園のプリントを引っ張り出す。……貫太が2週間前に保育園の園外保育で、お弁当を持って出掛けた場所、「柏谷公園」。
 プリントには、簡単な地図も載っていた。
 今日は平日だが、午後3時くらいになれば、幼稚園に通っている貫太と同じ年頃の子供たちが、遊びにくるかもしれない。
 早速ショーコ、
「カンちゃん、今日、お昼ゴハン食べて少ししたら、柏谷公園に行こうか。ほら、カンちやんが、このあいだ、保育園の皆と行った公園」
 貫太は、パッと顔を上げ、
「うんっ! 」
嬉しそうに目を輝かせる。



 ショーコの「公園に行こうか」の言葉の後、貫太は、それまでチビチビ食べていたパンを、いっきに食べ終え、いつもなら遊んでしまってなかなかしない着替えを、ショーコが着替えを出してやると、すぐにした。
 そして、朝食を終えてから10分も経たないのに、
「おひる、まだ?」
と聞いてくる。
 それからは、もう、3分おきくらいに、
「おひる、まだ? 」


                *


 貫太のうるささに負け、11時。考えていた時刻より、まだだいぶ早く、腹も空いていないが、ショーコは、昼食の味噌ラーメンを作り始めた。
 ショーコが台所に立つと、貫太は水切りカゴの中から自分の箸を探し出し、それを手に、早々と、台所のテーブルの自分の席に座った。



 ラーメンが出来上がり、貫太の前に置くと、
「いただきまーす」
貫太は、どんぶりに顔を突っ込みそうな勢いで食べ、
「ごちそーさまっ」
椅子から飛び下りるようにして下りながら、
「さ、こーえん いこーか」
言って、さっさとトイレを済ませ、帽子を被り、靴を履いて、
「じゃあ、そとで まってるねー」
言い残して、玄関を出て行った。
保育園に通っていた頃の朝も、こんなふうに自分からどんどん仕度してくれたら助かったのに……などと思いながら、ショーコは、
「あ、待って」
既に貫太が出て行ってしまった後のドアに向かって呼び掛ける。
 物騒になった世の中。5歳児が1人で外にいて、悪い人(日空人も含め)にでも連れ去られたら大変だ。
 食べていたラーメンを大急ぎで食べ終え、手早く、と言うより何が何だか分からないくらいデタラメに手当たり次第、自分と清次の仕度をし、玄関を出、清次をベビーカーに乗せ、鍵を閉めて、少々息を切らしながら、
「お待たせ」
階段の手摺にぶら下がって遊んでいる貫太に声を掛けた。
 貫太は手摺を放し、上手に地面に着地。はりきってズンズン歩き出す。
 ショーコ、貫太の背中に、
「カンちゃん、道、分かるの? 」
 振り返った貫太は、得意げに鼻の穴をプクッと広げ、
「まかせろ」

四界戦記 月空界・地表界編外伝~ずっと、この腕のなかに・・・~ (18)



 先に立ってズンズン歩く貫太任せで歩いていたら、貫太は一度、保育園の前まで行き、そこから公園へと向かって、おそらく少し遠回りだったのだろうが、本当に無事に着いた。
 柏谷公園は、ショーコが想像していたより、はるかに広い公園だった。
 周りはグルリと常緑樹で囲われ、入口を入ると、そこには褐色と灰色、2色の石畳の広場で、その中央に、木の形の大きな時計。所々に木製のベンチ。右斜め前方に野球場。その手前の花壇には、色とりどりの花々が植わっていた。

 石畳の広場を抜け、野球場の奥を通る道を少し行くと、左手に芝生の広場、その向こう、だいぶ距離がありそうだが、丘陵の斜面にいくつもの穴が並んで開いているのが見え、興味をそそられた。
 右手前方にトイレが見えると、貫太は、ひとり駆け出し、歩いていた道と枝分かれした野球場とトイレの間の小道を入って行く。

 清次のベビーカーを押しつつ急いで貫太を追いかけて行ったショーコの目の前に現れたのは、複合型遊具のある子供のための広場だった。
 貫太は3つある滑り台のうち最も低い滑り台を逆から登って行き、高い位置にある太鼓橋を走り、途中にあるハンドルを通り過ぎざま回し、トンネル状になっている滑り台を滑って下りてきたかと思うと、すぐに、その裏の階段を上り、吊り橋を走って渡って、今度はのぼり棒を使って下りてくる。そしてまたすぐ、近くの高く急な滑り台を登っていった。……まるでサルのように、遊具の上を自在にとび回る。
 こんな楽しそうな貫太を見るのは、かなり久し振りに思えた。
 遊具の上からショーコに手を振る貫太に、ショーコは手を振り返してから空いているベンチに腰掛ける。
 やはり、少し時間が早かったようだ。
 公園内に入ってから子供広場まで来る間、散歩中らしいお年寄りの姿はチラホラ見かけたが、子供広場には、ショーコたちの他には、しゃがんで地面の土や小石を掴んだりして遊んでいる1歳半くらいの女の子2人と、そのすぐ後ろ、ショーコが座っているベンチの隣のベンチに座って話をしている、女の子たちの母親らしき女性が2人いるだけで、貫太の遊び相手になりそうな子供はいなかった。
 ショーコは座ったまま腕を伸ばして、ベビーカーで眠っている清次を自分と向かい合わせ、下のカゴに常に入れっぱなしにしてあるバスタオルをかけてやってから、元の姿勢に座りなおした。
 ふと、隣のベンチのうち1人と目が合う。
 ショーコが会釈すると、女性は、
「こんにちは」
と笑顔で返してくれた。
 しかし、それを見て、かどうかは分からないが、そのすぐ後、もう1人の女性が慌てた様子で挨拶してくれた女性の肩をつつき、何やら耳打ちした途端、挨拶してくれた女性は笑みを消し、何かを探るような表情で会釈してから、ショーコから視線を逸らした。
(……? )
挨拶してくれた女性の急な態度の変化を、ショーコが少し気にしたところへ、
「なに してるのー? 」
小さい子大好きな貫太が、2人の女の子に話しかけ、しゃがんで、女の子たちに視線を近づけた。
 瞬間、女性2人は示し合わせたかのように同時に立ち上げり、
「そ、そろそろ、か、帰ろっかあ? 」
「う、うん。そうだね。お、お腹、空いたし」
とても急いだ様子で、それぞれ1人ずつ女の子を抱き上げ、芝生広場とは反対方向へ去って行った。
 とり残された貫太は、彼女たちを見送ってから、トボトボとショーコのところへ来、
「いっしょに あそぼーと おもったのになあ……」
 ショーコは貫太が可哀想になり、
「きっと、何か、ご用があったんだよ」
慰める。そして、
「そうだ、今度は、向こうにある、お山に穴ボコいっぱいあいてるとこに行ってみない? 」
先程チラッと見かけて興味を持ち、行ってみたいと思った丘陵へ誘った。

四界戦記 月空界・地表界編外伝~ずっと、この腕のなかに・・・~ (19)


 ショーコは、穴のあいた丘陵の前の平らな芝生のスペースに、ベビーカーをストッパーで固定した。
 その近くに立てられたパネルの説明書きによれば、丘陵に開いた穴は「柏谷横穴群」といい、6世紀から8世紀にかけて作られた墓で、県内最大の横穴墓群。その一部は国指定を受けた史跡であるという。今、ショーコが眺めている、崩れないようにするためかセメントのようなもので固められ整備された穴の他にも、東西600メートル、南北250メートルにわたって、崖面に300から500ほど存在すると推定されているらしい。
 貫太が、
「のぼろーっ! 」
セメントの斜面を掛け登って行く。
「気をつけてよー! 」
ショーコが貫太に声を掛けた直後、貫太は、
「あ」
バランスを崩して転がり落ちそうになった。
(……! )
ショーコは、心臓が痛くなるくらいドキッとしながら、咄嗟に月空力で支える。
 貫太、体勢を立て直し、
「ふう、あぶない、あぶない」
暢気な調子の独り言。
 と、
(……? )
ショーコは頭上に何か、感じるものがあり、何の気なく空を仰いだ。
(っ! )
気のせいではなかった。
(この町にもっ? )
そこには、日空人の2人連れ。
 ショーコの真上に静止し、ショーコを見下ろしている。
 ショーコは急いで清次を抱き上げ、
「カンちゃん」
丘陵の穴の一つを覗いている貫太のところへ行くべく、貫太が楽々登って行ったように見えた斜面を、息を切らしながら登っていく。
 今回、日空界は、首都圏を集中的に狙っているように見える。
 前回の経験から、地表人は、日空人を初めから敵と見なしていた。
 日本には、自衛のための軍隊が存在し、現在、様々な手を使い抵抗しており、また、早い段階から外国の協力も得ているなど、テレビや新聞の報道からショーコの知る限りでは、首都攻略は簡単ではないように思える。日空軍の規模は不明だが、狙いが首都にある以上、むやみに力を分散させるとは考えにくい。
 この町は、当分大丈夫だと思っていたのに……。
 もっとも、ショーコも日空人と同じく翼を持っているため分かるが、翼を持つ者にとって、首都・東京からこの町までは、そう遠くない。軍の作戦とは関係なく、日空人がうろつくことは考えられる。第一、今、真上の空にいる日空人が、軍人とは限らない。……ショーコは懸命に自分を落ち着かせようとした。
 穴に夢中の貫太は、頭上の日空人にも斜面を登って来ているショーコにも、まったく気づかない。
 ショーコは、やっとの思いで、貫太まであと2.3歩というところまで辿り着き、もう一度、
「カンちゃん」
 貫太は振り返り、
「まま」
嬉しそうに、
「ままも のぼりたかったのー? 」
 その時、
(……! )
 ショーコと貫太の間、ショーコのほうを向いて、真上にいた日空人2人が、ゆっくりと静かに舞い降りた。
 さらさらストレートの長髪と、スポーツ刈り顔中ソバカスの、どちらも、ショーコと同じ位の歳に見える日空人。
 長髪は、手にしている何やら小さな紙のような物とショーコを見比べる。
 ショーコのほうは、2人の日空人を見据え、この2人はどのくらいの強さなのだろう、強引に逃げれば、逃げ切れるだろうか、と、考えていた。
 ややして、
「間違イナイ」
ショーコの頭の中に、直接、声が響いた。
(…間違いない? 何が……? )
 2人は、ショーコには聞こえない会話を交わしているのだろう、見つめあっている。
 中途半端に、「タークサン」という単語だけが聞き取れた。
(タークッ? )
2人は、タークの手の者なのだろうか。2人の口を介さない会話の中からタークのなを聞き取り、更に緊張を強めるショーコ。
 しかし2人は、見つめあい、何を話し合ったのか、頷き合い、そのまま、ショーコたち母子に何もせず、飛び去った。

 丘陵の向こうに消えた2人の行った後を見ながら、呆然としてしまいそうになったショーコは、慌てて首を横に振るって意識をハッキリさせる。
 早く移動しなければ、タークがやって来るかも知れない。
 ショーコが、
「カンちゃん」
お家に帰ろう、と言おうとして、貫太に目をやると、貫太は、目を大きく見開き、気持ち下方の一点を見つめ、小刻みに震えていた。
 ショーコは貫太に歩み寄り、その顔を覗き込む。
「カンちゃん? 」
 貫太は、一度、ビクッとし、顔を上げた。
 途端、ポロポロと涙がこぼれ落ちる。
「…ぱぱ……。ぱ、ぱ……」
掠れた貫太の声。
 ショーコは清次を片腕で抱き、胸が締めつけられる思いで、空けた腕で貫太を抱き寄せた。
 子供だって、分かるのだ。
 父親の、凄絶な死。
 それが、目の前にたった今現れた日空人たちと同じ、白い翼を持つ者の手によるものだと……。
 貫太は、ショーコの腹に頬を押し当て、震えながら、パパ、パパ、と、繰り返す。
 ショーコは、そっと貫太の髪を撫でてから、貫太を片腕で抱き上げた。
 とにかく、移動しなければ……。
 貫太と清次、2人を抱いて、歩いて斜面を無事に下りる自信が無い。隅のほうに階段があるのが見えるが、きちんと整備されていない階段。やはり自信が無い。
 ショーコは辺りを見渡し、人目が無いことを確認してから、翼を使って舞い下りた。
 そして、すぐに翼を仕舞い、清次をベビーカーに乗せ、貫太を片腕で抱いたまま、
反対の手でベビーカーを押し、上空を気にかけつつ、早歩きで公園を出る。

四界戦記 月空界・地表界編外伝~ずっと、この腕のなかに・・・~ (20)

上空に注意を払いながら、ショーコは自宅へと歩く。
 腕の中の貫太は、暫く、震えて、弱く、低く、泣いていたが、自宅に着く頃には、遊び疲れてか、泣き疲れてか、いつもと変わらない穏やかな表情で眠っていた。

 玄関の鍵を開け、ドアを開き、外にいる時間を出来るだけ短くしたかったため、公園に向かって出発した直後から執拗なまでに眠り続ける清次を乗せたまま、狭い玄関と、玄関から台所へと続く同じ幅の廊下を抜け、広くなっている場所まで、ショーコはベビーカーを押して上がった。
 そして、ベビーカーはその場に置いておいて、急いで玄関まで戻り、ドアを閉め、鍵も締める。
 それから寝室で、片手が塞がっているため月空力を使い、布団を敷いた。
 ショーコは貫太が1歳になった頃から、日常生活の中では、出来るだけ、月空力を使わないようにしていた。
 家の中でなら、それほど人に見られる心配も無いのだが、ショーコがかつて持っていた、独特の雰囲気を無くすために……。
 ショーコは、もともとは地表人が持たない特殊な力を持つ、地表界外の住人。しかも、王女だ。やはり、独特の雰囲気というものがある。1歳になった貫太を公園デビューさせようとしたが上手くいかず悩んでいたショーコに、慎吾が、「上手くいかない原因がショーコ独特の近寄り難い雰囲気にあるのでは、月空力を使わずに生活してみてはどうか」と、アドバイスした。当時も、不気味がられたり好奇の眼で見られたりすることを嫌い、家の外では月空力を使っていなかったが、家の中でも、一切、月空力を使わないことで、ショーコの持つ独特の雰囲気が無くなり、他の母たちの中に上手く溶け込めるようになるのでは、というのだ。
 慎吾は正しかった。月空力を使わずに生活しながら公園に通い続けること1ヵ月、同じく公園に遊びに来ていた、貫太より少し大きい男の子と遊ぶことが出来た。きっかけは、その男の子が貫太のオモチャを取り上げたこと。その男の子の母が言ったのだ。「こんなきっかけを待っていた」と。それまで、ショーコを気にはしていたが、何となく近寄り難い雰囲気があったから、と。その後は、ショーコにも貫太にも、どんどん友達が増えていった。月空力封印の生活を続け、ショーコは、今では、もう、すっかり地表人だ。
 今でも基本的には続けている、月空力封印生活。
 だが、特別。
 貫太を、ゆっくり休ませてやりたかった。
 布団を敷くために畳の上に一度おろせば、せっかくの穏やかな眠りを邪魔してしまう。
 ショーコは、先程の日空人が去って行った直後の貫太の表情を思い返していた。
 目覚めたら、また……。だから、せめて今は、もう少し、このまま……。



 ショーコは貫太を布団に寝かせ、まだ眠っている清次をベビーカーから降ろし、貫太の隣に横たえた。
 2人の上にタオルケットを掛けてから、台所へ。
 冷蔵庫を開け、何か、貫太の好きな物がなかったかと、確認する。
 昨日の飲み残しだがコーラがあった。プリンもある。
(あ、そう言えば……)
思い立ち、冷蔵庫を閉めて、流しの上の棚を開けた。メロンパンがある。
(あとは、カンちゃんが起きたらすぐに観れるように、スーパーファイブのビデオをデッキの中にセットしておこう)
……これは、貫太の気を紛らすための準備。
 自分たち母子が身を置いている現在のこの現実世界に正面から向き合うには、貫太は、まだ幼すぎる。
 向き合えば、壊れてしまうかも知れない。
 辛いこと悲しいことが見えないよう聞こえないよう、目と耳を塞いであげて、楽しいことだけ一緒に味わいたい。
 優しく甘々した世界に住む、ほんわかした貫太でいてほしかった。

四界戦記 月空界・地表界編外伝~ずっと、この腕のなかに・・・~ (21)

 ショーコが居間でスーパーファイブのビデオをデッキの中に入れたところへ、プルルルル、居間の隅の電話が鳴った。
「はい」
受話器を取ると、
「もしもし、こんにちは。フレッシュマートの安川です」
職場の店長の声。
 店長、
「ショーコさん、まだ子供さんたちの預け先は見つかりませんか? 」
 預け先は、初めから探していない。
 探す前から、無理だと分かっているためだ。
 新しく探して入園させることは出来るだろう。しかし、すぐにまた、清次が翼を出して、退園しなければならなくなるかもしれない。
「はい、すみません……」
ショーコが謝ると、店長は、
「これ以上続けて休まれると、うちは、もともとギリギリの人数で回しているので、他のパートさんたちへの負担が大きくて……。ショーコさんが休んでいる間だけ急遽、他の人を雇うというわけにもいかないので……」
言い辛そうに、
「…あの……。辞めていただけませんか……? 」
 ショーコは、仕方ないかな、と思った。
「はい。ご迷惑をおかけして、申し訳ありません。今まで、お世話になりました」
 店長は気遣うように、しかし、少しホッとした感じで、
「また、ご縁がありましたら、よろしくお願いしますね」
言って、電話を切る。
 ショーコは受話器を置き、溜息をついた。
 これから、どうしようか、と。
 本当は、辞めたくなかった。
 同じ鮮魚部で働く人たちは、皆、いい人ばかりで、働きやすかった。結果的にフレッシュマートで働く最後となった日、「お互い様なんだから気にしないで」「早く行ってあげて」と、気持ちよく送り出してくれるような人たちだった。
 店長は母子家庭の事情に理解があった。だからこそ、10日間以上も待ってくれたのだ。
 働かなくては生活していけない。
 清次が翼を出してしまうことを恐れずに、その時はその時、くらいの気持ちで、さっさと新しい預け先を探すべきだったのだろうか……。

 襖で仕切られただけで間続きの寝室から貫太が起きてき、
「ままー」
電話の前に立ち尽くしていたショーコのウエストに、後ろから抱きついた。
 まだ、完全には目が覚めていない状態。ショーコの背中に顔をこすりつける。
 ショーコは体の向きを変え、貫太を抱き上げて、
「カンちゃん、お腹、空かない? 」
「すいたー」
貫太の返事を受け、貫太を抱いたまま台所へ。
「プリンとメロンパンがあるよ。昨日のコーラの残りも。何にする? 」
「めろんぱんと こーら」
 ショーコは貫太を片腕に抱きなおし、冷蔵庫からコーラ、流しの上の棚からメロンパンを出し、貫太に渡してから、抱いたまま居間へ戻った。 
 テレビの前に貫太を下ろし、ショーコは、屈んで、スーパーファイブのビデオをつける。
 座って、メロンパンの袋を開けた貫太、たまたまショーコと目が合い、
「まま、はんぶん たべる? 」
「くれるの? 」
 頷く貫太に、ショーコは、じゃあ、ひと口ちょうだい、と言って、貫太が差し出したメロンパンを味も分からないくらい、ほんの少しだけかじり、
「おいしい」
笑顔を作って見せると、貫太は満足げに笑った。
 その笑顔に、ショーコも自然な笑顔になる。
 と、突然、ガシャン、と、2人のすぐ横、居間の窓のガラスが割れた。
 カーペットの上に、割れたガラスの破片と拳大の石。
(タークッ……? )
ショーコに緊張が走った。
 ショーコは腕を伸ばし、その腕でそっと押すことで貫太を奥へとさがらせてから、外から見えにくいよう、窓の隅にまとめたカーテンに身を隠しつつ、窓の外を覗こうとした。
 そこへ、ショーコの顔スレスレ、また、石が投げ込まれる。
 それをかわして、ショーコは外を見た。
 窓の外にいたのは、タークではなかった。
 日空人でもない。……十数人の地表人。ご近所に住む知った顔が、何人か交ざっている。
(どうして……? )
どうして、石を投げるなんて酷いことをするのか? その答えを、外の人々が口々に叫んだ。
「化け物っ! 」
「悪魔っ! 」
「出て行けーっ! 」
 おそらく、清次の翼の話が噂となって広まったのだ。
 次々と投げ込まれる石。
 貫太は怯え、台所との間の襖に背中をつけ、しゃがみ込んで、低く小さく泣いている。
 ショーコは貫太の傍へ。膝をつき、貫太をしっかりと抱きしめた。

 カシャン、少し離れた所で、ガラスの割れる音。寝室だ。
 居間のガラスを破壊し尽し、狙いが寝室へ移ったのだ。
 寝室から、大音量の泣き声。
(キーちゃん! )
ショーコは慌てて、貫太を抱いたまま立ち上がろうとしたが、それより早く、貫太がショーコの腕をすり抜け、寝室へ飛び込んで行った。
 そして、翼を出しプカプカと宙に浮いて泣いている清次を両腕を伸ばして引き寄せ、抱き取り、その頬に自分の頬を寄せる。
 直後、勢いよくガラスを突き破った石が、貫太と清次のほうへ。
(危ないっ! )
ショーコは咄嗟に月空力で石を畳の上に落とした。
 貫太は、清次をギュッと抱きしめながら、
「…こわい……」
 ショーコは、清次を抱いた貫太に歩み寄り、腕を開いて、そっと包む。
(もう、ここでは暮らせない……)

四界戦記 月空界・地表界編外伝~ずっと、この腕のなかに・・・~ (22)

                * 3 *



 新居の台所の食器棚の前で食器類を荷解きしているショーコに、
「これは、どちらに運びましょう? 」
腕を一杯に広げ1人で本棚を抱えた引越し業者のスタッフが、苦しげに話しかける。
 ショーコ、
「あ、じゃあ、そちらの部屋に」
台所の奥の、ベランダに面した居間にする予定の部屋を、手のひらで指して答えた。
 その部屋の隅では、貫太と清次が大人しく……はないが、ショーコの手を煩わせることなく、2人でカーペットの上に転がり、何やら笑い合い、遊んでいる。ショーコが忙しいのを感じ取ってか、貫太が自分から、清次の面倒を買って出てくれたのだ。
 (カンちゃんも、すっかりお兄ちゃんだな……)
頼もしく感じながら、ショーコは、微笑ましく、貫太と清次の様子を眺めた。

 今回の引越しの理由はタークとは関係ないが、タークの手の者と思われる日空人に公園にいるところを見られているため、せっかく引っ越すなら、日空人のターゲットとなっている首都とは反対方向に出来るだけ遠くへ引越したかった。だが結局、前回の引越し時ほどではないが急いでいたことから、前回に比べれば清次がしっかりしてきた分の少しだけ遠く、県内だが以前住んでいた町から西方向に、公共の交通機関での移動では少し距離のある、しかし翼で飛んでしまえば20分程度の、県庁所在地である市の中の、市街地から離れた静かな住宅地であるこの地に落ち着いたのだった。



 引越しの荷物を全て搬入し終え、
「ありがとうございました! 」
帽子を取って礼儀正しく挨拶し、トラックに乗り込んで帰って行く引越し業者のスタッフ。
 玄関先で見送っていたショーコは、引越し業者のトラック到着直後からアパートの前をウロウロ歩きショーコのほうを窺っていた腰の曲がったシワクチャ顔の老婦人と 目が合い、会釈した。
 老婦人は、意外と速い、しっかりとした足取りでショーコに歩み寄って来、
「こんにちは。ここのアパートの裏に住んでる、沢田です」
ニッコリ笑う。
 返してショーコ、
「あ、羽鳥です。よろしくお願いします」

 沢田老婦人は、よく喋った。どこから引っ越して来たの? に始まり、ベランダに置いた貫太の自転車を見、お子さんおいくつ? じゃあ来年は小学校? お幼稚はどこに通うの? 役所にはもう行った? 役所まで行かなくても、市民サービスコーナーが消防署の所にあるよ。指定のゴミ袋は持ってる? 何枚かあげようか? すぐ必要でしょ? ゴミ捨て場は、すぐそこの道路脇。ゴミの日はね、燃えるゴミが月・木、燃えないゴミが第2金曜日、資源古紙が……といった具合に、ショーコにごく短い言葉しか返す隙を与えず喋り続けること約15分。最後に、
「何か困ったことがあったら、遠慮しないで言ってね」
と言い、
「はい、ありがとうございます」
とのショーコの返事を待ってから、満足げに去って行った。
 ショーコは大きく大きく息を吐く。沢田の話を聞き、1つ重大なことに気づいて、気が重くなっていた。
(そっか、幼稚園か保育園に入れなきゃ……)
 清次は、まだ何処にも通わせなくても不自然ではない……それ以前に、また人前で翼を出しでもしたらどのような事態を招くか想像に難くないため、清次が自分で上手に翼をコントロール出来るようになるまで何処にも預けられないが、貫太は、通わせなければ不自然だ。それだけで周囲の不審を買い、他人の視線を浴びながら生活することになる。見られることが多くなれば、気をつけていても、何時か些細なことで地表人でないことがバレ、前の町のように居づらくなってしまう。それは避けなければならない。
 幼稚園が保育園に入れることを考えて気が重くなるのは、日空人(特にターク)のことで貫太と離れている時間が不安という理由だけではない。 経済的な問題もある。この引越しで、貯金を大分使ってしまった。清次を預けられないのだから働けない。貯金を切り崩して生活するしかない状況で、幼稚園や保育園の出費は、かなり痛い。仮に清次の翼のことがバレた時にはまた引っ越す覚悟で清次を保育園に預け働いたとしても、ショーコの得る収入など、たかが知れている。引越しが必要になった時点で、まだ、引越し費用など用意出来ていないかも知れない。その確率のほうが、用意出来る確率よりも高い気がする。もう 引っ越さないつもりで、今後の行動を決めていったほうがよい気がする。
 ショーコは、日空界による侵略の危機に瀕しているこの状況下でも平常どおりに生活しようとする、恐ろしく勤勉なのか超天然的平和ボケなのか分からない地表人の気質を、少し恨みに思った。大人たちが普通に働くよう努めることは、社会を崩壊させないため必要なことだが、せめて未就学の子供くらいは、自宅で、親やそれに代わる身近な大人の庇護のもと過ごすのが当たり前になっていてもいいはずなのに、と。そうであれば、貫太も、幼稚園や保育園に通わせずに済むのに、と。日空人の狙いが首都にあっても、他の地域に全く危険が無いとは言いきれない。通常の幼稚園や保育園の園児と大人の人数の比率で、もしもの時に、きちんと園児を守ることが出来るとは到底思えない。危険を冒してまで幼児教育をする意義が分からない。
 …しかし、合わせなければ……。ショーコは溜息が止まらない。翼を自在に出し入れできるようになるためには、自力で上手に飛行でき、言葉も、喋れないまでも、周囲の言っていることを少しくらい理解できる必要がある。清次がそうなるのは、早くても、あと半年は先。貯金は、いつまでもつだろう、と。

四界戦記 月空界・地表界編外伝~ずっと、この腕のなかに・・・~ (23)

      * * *
 

 丸く白い襟のついた水色の袖なしの園服、麦藁帽子に紺色リボンの通園帽……ちょっとお坊ちゃまっぽくて可愛らしく、貫太によく似合う。
 園服も通園帽も、お下がり品。残りたった1ヵ月の夏服期間のために新しく買うのはもったいないだろう、と、幼稚園のほうで気を遣って用意してくれたのだ。他の用品は、全て前の保育園、さらに前の幼稚園で使っていた物。紙袋に詰め、持って行くばっかにしてある。
 居間に置いてある大きな姿見の鏡の前で、右を向いたり左を向いたりして、今日から通うことになった市立幼稚園の園服姿の自分を眺めている貫太に、ショーコ、
「カンちゃん、似合うねー」
声を掛け、もう半年以上前に買ったものだがフィルムが少し残っていたインスタントカメラで、写真を撮る。
「つぎは きーちゃんと とってー」
貫太は、居間の隅でプレイジムの前に座り一心不乱に遊んでいる清次のもとへ行き、抱き上げた。
 清次はまだプレイジムで遊びたいらしく、プレイジムに向けて手を伸ばして眉間に少しシワを寄せていたが、貫太が白目をむいて鼻の下を伸ばした面白い顔をすると、キキャッと声をたてて笑った。
 ショーコは、タイミングを逃さずシャッターを押す。

 良い写真が撮れたと満足しながら、ショーコは、カメラを本棚の一番上の段に置きつつ、ふと時計に目をやった。8時25分。幼稚園は8時40分受け入れ開始で、9時に始まる。幼稚園までは、貫太の足で15分ほど。
「カンちゃん、そろそろ行こうか」
ショーコの言葉に、貫太、
「うんっ! いくー! 」
待ってましたとばかり、嬉しそうに、元気よく返事した。


 今日は、2学期初日。幼稚園が夏休みの間に諸々の手続きや準備を済ませ、今日から通うことになった。
 ショーコは、用品を入れた紙袋を腕に提げて清次を乗せたベビーカーを押し、貫太は、園服や通園帽と同じくお下がり品の園指定のリュックを背負って、幼稚園へ向かって出発。
 とても良い天気だ。9月の朝の爽やかな空気を吸い込みながら、自宅脇の道路とT字で交わる坂道を下り、現在は営業していない様子の看板の破けた小さな焼肉店のところを右。曲がった後は、ひたすら道なり。硬貨を入れると動くらしい子供向けのオレンジ色のゾウの乗物が店の前に置いてある薬屋の前、イチヂク畑の前、スーパーマーケット・エンドウの前を通り過ぎ、やがてぶつかる道路の横断歩道を渡って、ほぼ真っ直ぐに続く一方通行の道路を入り、すぐ右手側が、貫太が今日から通う幼稚園。
 貫太は、面接の時と、用意してもらったお下がり品を受け取りに行く時の、計2回、行っただけで、幼稚園までの道を覚えたらしく、ショーコの先に立ってどんどん歩いて行った。この日を楽しみにしていたに違いない。
 幼稚園に通わせることにした理由は、周囲からの不審を買わないためだけだ。しかしショーコは、嬉しそうな貫太を小走りで追いかけながら、悪いことばかりじゃないな、と思った。

四界戦記 月空界・地表界編外伝~ずっと、この腕のなかに・・・~ (24)

                *


 幼稚園に着くと、門のすぐ内側に教諭が2人立ち、登園してくる親子に、おはようございます、と、声を掛けていた。園児を送って来た保護者は門の中には入らず、教諭に、お願いします、と挨拶し、自分から離れて門を入って園舎へと歩いて行く園児に手を振って、見送る。この幼稚園は、どうやら、保護者と園児は門のところで別れることになっているらしい。
 ショーコは、園児たちだけが通り抜けて行く門を、貫太・清次と共に園児たちに交じって通り、鮮やかな色の遊具が周囲に点在する広めの園庭を抜け、昇降口で靴を脱いでから、清次をベビーカーから抱き上げ、お下がり品を受け取りに来た時に園長に言われていた通り、貫太を連れて職員室へ向かう。



 ショーコが、
「失礼します」
職員室に1歩入った時、後ろで、
「ねえねえ、なにしてるのー? かんちゃんも いれてー」
貫太の声。
(? )
体ごと振り返るショーコ。
 貫太は、職員室前に設けられた遊べるスペースで大きなブロックで遊んでいた、坊主頭の男の子と茶髪の男の子に声を掛けていた。
 坊主頭と茶髪は遊ぶ手を休め、坊主頭が、
「おまえ、みたこと ないけど、うちの ようちえん? 」
 返して貫太、
「うん。きょうからねー」
 茶髪、
「なにぐみ? 」
 貫太、
「そらぐみ だってー」
 すると 茶髪、
「おれらも、そらぐみ だぜー」
 続いて坊主頭、
「あそぶまえに、おかばん おいて、えんぷく ぬいで、おしたく しなくちゃ いけないんだぜ。 おへや わかんねーだろ? つれてってやるよ」
言ってから、廊下を右側へと歩きだす。 
 茶髪も、
「いこーぜ」
貫太に声をかけてから坊主頭の横を歩き出した。
「うん」
貫太は嬉しそうに返事し、ついて行こうとする。
 ショーコは焦って、
「カンちゃん」
止めた。
 すると、すぐ背後から、
「いいですよ」
声。
 反射的に振り向いたショーコの目の前、いつの間にか、園長がニコニコ笑顔で立っていた。
 園長は職員室の出入口から顔を出して、貫太に、
「行って、いいですよ」
 丁度、少し先に歩いて行ってしまった坊主頭と茶髪が足を止めて貫太を振り返り、
「こいよー」
呼ぶ。
 貫太は走って彼らに追いつき、何やら話しては笑いながら去って行った。
 園長、ショーコに向けてニッコリ笑い、
「早速、お友達が出来たみたいで、よかったですね。さあ、私たちも行きましょう」
 園長が職員室に来るよう言ったのは、特に話などがあったわけではなく、ショーコと貫太を、貫太が入る、そら組の保育室まで案内し、以前に面接等で幼稚園に来た時には2回とも不在だった貫太のクラス担任に紹介するつもりだったそうだ。


 
 園長に案内されて、ショーコが2階のそら組の保育室の出入口前まで行くと、保育室内にいた30代前半と思われる女性教諭が気づき、出てきた。
 園長、ショーコに、
「そら組担任の、池谷菊乃先生です」
それから担任に向けて、
「こちらが、今日からそら組に入る羽鳥貫太君の、お母さんです」
ショーコを紹介する。
 ショーコと担任、お互いに、よろしくお願いします、と挨拶をかわす。
 園長は、担任に、後はお願いします、と言い残し、ショーコに会釈して、来た方向へ戻って行った。
 担任に案内されて、ショーコは保育室に入る。初日の今日は、ショーコも1日、幼稚園にいて、園での生活を見学することになっていた。
 ショーコが保育室に入ると、貫太は、既に通園帽と園服を脱いだ姿。先程ブロックで遊んでいた坊主頭や茶髪と一緒に、新聞の折込広告を丸めて作った剣(? )を振り回し、壁際の棚の上に上って飛び下り、 走り回り、保育室内を飛びくりまわっていた。
(もう馴染んでる……)
前に通っていた保育園に通い始めた時もそうだったが、子供というのは本当に新しい環境に馴染むのが早いなあ、と、ショーコは感心。
 担任が、パンパンッと手を打ち鳴らし、保育室内の園児たちを見回す。
「はい、もうすぐ始業式が始まりまーす。カラー帽を被って園庭に出て下さーい」


四界戦記 月空界・地表界編外伝~ずっと、この腕のなかに・・・~ (25)

              * * *  


 9月の 午後3時ちょっと前の太陽が、日陰のほとんど無い園庭の地面を容赦なく焼く。
 ショーコは、ベビーカーに乗った清次と共に、幼稚園の園庭の隅の指定された場所で、他の園児の母たちの中に交ざり、貫太の降園時間になるのを待っていた。
 貫太が今の幼稚園に通い始めて1週間。
 もともと貫太は、年少、年中の頃には幼稚園に通っていたため、幼稚園児の母たちの雰囲気は、ショーコにとって溶け込み易いものだった。
「キーちゃん、こんにちは」
2歳の男の子・望を連れた、貫太と同じクラスの榊健人の母が、清次に話しかけようとベビーカーの前にしゃがんで顔を覗きこむ。そして清次が眠っているのを見、小声で、
「あらあら、また ネンネでしゅかー? 」
言って、立ち上がり、ショーコに、
「何か、いつも寝てるよね。家でも、こんな、よく寝てるの? 」
 返してショーコ、ベビーカーに乗せると寝てしまう。家では、これほどではない、と。
 それを受け、榊健人の母は、この子もそうだった、と、望に目をやり、笑う。
「あ」
ふと昇降口のほうへ目をやった榊健人の母が、会話の流れを止める声を上げた。
 ショーコも、つられてそちらを見ると、園服に通園帽、指定のリュックを背負った園児たちが、次々に昇降口から出てきたところだった。 
 そうして外に出てからは、各家庭の都合に合わせ、そのまますぐに帰宅しても、園庭で少し遊んでから帰ってもいいことになっている。 
 昇降口方向を向いて出迎える自分の母のところへ真っ直ぐ走って来て「ただいま」を言い、早速、幼稚園での出来事を報告し始める可愛い子もいるのだが、貫太は、外に出るなりショーコのほうをチラリとも見ず、リュックも下ろさず、榊健人と連れ立って、直接、ジャングルジムへと走った。
 榊健人の母が叫ぶ。
「こらこらこらー! ただいまくらい、言いなさーいっ! 」

 貫太は、ジャングルジムのてっぺんまで登り、腰掛け、榊健人と笑いあい、実に楽しそう。
 仕方ないな、といった感じで溜息を吐く榊健人の母の隣で、ショーコは、貫太を微笑ましく見守っていた。
 と、その時、望が空を指さす。
 その指先を追って空を見た榊健人の母は、血相を変えて望を抱き上げ、ジャングルジムへと駆け出した。
(? )
ショーコは首を傾げる。
 貫太を見つめるショーコの視界に体が半分入っていた、幼稚園での出来事を自分の母に報告していた可愛い子・やはり貫太と同じクラスの田村鈴夏の母も、榊健人の母につられるように空を仰いだ直後、それまでの笑顔を凍りつかせ、田村鈴夏の手首を掴んで自分のほうへ引き寄せ、空を見据えたまま固まっていた。
(? ? ? )
ショーコは周囲を見回す。
 他の母たちも、それぞれとても慌てた様子で自分の子供の許へ走る。ついさっきまでとは、うって変わった、緊迫した雰囲気。
 全く状況が掴めないショーコを、榊健人の母が ジャングルジムの前で振り返り、無言で大きく手招く。
 わけが分からないままベビーカーを押し、ジャングルジムへ向かうショーコの視線の先で、榊健人の母は、榊健人をジャングルジムから下りて来させ、貫太にも、下りるよう手招きした。
 榊健人の母、田村鈴夏の母、他の母たちも、皆、一様に空を気にしているようだ。
 ショーコは上空に目をやる。
(あ……! )
そこには、日空人が1人。幼稚園の真上、かなり高い所を、ショーコの自宅とは真逆の方向へ飛んでいるところだった。離れすぎていて、全く気配を感じなかった。ショーコは、やっと状況を把握し、同時に、幼稚園の母たちが日空人に対して驚くほど敏感になっていることを知った。そして、以前ショーコは、日空界による侵略の危機に瀕しているこの状況下でも幼児教育を続けようとする地表人に疑問を持ったが、少なくても、この母たちは、勤勉であることには間違いないが、平和ボケなどでは絶対にない、と。幼稚園を休園にしようとしない行政の方針(と言うか、そこまで気が回っていないだけのようにも思えるが)に従い、地表人の気質上、目立つことを嫌い、皆が皆、周囲に合わせて、自主的に子供を休ませるなどという行動を取れずに、不安を持ちながらも通わせているのだ、ということに気づいたのだった。
 榊健人の母は、ジャングルジムから下りた榊健人と望を、腰を屈めて、まとめてギュッと抱きしめ、小さくなる。
 ショーコは急いで、小さく固まった榊母子の傍らでポツンと立ち尽くしている貫太の許へ行った。
 もともと空に溶け込んでしまっているくらいに遠かった日空人の姿が、完全に見えなくなる。
 ややして、榊健人の母は、腰は屈めたまま、そっと恐る恐る顔を上げ、空を見て、ホッとしたように大きく息を吐いて、健人と望を放し、身を起こした。
 榊健人の母は、もう1度、大きく息を吐いてから、手で顔を扇ぎ、
「暑いねー、今日も」
独り言のように言い、榊健人に、
「そろそろ帰ろっか」
健人が頷くのを待ち、
「じゅあ、また明日」
ショーコに会釈。

 門のほうへ去って行く榊健人母子の後ろ姿を、ショーコと貫太は見送る。
 榊健人は貫太を振り返り、バイバイ、と手を振ってから、母に、
「あいす たべたいー」
 続いて望、
「のぞみ もー」
 返して母、
「じゃあ、買ってく? でも、2人で半分こね」
 ブーブー言う健人と望。
 そんな榊母子のやりとりを聞きながら、貫太、
「あいす……」
呟く。
 ショーコは、可哀想だと思いつつも、聞こえないふり。
(ゴメンね、カンちゃん……)
生活費は、出来るだけ切り詰めなければならない。1個105円もするアイスなんて贅沢品は、買ってあげられない。
  



四界戦記 月空界・地表界編外伝~ずっと、この腕のなかに・・・~ (26)

              * * *  


 引越しから3ヵ月半。降園時の幼稚園上空に日空人を見た日以来、日空人の姿を見かけることはなく、また、清次が人前で翼を出してしまうようなこともなく、平和で穏やかな日々が続いていた。
 ただ、このところ毎日、夕食の時間が来る度に、ショーコの心の平和は乱される。
 今日も、その時間がやってきた。
 ショーコは、台所のテーブルの上に夕食を並べ、
「はーい、ゴハンでーす」
貫太を呼ぶ。
 ハイハイも、つかまり立ちも出来るようになり、だいぶ動きが活発になってきた清次から逃げて、あちこち移動しながら、いらなくなった幼稚園のお便りの裏にクレヨンで絵を描いていた貫太は、
「はーい」
返事をし、手にしていたお便りとクレヨンを清次にグシャグシャにされないよう本棚の上に置いてから、台所へ。
 今日のメニューは、豚小間70グラム入りの野菜炒めと、切干大根の味噌汁、御飯。
 貫太はテーブルの上を見、1度は寂しそうな顔になるが、自分の席に座り、箸を持ち、頑張って作ったに違いない笑顔で、
「いただきまーす! 」
元気に言う。
 ショーコの心の平和を乱す原因は、それだ。
 実は1週間前、通帳を解約して、最後の1714円を下ろしてきた。貯金が完全に底をついたのだ。貫太が幼稚園で惨めな思いをすると可哀想だと思い、幼稚園で昼食時に食べるために持参する弁当は、よその子の物と比べて遜色ないような物を持たせているが、朝食は、もともとトーストとミルクのみ。夕食も、だいぶ前から今日のような感じ。オヤツは、引っ越しを境に1度も食べさせていない。
 貫太は、今日のような夕食になった初日、不満げな顔をして食べた。2日目は、
「きょうも、これだけなの? 」
と、口に出した。しかし、ショーコが、金が無いことを説明すると、以降、不満な顔もせず、文句も言わなくなった。
 不満を顔に出したり口に出したりしてくれていたほうが、まだ、良かったように思う。まだ5歳なのに事情を理解し我慢してくれている優しい貫太の心を思うと、ショーコは辛かった。明日は、貫太の6歳の誕生日。誕生日くらい、いいものを食べさせてあげられたらいいのに……。 だが、今、ショーコの手元に、現金は321円しか残っていない。冷蔵庫や冷凍庫にも、これまで無駄の無い節約生活を心掛けてきたのが裏目に出、どんなに一生懸命工夫を凝らしたとしても ご馳走に化けるような食材は残っていない。321円全てを注ぎ込めば、貫太の分くらい、貫太の喜びそうな物を用意できるだろうが、それが全財産。とても、そんな勇気は無い。

 


四界戦記 月空界・地表界編外伝~ずっと、この腕のなかに・・・~ (27)

             * * *            


「行ってらっしゃい」
登園の際に常にショーコの前を歩く貫太が、幼稚園の門を1歩、内側へ入ったところで、ショーコは足を止め、貫太に声を掛けた。
 貫太は振り返り、
「いってきまーす」
笑顔で手を振ってから園舎へと走り、途中で、同じく園舎へ向かって歩いていた榊健人と合流。何やらオーバーアクションで話しながら歩く。
 今日で、貫太は6歳。ショーコから離れて友達と関わる貫太を見ていると、ショーコは、あらためて、大きくなったな、と思うのだった。

 貫太が園舎の中へ入るのを見届けてから、ショーコは、来た道を戻った。


                            

 最初の横断歩道を渡って少し行ったところで、突然、ベビーカーが動かなくなった。
(? )
ショーコは、しゃがみ、ベビーカーの下を覗く。
 ベビーカーの左前輪が、2つ折タイプの赤い革の財布を踏んでいた。更によく見てみれば、その前輪が、財布についている長くて細い鎖の飾りを巻き込んでしまったために動かなくなっていることが分かった。
 ちょっとやそっとでは取れそうにない。その場で鎖を前輪からはずそうとすれば、狭い歩道、他の人の邪魔になる。ショーコは、ベビーカーを清次ごと持ち上げ、ベビーカーが動かなくなってしまった地点から10メートルほど先の、歩道から少し引っ込んで建つ開店前の金物屋の店先に移動した。

 知恵の輪を解く時のように懸命に頭を働かせ、少々イラつきながら指先を動かし、ショーコは、5分ほどかかって、ようやく鎖をはずした そして財布を手に取り、持ち主が分からないかと、中を確認する。
 1万5000円の現金と、エンドウのものを含むポイントカード数枚、超有名ハンバーガー屋のクーポン券、それから、有名激安イタリアンレストランチェーンの最寄の支店のレシートが入っていた。その中からエンドウのポイントカードを選んで取り出し裏返してみると、住所と名前。……香貫美里さん。家は、住所欄の番地から考えて、ショーコの自宅へ向かう通り道ではないが、今いる、この場所の近くのようだ。
 届けようと、ショーコは幼稚園方向へと少し戻り、脇道を入る。



               *



 電柱や知らない家の塀に取り付けられた番地のプレートを頼りに歩いている最中、ショーコは、偶然、今日の日付……貫太の誕生日と同じ数字に出会い、足を止めた。
(カンちゃんの誕生日と同じだ……)
そう思った瞬間、丁度1年前の映像が頭を過ぎった。…バースデーケーキのロウソクを吹き消す貫太。めったに食べない大きなえびで作ったエビフライにかぶりつく貫太。輝く、笑顔……。
(…これが、あれば……)
ショーコは、手にしていた財布を握りしめる。続いて、昨日の夕食時の貫太の、頑張って作ったに違いない笑顔が思い出された。
(これさえ、あれば……)
財布を握りしめたショーコの手が、そのまま無意識的に上着のポケットへ。
 入れてしまって、直後、ショーコはハッとし、
(ダメだ。これじゃあ、ドロボウだよ! )
すぐさまポケットから出そうとするが、ショーコの手は、ポケットの中で財布を握りしめたまま動かなかった。
(……これが、あれば)
また、1年前と同じ、あの笑顔に会える。あの笑顔が、見たい……! 
 ショーコは、財布を握ったほうの手をポケットに突っ込んだまま、片手でベビーカーを操り、回れ右。自宅へと、逃げるように足早に歩き出した。 心臓の鼓動が、痛いくらいに強く、速い。ノドの奥、コメカミまで、ドクンドクンと脈打つ。全身の皮膚が、高熱を出した時のように、ビリビリ、敏感になっている。



            *




 一旦、自宅に戻ったショーコは、罪悪感に震える手で、拾った財布の中の1万5000円を自分の財布に移し、 貫太の誕生日を祝うための材料を買うべく、エンドウの開店時間に合わせて自宅を出た。
 
 エンドウへ向かう道中、ショーコは、道往く人たちの視線が気になり、自然と早歩き。
 ベビーカーの清次は、やはり眠っていた。
 早歩きだったため、開店時間より少し早くエンドウに着いてしまい、出入口の前で待つ。その間も、人の目が気になった。いたたまれず、開店と同時、ショーコは店内に勢いよく飛び込んだが、そこでも見られているような気がし、頭が全く働かず、左腕に買物カゴをかけ、右手でベビーカーを押しながら、小走りで、1年前と同じ貫太お祝いメニュー・エビフライの材料と、紙パック入りのコーンポタージュスープ、乾杯用のオレンジジュースをカゴの中へ放り込んで回る。

 たった5分でエンドウでの買物を終えたショーコは、エンドウを出、次に、エンドウがある通りと平行に走る、自宅を基準に考えて1本向こうの通り沿いの、引っ越して来てから今まで縁の無かった、地元で評判のケーキ屋まで足を伸ばした。
 そこで、6号サイズのイチゴと生クリームのワンホールケーキに、「カンちゃん おたんじょうび おめでとう」と文字を入れてもらい、別売りのケーキ用のロウソクを6本買って、買物終了。
 そして自宅まで、また早歩き。


              *



 買物を終えて自宅へ戻り、いつものように清次を構いつつ家事をやっている間も、幼稚園の降園時間に合わせ、これもまたいつものように清次を連れて園に向かう間も、何となく視線を感じ、ショーコは落ち着かなかった。

 園で貫太を待っている時、榊健人の母に、
「どうかした? 元気無いよ? 」
それほど突然にでもなかったのだが、声を掛けられ、ショーコは、ビクッ。少々どもりながら、
「ち、ちょっと、疲れが溜まってて……」
返すと、榊健人の母は、労わるように、
「……そう。 無理、しないでね」
 ショーコは曖昧に笑って、その場を過ごした。
 
 やがて、貫太たち園児が昇降口から出て来、それぞれの家庭の都合に合わせて流れ解散。
 貫太は榊健人とブランコや鉄棒で遊んだり、追いかけっこをして、その辺を走り回ったり。
 普段どおりの貫太の様子を、ショーコは居心地悪く眺める。

 30分ほどして、榊健人母子が帰るのをキッカケに、ショーコたち母子も帰路についた。


                *




 ショーコはエビの殻を剥き、小麦粉をまぶしてから溶き卵の中にくぐらせ、パン粉をつける。余分なパン粉を軽く振って落とし、熱した油の中へ。
 相変わらず、落ち着かない。家の中にいるのに、ショーコは、ずっと、誰かに見られている気がしていた。もしも今、調理している、貫太のお祝いメニューの材料を、ネコババした金でなく、貯金や自分が稼いだ金で買えていたら、単純に貫太の喜ぶ顔だけを想像しながら、楽しく調理出来ていただろうと思うと、悔しかった。悲しかった。ネコババした金で買った材料で作った料理なんて、しかも誕生日に、なんて、貫太に対する後ろめたさもあり、惨めで、気分的に沈んでもいた。
 だが、どうしても、ごちそうを食べさせてあげたかったのだ。ショーコは、チラッと居間に目をやる。
 居間では、貫太が、置き薬屋にもらった風船を膨らめ、落とさないで何回打てるかと、上に向けた手のひらで、ポン、ポン、と風船を操りながら、打った回数を数えていた。
 清次は、座った状態で風船を見上げ、キャキャッ、キャキャッと笑う。
 ショーコは、まだ、貫太に今日のメニューを知らせていない。今日が誕生日だということも、貫太は、多分、知らない。だいぶ前から質素な食事ばかりだったから喜ぶだろうな、と、ショーコは想像し、一瞬、心が温まるのを感じたが、直後に、それは自分の力ではないのだと思い出し、余計に辛くなった。


 
 出来上がったエビフライをサラダと一緒に皿に盛り付け、レモンとタルタルソースを添えてテーブルに運ぶ。次に、温めたコーンポタージュスープもカップに注いでテーブルへ。
 乾杯用のオレンジジュースとグラスを運んだところで、急に、数を数える貫太の声が止み、静かになったのを感じ、
(? )
ショーコが居間を見ると、貫太が口をポカンと開けて立ち尽くし、台所のテーブルの上を凝視していた。
 久し振りの思わぬごちそうに、驚いているのだろう。
 カーペットの上に落ちた風船に、清次が、じゃれつく。
 貫太の分かりやすい反応に、ショーコの罪悪感がボヤける。料理だけで、これだけ驚くなら、ケーキを見せたらどんな反応をするだろう、と、少し楽しくなってしまいながら冷蔵庫へと歩き、中からケーキの箱を取り出した。それをテーブルの中央に置き、蓋を開ける。
 貫太は放心状態でゆっくりとテーブルに歩み寄り、ケーキの白く優しいホイップクリームの上の、蛍光灯の明かりを受けてキラキラ輝く真っ赤なイチゴを、イチゴに負けないくらいに目をキラキラ輝かせて見つめた。口はポカンと開けたまま、言葉は何も無い。驚きと喜びの大きさが伝わってくる。
 ショーコの中で、何かが壊れた。




    

四界戦記 月空界・地表界編外伝~ずっと、この腕のなかに・・・~ (28)

 
               * * * 


 貫太と清次を寝かしつけた後、 ショーコは、そっと自宅を抜け出した。所々にしかない数少ない街灯と家々の窓の明かりを頼りに、暗い夜道を歩く。

 自宅から100メートル程、左手側の明かりがついていない大きな家が目に留まり、ショーコは足を止めた。辺りを見回して、ひと気が無いことを確認。家の表に犬などがつながれていないことも確認してから、閉まっている門を乗り越え、誰か通りかかるといけないと考えて、狭いため道路から見えにくい建物の右側面へ回った。
 窓が無いため分からないが、外壁の内側は台所だろうか。ショーコの頭上に換気扇がある。
 ショーコは一瞬、罪の意識に苛まれ、躊躇。しかし、頭を強く振るい、
(今やらなくても、明日には、やることになるんだから……)
更に、バースデーケーキを前にした時の貫太の表情を意識的に思い出して、自分を励ます。
 3日前に拾った財布の中身は、今日の買物で無くなった。とりあえず、明日の分の食料品は、今日、今日の夕食分と一緒に買ってきたため、あるが、明後日には、家賃の支払いもある。働けない以上、生活するためには、これしか方法が無いのだ、と、自分に言い聞かせ、外壁に両手をついて全神経を集中させる。
 見えた。やはり、外壁のすぐ内側は台所だった。裏手側の窓から、背中合わせに建つ家の浴室と思しきカーテンの無い磨りガラスの窓明かりに照らされ、わりと明るい。見えるところに、現金や、現金の入っていそうな財布等は無い。ショーコは更に神経を研ぎ澄まし、見える範囲内の戸棚等の扉という扉、引出しという引出しを、片っ端から全て開ける。
 と、食器棚の引出し、スプーンやフォークの上に、不自然に封筒が載っているのを見つけた。もしかして、と思い、中身を確認しようとするが、ショーコの月空力、しかも、2種類の能力を同時に使うなどという行為は、体力を酷く消耗してしまい、長く続かない。そうでなくても、得意なほうの手を触れずに物を動かす能力は、封筒を開けて中を確認するなどという細かい作業には向かないのだ。幸い、封筒ならば、そのままでも換気扇の隙間を通る。無駄な体力を使う必要は無い。ショーコは、換気扇の隙間から外へ出して自分の手に取って確認するべく、中身が分からないままの封筒を移動させようとした。
 その時、門のほうで物音。ショーコはビクッとし、そちらを向く。この家の人らしき女性が門を開けたところだった。
 ショーコは焦って家の裏へ回る。そしてそのまま、背中合わせに建つ家の、見える範囲の外側に人がいないことを確認してから、裏の塀を乗り越え、自宅へ逃げ帰った。

 
 自宅の玄関に駆け込み、ドアを閉め、鍵も閉めてから、ショーコは、大きく息を吐きつつドアに寄り掛かる。
 盗みは失敗に終わった。
 遅くても明日の夜には現金を手に入れなければ、と、気持ちが焦る。しかし、失敗したことに少しホッとしてもいた。



四界戦記 月空界・地表界編外伝~ずっと、この腕のなかに・・・~ (29)


               * * *



 夕食をテーブルの上に並べ、ショーコ、
「はーい、ゴハンでーす」
貫太を呼ぶ。
 つたい歩きでコタツの周りを歩き回る清次に踏まれないよう、頻繁に位置や姿勢を変えながらコタツにもぐっていた貫太は、
「はーい」
返事をして台所へ来たが、テーブル手前で立ったままテーブルの上を見つめ、何か言いたげ。 
 「……? どうしたの? 」
ショーコが声を掛けると、
「あ、なんでもない なんでもない」
言って、笑顔を作り、自分の席に座って、
「いただきまーす」

 食べている最中も、貫太は、やはり何か言いたげで、話している内容が本当に言いたいこととは違うと、何となく分かる。
 食事のメニューは、以前のような質素なものではない。誕生日から今日までの5日間、ずっと、誕生日のメニューと比べ、見劣りしないメニューを続けている。今日だって、150グラムはある、子供にとっては大きな豚カツがのったカツカレーだ。だが、貫太が喜んでくれたのは、誕生日とその次の日だけ。昨日も一昨日も、今日のような態度だった。思い返せば、誕生日の次の日から食べさせてあげるようにしたオヤツも、昨日と今日は、あまり喜んでいる様子がなかった。
 ショーコは心配になる。 
(夕食とオヤツの時以外は普通だから、どこか体の調子が悪くて食欲が無いとか……? 体調が悪そうには見えないけど、それならそうと言ってくれれば、すぐに何か、食べやすい物を用意するのに……。それとも、食事関連のことで、幼稚園で何か……例えば、箸の使い方が変だと注意されたとかの、嫌なことでもあったんじゃ……)
そこまで考えが及んだところで、ショーコは、
(でも、箸が原因だと……)
沈んだ。 
 相談に乗ってやれない。ショーコも、箸は得意ではない。

四界戦記 月空界・地表界編外伝~ずっと、この腕のなかに・・・~ (30)

                 *


 貫太と清次を寝かしつけた後、ショーコは、また、そっと自宅を抜け出した。
 明日は家賃の支払日。少なくても、家賃4万8000円と、明日の食費分くらいの額が、絶対に必要だった。
 夜道を歩くショーコの足取りは重い。盗む以外に方法が無いとは言え、やはり、気がすすまない。足下の道路の隅々まで、持ち主の分からない財布のような、滅多に落ちていない物を、落ちていてくれないかと、目だけをキョロキョロ動かし、探しながら歩く。


 ショーコは、貫太の幼稚園の送り迎えの際に目をつけておいた何軒かの家々のうち、道路から見える限りの全ての窓の明かりが消えていた、エンドウの駐車場の隣のアパートの1階の角部屋に狙いを定めた。
 目をつける際の条件は2つ。1つは、換気扇が道路に面した場所に無いこと。理由は、ドアや窓の開閉は音が出やすいため、金を家人に気づかれないよう静かに家の外へ出せるのは、11月の現在、換気扇の隙間だけ。そのため、夜間であっても全く人が通らないわけではない道路から簡単に見える場所に換気扇があっては困るのだ。もう1つは、外で犬を飼っていないこと。理由は、説明するまでもない、誰もが想像のつく、ごく当然な理由だ。
 狙いを定めた角部屋は、道路に面した玄関を正面とした時、側面、つまり、道路から見える位置に換気扇があるが、エンドウの駐車場との間にある塀と建物の隙間が、ショーコがやっと通れる程度と非常に狭く、しかも、道路側から見て換気扇のある位置より手前にエアコンの室外機があるため、充分、身を潜められる。

 辺りを見回し、ショーコは、人目が無いことを確認してから、素早くエンドウの駐車場との間の塀と建物の隙間に入り、室外機の奥に、かなり窮屈だが、しゃがんで潜んだ。
 アパート側面奥に、正面から見えなかった窓が1つ。赤みがかった小さな明かりが、部屋の上部についているのが見える。おそらく、ナツメ球の明かりだ。ナツメ球くらい、就寝時や帰りが夜になると分かっている外出時には、つけっ放しだったりする。ショーコもそうだ。気にする必要は無い。
 早速、ショーコは外壁に両手のひらをつき、神経を集中させる。壁の向こうは、真っ暗だった。闇に目が慣れていたショーコには、鍋のような物が重ねて置いてある輪郭と、上から下へと続く管のようなものが、うっすらと見える。ここは、台所の流しの下に違いない。手をつく位置を、少し上にずらしてみる。やはり、流しだった。視界を蛇口に邪魔されたため、今度は、左へ少しずれる。
 外壁の内側、台所にもナツメ球がついており、様子がよく見えた。
 テーブルの上に、セカンドバッグが置いてある。中に財布が入っているかも知れない。しかし、テーブルの上に無造作にバッグが置かれているという状況。人が家の中にいる可能性が高い。音をたてないよう、やらなければ……。そう考えながら、そうっと、バッグのジッパーを開けた。
 その時、ナツメ球の明かりだった奥の窓が、パッと明るくなった。蛍光灯の明かりに変わったのだ。
 (……! )
ショーコは、一旦、作業を中止し、手は壁についたまま、息を凝らして中の様子を窺い続ける。
 ややして、上下ジャージ姿の、ショーコと同じくらいの年頃の男性が、今まで眠っていたのだろう、ボサボサの頭をバリバリ掻きながら台所へ姿を現し、台所の中央付近まで進むと、寝ぼけマナコで右を見、左を見。大きな欠伸を1つ。踵を返して台所からいなくなった。
 数秒後、蛍光灯がついたばかりの窓は、再びナツメ球に戻った。
 ショーコはホッと息を吐き、数分、様子見を続けてから、作業を再開。予想通り、バッグの中には財布があった。 
 また男性が起きて台所へ来ないよう、ショーコは、小さな物音もたてないよう細心の注意を払って、財布をバッグから取り出す。財布は換気扇の隙間を通らないため、その場で中身を確認すべく、財布を開け、中が見える角度に傾けた。苦手な細かい作業。11月だというのに、体中が熱くなり、背中や胸に汗が滲む。
 紙幣は、1万円札1枚と、5千円札1枚、1000円札1枚。硬貨は音が出易いため、初めから狙わない。

 ショーコは、財布の中の紙幣を全て抜き取り、換気扇の隙間を通して手元へ。
 と、そこへ、
「まま」
突然、道路側から声。
 ショーコがギクッとし、振り返ると、パジャマ姿の貫太。上着も着ていない。
 (カンちゃん……! )
ショーコは立ち上がり、急いで自分の上着を脱いで貫太に羽織らせてから、小声で、
「1人で、こんな所まで出てきて、危ないでしょっ! 何してるのっ? 」
 貫太は、ショーコの問いには答えず、逆に問い返す。
「ままは、なにしてるの? 」
 貫太の視線は、ショーコが左手に握りしめている紙幣に向けられていた。
 どうしよう、と、ショーコの体は、月空力での財布の中の確認作業中以上に熱くなり、嫌な汗が噴き出す。
 何て言おう。何とか、ごまかせないだろうか……ショーコは、ドギマギしているために完全に働きが停止してしまっている頭を、必死に働かせようとする。
 貫太は視線を移動させ、ショーコを真っ直ぐに見上げる。
「それって、どろぼーじゃないの? わるいことだよね? へんだと おもってたんだよ。 おかね ないって いってたのに、このごろ ごちそーばっか だったから」
 どうやら、ごまかすのは無理そうだ。初めて貫太から責められ、ショーコは、最初、言い訳っぽく、
「だって、キーちゃんを預けられないから、働けないでしょ? お金が無かったら、ゴハンも食べられないでしょ? 」
言葉を重ねていくうちに、自分がこんなことをしているのは貫太と清次のためなのに、と、だんだん、実に久し振りに、自分が可哀想に思えてきてしまい、ついに、
「あんたなんて、何も出来ないくせにっ! 」
キレた。
 一瞬の間を置いて、貫太、作り笑いしながら視線を下方へ逸らし、
「うん、そうだね。 ごめんね」
 ショーコは、言い過ぎた、と、手で口を押さえ、同時に反省。貫太と清次のためなどではない。生活のためだ。親が子供を養うのは当然のこと。そのために、どれだけ苦労しているかなど、子供には関係無い。しかも、事情はどうあれ、貫太の言うとおり、盗みは犯罪。ショーコだって分かっていた。罪悪感もあった。しかし、仕方のないこととして、何となく、許されるような気にも、少しなっていた。子供がある程度大きくなるまで、親は、子供の人生の道標のようなものだ。その、道標たる親が悪いことをしている場面を見てしまった子供は、どれだけ傷つくだろう。自分の存在自体を否定されたような気分になるのではないか。
 「そうだった そうだった、ごめん ごめん」
と、俯き加減の作り笑いで繰り返し呟いている貫太の頭を、ショーコは、前屈みになって腕を伸ばし、自分の胸に引き寄せる。
「カンちゃん、ごめんね」
 (…あったかい……)
貫太の温もりは、ショーコの気持ちを落ち着かせた。
 ショーコは貫太を放し、貫太の目をしっかりと見つめ、
「ママが、間違ってたね」
語りかけて、手にしていた紙幣を貫太の目の高さまで持っていき、
「これは返すから」
言って、月空力で、換気扇の隙間から、紙幣を元あった場所へ戻した。
「さ、帰ろうか」
ショーコは笑顔を作り、貫太に左手を差し出す。
 貫太は自然な明るい笑顔で、
「うんっ! 」
ショーコの手を握り返した。

四界戦記 月空界・地表界編外伝~ずっと、この腕のなかに・・・~ (31)

つないだ手を、大きく揺らして歩く帰り道。
 「よるに おさんぽするの はじめてだね」
貫太が、軽く空を仰ぎ気味に、まるで、たった今ショーコの盗みの現場を見てしまったことなど、完全に忘れてしまっているかのように、楽しそうに言う。
 無邪気な横顔。…カンちゃんは、こんな暗い夜の道を、たった1人で、どんな気持ちで歩いてきたんだろ……。 と、ショーコは、胸をしめつけられる思いで見つめた。
 貫太は、貫太の言葉に何も返さないショーコを振り仰ぐ。
 ショーコは笑顔を作って返し、つないだ手を握りなおしてから、そういえば、と、口を開いた。
「どうして、ママがあそこにいるって分かったの? 」
 ショーコは、盗みを働く予定のアパートに向かって歩いている間、足下の財布探しに少し注意を持っていかれてはいたが、充分、辺りを気にしていた。塀と建物の隙間に入る時には余計だ。後をつけられていたわけでは、絶対にない。加えて、どう考えても、貫太がショーコを捜してあちこち歩き回っていたと思えるほどの時間は経っていない。
 答えて貫太、
「だって、ままの あしあとが どーろに ついてたから」
 (は? )
わけが分からない。
(まあ、いいや……)
もう、盗みはしない。したくない。もっと、ちゃんと、よく考えてみれば、盗みなどしなくても、金を得る方法はあるかもしれない。家賃は、少し待ってもらえるよう頼んでみよう。食料は、ここ5日間のようなごちそうは無理だが、家にある物で、3・4日つなげると思う。その間に、何とか考えよう。…もし最悪、他に良い方法が見つからなくて、また盗まなければならなくなったとしたら、その時からは、カンちゃんに不審を抱かせないよう気をつけよう……。そう結論づけ、ショーコは、大きく息を吸い込みながら、空を仰ぐ。

 ショーコの見上げる夜空には、満天の星。と、不意に星空を横切る1つの白い影。 
(……! )
日空人だ。
 日空人は、とても急いでいる様子で幼稚園方向から飛んで来、ショーコの自宅方向へ向かっていた。
 ショーコは胸騒ぎがした。一刻も早く自宅へ帰るべく、日空人を刺激しないよう出来るだけその視界に入らないよう気を配りつつ、貫太の腕をグイグイ引っ張りながら、自宅へと全力疾走。


 ショーコの自宅アパートの上空付近で、日空人は突然、姿を消した。ショーコの不安は、ますます強くなる。

 貫太の足が地につかないほど速く走り、自宅の玄関が見える位置まで来たショーコは、
(! )
一瞬、心臓が止まるかと思った。
 玄関のドアが開け放たれている。
 ショーコは、何とか落ち着こうと努めつつ、貫太に聞く。家を出て来る時、玄関のドアを閉めたか、と。貫太の答えは、鍵は無かったから閉められなかったが、ドアはちゃんと閉めたとのこと。不安的中。
(キーちゃんっ! )
家の中には、清次がいる。

四界戦記 月空界・地表界編外伝~ずっと、この腕のなかに・・・~ (32)

離れると逆に危険だと考え、ショーコは貫太を連れて、自宅内の気配を探りながら静かに玄関を入った。
 瞬間、
「ふえぇぇぇぇぇぇぇんっ! 」
清次の大音量の泣き声。
 (キーちゃんっ! )
ショーコは、貫太の手を引き、出掛ける前に清次を寝かしていった寝室へと走る。


 寝室では、今し方、上空に見かけたのと同一人物のように見えるスポーツ刈り顔中ソバカスの日空人が、ショーコに横顔を向ける形で、ペコペコと、何度も何度も頭を下げていた。
 頭を下げている相手は、
(タークッ! )
 タークは、翼を出して大泣きしている清次を、両腕で、月齢の小さな首の据わっていない赤ちゃんを抱くように、頭を左腕で支える形で横抱きしていた。
 貫太がショーコの後ろに隠れ、ウエストにしがみついて震える。
 タークの斜め後ろには、もう1人、さらさらストレートの長髪の日空人。
 タークは、ショーコを一瞥してから、腕の中の清次に視線を落として、口元だけで、わざとらしい笑みを作り、
「母君ガ オ戻リデスヨ、王子」
 よくよく見て思い出してみれば、ショーコは、ターク以外の2人にも見覚えがあった。……まだ前の町に住んでいた頃、柏谷公園で会った日空人。 やはり、タークの部下だったようだ。
 ショーコは、清次を抱いているタークを見据えた。以前、タークは清次の泣き声でダメージを受けた様子だったのだが、
(平気なの? )
平然としている。
 ショーコの思考が聞こえたのか、タークは、ショーコのほうに耳を向け、清次を左腕だけで支え、清次から放した右手の指で自分の耳の穴を指さして、ニヤニヤ笑う。
(? )
ほんの数メートルの距離だが見えにくく、目を凝らすショーコ。どうにか見えたタークの指さす先には、
(耳栓! )
タークは耳栓をしていたのだった。
 あとの2人も、タークを真似てショーコに耳栓を見せ、ニヤニヤ。
(耳栓で、防げるものなんだ……)
ショーコは途惑う。タークだけでも強いのに、どれほどの力量かは分からないが、あと2人もいては、ショーコに勝ち目は無い。勝ち目があるとすれば清次の泣き声だけなのに……と。
 月空力でタークたち3人の耳栓を破壊すればいいのかも知れないが、清次は今、タークの腕の中だ。タークが抱いているという、この状況で、耳栓を壊すだけとは言え攻撃などしたら、タークが清次にどのような仕打ちをするか分からない。攻撃などしなくても、すぐ次の瞬間、タークがどのような行動をとるか分からない。とにかく1秒でも早く、清次を自分の許へ戻さなければ……。ショーコはチャンスを窺った。
 今、タークは、一旦放した右手を戻し、清次を両手でしっかりと抱いている。今は無理だ。
 と、その時、右耳の耳栓が取れそうになったのか、タークは 再び清次から右手を放し、右人指し指を右耳の穴に突っ込んだ。
(今だっ! )
ショーコは、月空力で清次をタークの腕から自分の左腕へと素早く移動させた。それから、右腕を貫太のウエストに回し、脇でガッチリ抱えて、自分の左手側、一番近くの窓のガラスを月空力で粉砕した。
 タークは、ショーコの突然の行動に軽く驚いた表情を見せてから、どうせ自分たちには勝てないのに無駄なことを、とでも言っているような小馬鹿にした調子で、
「何ヲ……? 」
 ショーコは、
(勝てないなら……)
砕いた窓に駆け寄り、窓枠に足をかけ、おもいきり窓枠を蹴って斜め上方へジャンプ。すぐさま翼を出し、上空へ舞い上がった。
(逃げるのが一番っ! )


 タークたちは、すぐに追ってきた。
 ショーコは別に驚きはしない。慌てもしない。予想していたことだ。子供の頃から、鬼ごっこには自信がある。
 しかし、タークたち、特に、ターク以外の2人の飛行は速かった。ショーコと同レベル……いや、それ以上だ。少しずつ距離が縮まっていく。
 ショーコの体中から、嫌な汗が滲んできた。

 ショーコは、何とかタークたちを振り切ろうと、急降下、急上昇を繰り返したり、翼を地面に対して垂直にしなければ飛べないようなビルとビルの狭い隙間をスピードを落とさず通り抜けてみたりしたが、タークたちは見事についてくる。

四界戦記 月空界・地表界編外伝~ずっと、この腕のなかに・・・~ (33)

                *


 いくら鬼ごっこが得意でも、全速力で飛び続けること4時間以上。無理な急降下・急上昇を繰り返し、ショーコの翼は限界近かった。動かすたび、翼の付け根に激痛が走る。翼全体に風が沁みる。体力的にも、もう限界だ。

 ショーコは、眼下に常緑樹の多い深い森を見つけ、賭けに出た。翼の痛みに歯を食いしばり、最後の力を振り絞って、森を目がけて急降下。葉の生い茂った位置で急停止。出来るだけ太い枝を選んで腰掛けた。
 貫太と清次を膝の上にのせ、落ちないよう腕で支え、息を凝らして身を潜める。
 都合の良いことに、貫太は繰り返しの急降下・急上昇で気を失い、清次は、赤ちゃんと言えどもどういう神経をしているのか、ぐっすり眠っている。
 ショーコを追って森の地面に舞い降りたタークたちが、キョロキョロ辺りを見回してショーコたち母子を捜しているのを、ショーコは木の上から覗く。 生い茂る緑の葉と夜の闇が、ショーコたちの姿を、タークたちの目から上手に隠してくれている。

四界戦記 月空界・地表界編外伝~ずっと、この腕のなかに・・・~ (34)


                *


 空が白み始めてきた。
 相変わらず息を凝らして木の下の様子を窺っているショーコの頭の中に、言葉ではない、吐き気がしてくるくらいにドス黒い不穏なものが流れ込んできた。ショーコが腰掛けている枝の真下には、今、タークがいる。このドス黒いものは、タークの感情だろうか。
 タークの右手方向2メートルくらい向こうの地点にタークに背を向ける格好で立っていたソバカスのほうの部下が、タークを振り返り頷いて、森の木々の葉を突き抜け、空へ舞い上がった。



 空へ舞い上がり何処かへ飛び去ったソバカスは、5分ほどで戻って来た。脇に、
(! )
恐怖に顔を強張らせた、貫太と同じ年頃のパジャマ姿の地表人の男の子を抱えている。
 木の根元に腰を下ろしソバカスが戻ってくるのを待っている様子だったタークは、立ち上がり、ソバカスの連れてきた男の子を受け取って、右手で男の子のアゴを掴み、男の子の両腋の下に自分の左腕を通してガッチリ押さえた。そして、
「聞コエマスカ? 青ノ国ノ姫君」
首をゆっくりと横に180度動かして辺りを見回しながら、何処にいるか分からないショーコに呼びかける。
「コノ近クニ イラッシャルコトハ 分カッテイマス」
 ショーコは、ソバカスが男の子を連れて戻って来た時点で、タークが何をしようとしているか分かっていた。男の子を人質にして、ショーコを自分たちの前へ出てこさせるつもりなのだ。貫太と同じ年頃の男の子を人質として選んだのは、わざとだろう。ショーコが素直に出てくる確率を高めるためだ。
(……卑怯な! )
ショーコは激しい怒りを覚え、歯軋り。だがすぐに、ハッと気づき、感情を抑える。強い思考は、タークたちに聞こえてしまう。
 タークは続ける。
「出テ来テ下サイ。 アト10数エル間ニ 出テ来ナケレバ、コノ子供ヲ 殺シマス」
 男の子の表情はショーコの位置からは見えないが、想像できる。きっと、頬は硬直して、目には涙を浮かべて……。
(…ゴメンね……)
「10! 」
タークによるカウントダウンが始まる。
 ショーコの頭の中への直接のその声には、楽しげな響き。腹立たしい。タークが? いや、自分がだ。男の子を助けるために出て行けば、自分たちが殺される。…男の子を、もし抱きしめたなら、貫太や清次と同じで温かいだろう。柔らかで優しい、良い香りがするだろう。分かってる。男の子のことを世界で一番愛している母も存在する。男の子が死んでしまったら、母も、悲しみのあまり死んでしまうかも知れない。分かってる。自分は今、男の子と男の子の母、2人の地表人を見殺しにしようとしているのだ。分かってる……。それでも、出ていけない。何て身勝手なのだろう。
「9! 8! 」
カウントダウンは進んでいく。
 男の子は何も抵抗しない。怖くて怖くて、体が動かないのだろう。ただ、
「あ、あ……」
と、低く、小さく、掠れた声を漏らす。
 (ゴメンね……)
 「7! 6! 5! 4! 3! 」
 ショーコは顔を背けた。
(ゴメンね……)
自分は貫太と清次を守りたい。何処までも逃げて、共に生き延びたい。親としての義務や使命、というより、本能。そして、
「子供たちを頼む」
慎吾との最後の約束でもある。
 ショーコの、貫太と清次を支える腕に、自然と力が入る。
(ゴメンね……)
ショーコは、ギュッと目を瞑った。呑めない物を呑み込むように、これから起こる現実を無理に受け入れ、覚悟する。
 しかし、
(……)
カウントダウンの続きが聞こえない。
 ショーコ、
(……? )
タークのほうに目をやる。
 タークは男の子から手を放していた。
 解放された男の子は、タークのやや後方の地面に尻をつき、やはり、
「あ、あ……」
と、低く小さな掠れた声を漏らしながら、タークを見上げている。
 タークの注意は、全く男の子に注がれていない。
 タークは、軽く斜め上方を仰いでいる。ややして、その視線の先、空からタークの前へと、タークより大分若いと思われる、かなり小柄な1人の日空人が、ゆっくりと舞い降りた。
 タークは、その小柄な日空人の前に、地面に片膝をつき、頭を垂れる。
 少し離れたところにいたタークの2人の部下が、慌てた様子でタークに駆け寄り、左右からタークを挟むようにして、タークと同じように跪いた。
 小柄な日空人は、タークの上官だろうか? タークと2人の部下は、頭を垂れて膝をついたまま動かない。
 小柄な日空人、こちらも、ただ、じっとタークを見下ろして、動かない。
 数分後、タークは顔を上げ、小柄な日空人を真っ直ぐに見上げて頷いた。
 返して、小柄な日空人も軽く頷き、それから再び空へ。
 タークと2人の部下も、すぐに後に続いて空へと舞い上がった。
 森の木々の上へと出たタークは、悔しげな表情で森を振り返る。
 瞬間、
(……! )
ショーコは、タークと目が合ってしまった。
 固まるショーコ。
 だが、タークは、一度、ショーコをギラッと睨み据えただけで、そのままスッと視線を逸らし、小柄な日空人や2人の部下と共に、飛び去って行った。

四界戦記 月空界・地表界編外伝~ずっと、この腕のなかに・・・~ (35)


 飛び去って行く4人の日空人の姿が遠く見えなくなると、ショーコは、いっきに力が抜けた。
 大きく1つ息を吐き、ショーコは貫太と清次を抱え、翼を使い、木を下りた。
 木の下では、男の子が、尻をついた姿勢のままで呆けていた。
 ショーコは、男の子の顔を覗きこみ、出来る限りの優しい声で、
「大丈夫? 」
声をかけるが、男の子は、ビクッ。恐怖に満ちた目でショーコを見、姿勢を変えないままで数歩分後退り。何とか、といった感じで立ち上がると、ショーコに背を向け、恐怖のためか足を縺れさせながら、森の外へ向かって駆け出した。



 男の子を暫く見送ってから、ショーコは、おぼつかない足取りで、タークたちが飛び去ったのとは反対方向、男の子が駆けて行ったのとも反対の方向へ歩き出した。 
 ここが、どこかも分からないが、またすぐにタークたちが戻って来るかもしれない。出来るだけ、この場から遠く離れなければ、と思った。 貫太と清次を、暖かくゆっくりと寝かせてあげたいとも思った。もう、翼は、木から下りる時に使ったのを最後に、少しも動かなくなった。仕舞うことすら出来ない。男の子が自分で無事に家へ帰れるかどうか心配で、本当は、きちんと母のもとまで送り届けてあげたかったが、もう、そんな力など、どこにも残っていなかった。
 ショーコの意識は朦朧としてきた。…とにかく、遠くへ……。貫太と清次を、静かに休ませてあげられる場所へ……。頭を横に振って意識をはっきりさせては歩を進めようとするが、体が、思うように動かない。
 
 森の中を通る、車が2台すれ違えるくらいの幅の舗装道路に出たところで、ショーコは、ついに、ガクンと膝を折り、倒れた。意識がスウッと地面に吸い取られていく感覚があった。




四界戦記 月空界・地表界編外伝~ずっと、この腕のなかに・・・~ (36)

* 第2部 


                * 1 *
 

 ショーコは立ち上がり、畑の土にまみれた軍手の両手を拳にして5月の午後の青く晴れ渡った空に突き上げ、爽やかな空気を胸いっぱいに吸い込んでから腕を下ろして、痛くなった腰をトントン。
 視線を軽く下に向けると、1メートルほど先に、しゃがんで小さくなり黙々と作業を続ける白いシャツの背中。手を動かす度、薄手のシャツを通して筋肉が動くのが見える、まだまだみるいが、あと数年後には慎吾そっくりになると容易に想像できるまでに成長した、貫太の背中。
 暫し、しみじみと眺めてから、ショーコはしゃがみ、作業を再開した。 
 今日の午後の最後の作業は、スイカ苗の植え付け。本葉5枚から6枚ほどに成長したスイカ苗を3号ポリ鉢から出して、土を浅く掘った穴に置き、苗が動かないよう根元に土を被せる作業だ。
 貫太と清次を両腕に抱えてタークたちから必死に逃げ回ったあの夜から、10年半。
 ショーコたち母子は、住む人のいなくなった慎吾の母の実家を自宅とし、自宅前の細い坂道を徒歩1分ほど下った突き当たりにある隣家・中村家の農作業を手伝い、その報酬として、収穫した作物や、その作物を物々交換して得た品物を分けてもらうことで、生活していた。

 ショーコが、ふと顔を上げると、少し離れた場所で作業していた中村家の奥さん・政枝と目が合う。
 政枝は、シワだらけの顔の中に埋まった小さな目で、明るく笑んだ。
 ショーコは、中村夫妻には本当に感謝している。現在、中村家で働かせてもらい生活できていることについてはもちろん、10年半前、タークから逃げた末に道路に倒れていたショーコたちを、偶然、車で通りかかって発見し、助けてくれたのは、中村家の主人・明夫なのだ。出たままの状態だったショーコの背の黒い翼については何も聞かず、ショーコの傷が完全に癒えるまで親切に看護してくれ、行くあてが無いと知ると、慎吾の母の実家に住むよう提案し、住めるよう修繕してくれ、生活していく手段として自分の所で働くよう勧めてくれた。その後も、貫太や清次が病気になった時や、日空界の進攻に伴い電気・ガスが使えなくなった際など、親身になって相談に乗ってくれた。
 中村夫妻がいなければ これまで生きてこられなかった、と言っても、大袈裟ではない。

四界戦記 月空界・地表界編外伝~ずっと、この腕のなかに・・・~ (37)

「バアバ! 」
ショーコの後ろ方向から、張りのある若い女の子の声。
 そちらを向いた政枝は、大変驚いた様子でピタッと動作を止め、口をポカンと開く。それから、その驚きのあまり意識が何処か遠くへ行ってしまったような表情のまま、まるで何かに操られているかのように、体全体をそちらに向けつつ、フラリと立ち上がった。
 (……? )
ショーコも、つられて振り向くと、20メートルほど向こうの道路に、ショーコたちが作業をしている畑のほうを向いて立ち、政枝に大きく右手を振っている、貫太と同じ年頃の、大きな荷物を背負った少女。
 少女は振っていた腕を下ろし、
「バアバ! 」
三つ編みにした長い髪を揺らしながら、笑顔で政枝のもとへ駆けて来、抱きつく。
 「有実! 」
政枝は、いつも作る明るい笑顔とは、また違った、自然な輝きを持つ笑顔で、両腕を伸ばし、少女を背中の荷物ごと受け止めた。
(有実……? )
政枝の口から出た少女の名を聞き、ショーコは、すぐに思い出した。
(ああ、あの有実ちゃん! )
 中村夫妻の孫娘・有実。ショーコの記憶の中の有実は、5歳。慎吾と過ごした最後の夏に会った時の姿だ。当時、慎吾の祖父母は既に亡くなり、慎吾の母の兄……もう長いこと、少なくても、ショーコたち母子が明夫に助けられた日には既に音信不通となっていた慎吾の伯父が、仕事があるために他の町に暮らしながら、実家を管理していた。水も空気も綺麗で緑の豊かな土地柄。今時の子供は連れてきてやれば物珍しさで喜ぶだろうから、貫太を連れて別荘代わりに遊びに来ればいい、との伯父からの誘いを受け、貫太の幼稚園の夏休み中に、たまたま慎吾も、まとまった休みを取れたため訪れた際、中村夫妻のもとへ同じく夏休みで両親と共に遊びに来ていた有実と、出会ったのだ。歳の近い貫太と有実は、すぐに意気投合し、川遊びをしたり、森へ虫とりに行ったりと、滞在していた5日間、いつでも一緒に、とにかく飛びくりまわっていた。
 現在の有実は、その頃の有実をそのまま大きくしたような感じだ。長い三つ編みの髪もそのまま。今、政枝に向けている笑顔も、当時まだ全然目立たなかったショーコの腹に手を当て、ショーコを見上げた時に見せてくれた笑顔と、全く変わらない。
「バアバの家に、泊めてくれる? 」
有実の言葉に政枝は、孫との再会を喜ぶ単純な笑みを消し、
「それは、もちろんいいけど……」
心配げに眉を寄せた。
「何が、あったの? 」
 現在ショーコたち母子が自宅としている慎吾の母の実家や中村夫妻の家がある、この辺りと、有実の自宅は、一応、同じ市内だが、車で移動したとしても1時間半はかかり、遠い。昨年末、ショーコが政枝を手伝い、中村家の物置を整理していた際に、古い人形のホコリを愛しげに、そっと手のひらで払いながら、政枝がそう言っていた。公共の交通機関が存在しない、ヒッチハイクをするにも一般の車も走っていない今、ちょっと遊びに来た、というような距離ではないはず。 実際、ショーコがこの地で暮らすようになって以降、ショーコの知る限り、有実は1度も中村夫妻の家を訪れていない。……何か、深刻な事情があるに決まっている。
 政枝の問いに、有実は、政枝の腕から身を起こし、
「あのね……」
表情を曇らせた。
 ショーコは、自分や貫太がいては話しづらいのではと考え、まず、政枝と有実のほうをハッキリと気にしつつも作業を続けていた貫太に、視線を送って意見を求める。
 頷く貫太。
 それを受け、ショーコは立ち上がり、政枝に、外そうかと声をかける。 
 しかし、有実が笑顔を作って首を横に振り、明るい口調でショーコに、
「オバサンのこと、憶えてますよ」
次に貫太を見、
「カンちゃんのことも」
おそらくショーコと貫太に気を遣ったつもりだろう、一言加えた。
 貫太は立ち上がって有実を見、ちょっと、はにかんだ様子で、
「僕も憶えてるよ。有実、ちゃんのこと」
 それを聞き、ショーコは、憶えてる? 怪しいなあ……、と思ったが、言わないでおいた。

 有実は、淡々と事情を説明する。
 ショーコが現在の地に落ち着いた半年後、日空軍が首都陥落に成功し、その後、陥落した首都を拠点に全国各地の大きな都市を次々と襲い手中に収めてきたことは、全国に広がるカラスたちの情報網・カラスネットワークの情報により、ショーコも知っていた。また、同じ市内の市街地が日空軍の被害に遭ったことも、昨日の最新情報で知り、場所が場所なだけに気にしていた。その市街地というのが、有実の自宅のある場所だったらしい。昨日の朝、自宅に家族でいたところを、突然、日空人に襲われ、両親の機転でトイレに隠された有実を残し、両親は日空人に連れ去られたそうだ。
「…そう、大変だったねえ……」
政枝が気遣うように言った、そこへ、聞き慣れた金属音。明夫の荷車の音だ。収穫したジャガイモを積んで物々交換に出掛けていた清次と明夫が、荷車を、明夫が前で引っ張り、清次が後ろから押して、帰って来たのだ。
 明夫の姿を見つけた有実は、
「ジイジ! 」
体ごとそちらを向いて、先程と同じく大きく手を振る。
 明夫は、いきなり荷車から手を放した。
 重心の狂った荷車を咄嗟に支え、安全に固定しながら、
「危ねえよ、オジサン! 」
文句をたれる清次の声など、全く耳に入らない様子の明夫。信じられない、といった表情で歩を進め、有実の正面まで辿りつき、驚きのためか、
「有実、か……? 」
掠れた声で言う。
 横から政枝が事情を説明した。
 説明を聞きながら、明夫は次第に下を向き、一通り聞き終えたところで、
「だから、さっさとこっちへ来てればよかったんだ! 都会は危ないって、あれほど……! 」
吐き出すように言う。
 政枝、気遣うように明夫の肩に手をのせ、
「お父さん……」
 明夫は深く息を吐きつつ軽く首を横に振ってから、顔を上げ、有実に向けて笑顔を作った。
「よく、ジイジとバアバのことを思い出して、頼ってきてくれたね。嬉しいよ」
 有実は笑顔で応えてから、こちらへ歩いてきた不機嫌丸出しの顔の清次に目を留め、ショーコに、
「もしかして、あの時、お腹の中にいた赤ちゃん? 」
ショーコが頷くと、清次に、
「名前は? 」
 清次は、突然自分に話を振られ、少々面食らったようすで、
「き、清次、です」
 有実は、
「『清次です』だってー」
実に楽しそう。自分と大して背丈の変わらない清次の頭を撫で撫でしながら、
「お腹の中にいた赤ちゃんが、もう、こんなに大きくなって、自分の名前、言えるんだ! 」
 嫌がって、その手を乱暴に振り払う清次。
 貫太が笑いながら、清次と有実の間に割って入った。

 明夫が、
「あ 」
思い出した、といったように声を上げ、ショーコに、
「ショーコちゃん、今日はちょっと珍しい物が手に入ったんだよ」
言ってから荷車へと歩き、その隅、むしろの陰に置いてあった大きな布袋を手に戻って来、地面に置いて、縛ってあった袋の口を解き、中から、調味料や肉など、運ぶのに容器が必要な物が手に入った時のために、物々交換に出かける際には常に持ち歩いている大きめのタッパー2つを取り出し、得意げにフタを取って見せる。
 中に入っていたのは、それぞれに肉の塊1つずつ。普段、目にする干し肉や塩漬け肉ではなく、生の豚バラ肉。
 ショーコは驚いた。 
 その表情を見て取ってか、明夫は得意満面で、今日の物々交換の相手である養豚農家を訪ねた時、丁度、処理した肉の塩漬け作業中で、まだ漬け込んでいない肉もあったため、たまにはと、漬けていない物をもらってきたのだ、と説明。それから、2つの肉の塊のうち大きいほうが入ったタッパーをショーコに差し出し、
「ほら、こっちがショーコちゃんとこの分」
 ショーコは初め、生の肉など滅多に手に入らないものを、こんなにたくさん貰うわけにはいかない、と、遠慮したが、食べ盛りの男の子が2人もいるんだから当然だ、自分の所が農業で生計をたてていけているのはショーコちゃんたち母子の若い労働力のおかげなのだから遠慮する必要などない、と押し切られ、
「ありがとうございます」
有り難く受け取った。


四界戦記 月空界・地表界編外伝~ずっと、この腕のなかに・・・~ (38)


                *


 まだ日のあるうちに作業を切り上げて自宅へ戻り、洗濯物を取り込んで畳み、夕食の仕度をして食べ、後片付けをし、風呂を沸かして入り、それらが終わり次第、夜更かしをせずに、さっさと寝る。それが、灯りを貴重な植物性搾り油の灯油を燃料としたランプに頼っている現在の、生活パターン。
 その代わり、朝は早い。夜明けとともに起き、朝食の仕度をして食べ、洗濯をして干し、家の掃除をして、中村家へ農作業を手伝いに行く。昼食時には一旦、自宅へ戻り、昼食の仕度をして食べ、布団を干した日には取り込んでから、再び中村家へ。
 電気もガスも無い生活になった当初、家事がとても大変に感じ、それまでの電気・ガスのある生活が、いかに便利で恵まれたものであったか思い知らされた。しかし、もう慣れた。便利でなくなった代わりに、家族で協力することの大切さを知った。電気・ガスがなくなった当時、貫太は8歳、清次は3歳。3歳児には、さすがに無理だが、8歳の子供に出来ることは、たくさんある と、言うより、たとえ8歳の子の力でも、借りなければ、生活が成り立っていかなかった。そして現在、貫太は16歳、清次は11歳。2人とも成長し、手先が器用に、腕力もついて、貫太はショーコ以上に立派に、清次もそこそこ、家事をこなす。電気・ガスなどなくとも、皆で分担すれば、何の不便もない。

 中村家でもらった豚肉は、せっかくの無加工の肉の風味を存分に味わうため、5ミリほどの厚さにスライスし、焙って、軽く塩を振るだけでいただくことにした。
 かまどでの調理は、初めは失敗ばかりだったが、要領を掴んでからは失敗は無い。
 ショーコと貫太が土間になっている台所にサンダル履きで立ち、夕食の仕度をしている間に、清次は洗濯物を取り込んで畳み、風呂に水を張って、後で沸かす時間が短くて済むよう、一度、沸かしておく。
 有り難いことに、水道は、もともと、この辺りの地域では 沢の水を管で引いてきて使用しており、 現在も変わらず、台所の流し、風呂場、多目的に使う外水道、家中どこの蛇口をひねっても、水が出てくる。電気・ガスが無いことには慣れ、不便を感じてないとは言え、水まで何処かに汲みに行かなければならないとしたら、どんなに大変だったろう。

 夕食の仕度を終え、3人揃って食卓を囲む頃には、日が暮れ、家の中では灯りが必要になる。
 台所と台所から見て一番手前の部屋との境は障子、一番手前の部屋と真ん中の部屋との境は木製の格子のついた磨りガラスの引き戸、真ん中の部屋と一番奥の部屋との境は襖、と、それぞれごく薄い戸に隔てられているだけで一直線上に並ぶ畳の部屋3部屋のうち、 手前の部屋のちゃぶ台の上のランプに火を灯し、3人で食事を運んで、ショーコはちゃぶ台の、台所側から見て右側の1辺、貫太は奥の1辺、清次は手前の1辺、と、定位置に座り、3人で声を揃え(清次の声は小さめだが)、
「いただきます」
特に揃えようとしているわけではない。3人で運び、ちゃぶ台の前に同時に腰をおろすため、自然とそうなる。
 ショーコと貫太にとっては久し振り、清次にとっては、おそらく物心ついてから初めて食べる、無加工肉。その味を、ショーコは無言になってしまいながら味わった。……このジューシーさと甘みは、干し肉や塩漬け肉には無いものだ。
 貫太と清次も、無言。1口噛みしめた途端、顔がほころび、ホウッと溜息がもれる。
 2人して全く同じ反応を、しかも同時にした貫太と清次に、ショーコは思わず笑ってしまいながら、そう言えば、と、口を開いた。
「カンちゃん、本当に有実ちゃんのこと、憶えてたの? 」
 貫太は、あっさりと、
「ううん。憶えてなかったよ。ついさっき、何となく思い出したけど」
 ショーコは、やっぱり、と笑いながら、
「カンちゃんは優しいね」
 すると、清次が怒ったように、
「って言うか、ただのお調子者だろっ? 」
口を挟む。
「本当に優しさのつもりでも、いらねーよ! あんな変な姉ちゃん相手に! もったいねえっ! 減るぞっ! 」
 その言葉に対し、貫太は目を瞑って両手のひらを自分の胸にあて、
「大丈夫。僕の優しさは無尽蔵だからっ」
冗談。
 ショーコも、からかい口調で、
「キーちゃん、さっき有実ちゃんに子供扱いされたこと、まだ怒ってるの? 」
 清次は、
「当たり前だっ! 」
即答。
 現在、学校などというものは存在しないが、もし存在し、通っていたなら、清次は小学生、有実は高校生。そう考えると、有実から見て清次は本当に子供なのだから仕方ないのに、と思ったショーコが、同じことを思ったに違いない貫太と顔を見合わせて笑っていると、清次は、ますます怒り、プウッとふくれて黙り込んで、夕食をかっ込み、
「ごちそうさま! 」
さっさと席を立ち、ちゃぶ台の上のランプの火で、別の小型のランプに火をつけ、それを手に、
「オレ、風呂の湯加減、見てくるっ! 」
腹立ち紛れにか足音荒く、台所方向、風呂場へと去って行った。

 今のような暖かい季節、風呂は、夕食前の時間帯に一旦、熱めに沸かしてしまえば、沸かしなおす必要が無いことが多い。今日も必要なかったため、ジャンケンで順番を決め、食後、すぐに入り始めた。
 今日の順番は、清次、ショーコ、貫太。全員の風呂終了後、すぐに寝れるよう、風呂の順番を待っている間に、今日は貫太が食事の後片付けをし、ショーコが、食事をする部屋の2部屋向こう、寝室として使っている一番奥の部屋に3人分、3組の布団を並べて敷いておいた。
 そして、全員が風呂を済ませた後、電気があった頃では考えられないような時間に、ショーコを真ん中に右に貫太、左に清次、と、それぞれ布団に入る。




四界戦記 月空界・地表界編外伝~ずっと、この腕のなかに…~ (39)


             *  *  *


 起床し、着替えた後、朝食の仕度をするため台所へ向かう途中、食事をする部屋と寝室に挟まれた真ん中の部屋の、玄関とは反対側の窓からの景色は、時々、ショーコにとって懐かしく、そして切ない。
 立ち籠める霧が、少し高台に建つショーコの自宅のその窓からは、眼下に雲が広がっているように見え、故郷・青の国を連想させるのだ。……自分のせいで壊滅に追い込まれてしまった、青の国。ショーコは、溜息をひとつ。時々、夢にみる青の国には、城内の書斎にドッシリと構え執務中の父王がいて、中庭で近所の子供たちと花に囲まれ微笑むユウゾがいて、廊下で、ショーコの私室で、庭で、城外でまで、ショーコの周りを忙しなく動き回るバアヤがいて、ショーコの私室の窓辺でくだらないお喋りをするハナコがいる。町には人々の賑やかな笑い声が響き、野原では虫たちが戯れ、森では小鳥たちが歌い……。ショーコが暮らしていた頃のまま。今では、すっかり変わってしまっているはずなのに……。自分の、せいで……。
 思い耽って立ち尽くすショーコ。
 と、
「お母さん、おはよう! 」
寝室から出てきた貫太の、ショーコの後ろを通り過ぎざまの実に爽やかな挨拶。
 ショーコは ハッと我に返り、
「あ、おはよう! 」
既に土間に下りている貫太の背中に返した。


 ショーコが土間に下りたところで、
「お母さんっ! 」
外水道で洗濯をするため、たった今、外に出たばかりの貫太が、血相を変えて、丁度ショーコが立っている真正面に位置する勝手口から飛び込んできた。
 少々面食らい、
「……何? 」
鈍く聞き返すショーコに、貫太に続いて勝手口から顔を覗かせた明夫が、
「朝早くから悪いね」
申し訳なさそうに言ってから、早口で説明した。有実の姿が見当たらない、と。15分くらい前に起床した明夫は、有実が寝ている部屋を覗いた。昨日こちらに到着したばかりで疲れているだろうから、と、今日1日は、ゆっくり休ませるつもりで、起こす気はなく、ただ、ちゃんと眠れたかどうか気にかけて……。すると、布団がキチンと畳まれ、有実の姿が無かった。玄関に靴も無く、家の周辺を捜したが見つからなかった、と。
 ショーコは、自分たちも一緒に捜します、と明夫に申し出、貫太が頷くのを確認してから、部屋の奥の奥を振り返り、
「キーちゃん、ちょっと来てー」
寝室で3人分の布団を畳んでいる清次を呼んだ。
 土間の手前まで出てきた清次に、ショーコが、有実がいなくなったと伝えると、清次は舌打ち。
「ったく、何なんだよ、あの姉ちゃんはっ! 」
面倒くさそうに頭を掻きながら、土間に下りざま靴に足を突っ込む。




四界戦記 月空界・地表界編外伝~ずっと、この腕のなかに・・・~ (40)

 政枝は連絡係として中村家に残り、ショーコと貫太、清次と明夫、と、二手に分かれて有実を捜すことになった。
 清次と明夫は、中村家前から左手側へ。ショーコと貫太は、中村家前から右手側へ。
 ショーコと貫太が右手側へ進むと、すぐに自然の木々の短いトンネル。トンネルを抜けて突き当たる道は、緩やかな坂道で、左が上り、右が下り。
 坂道手前で貫太は足を止め、有実を出来るだけ早く発見するため左右に分かれて捜そうと提案しようとするが、貫太が皆まで言わないうちに、ショーコ、強めに、
「ダメだよ、そんなのっ! 」
言ってしまってから、ハッと口を押さえた。このところ、貫太は一人前っぽく振る舞いたがっている。努めて大人であろうとしているのが分かる。そのため、今のような子供相手のような頭ごなしな言い方は、貫太を傷つける。分かっては、いる。気をつけてもいるが、やはり、実際に、貫太はまだまだ子供。もう大人なのだと自然に思わせてくれるようになるまでは、またきっと、今のような言い方をしてしまうだろう。以前にも、何度かしてしまった。
 最近、ショーコは、貫太への接し方が難しくなったと感じる。気をつけなければ……。しかし、内容に関しては譲れないことが多いため、本当に難しいのだ。貫太を1人で行動させられない。させるとしても、ショーコがすぐに異変を察知できる範囲内。清次は、いい。1人でいる時に日空人に襲われても、相手の飛行能力が10年半前のタークの部下たち以下であれば、子連れのショーコでも逃げきれたのだ、身軽な清次なら逃げきれる。身を守るのに役立つ攻撃性の月空力も持っている。何とか切り抜け、ショーコのもとまで逃げて来れる。赤ちゃんの時以来、(とても良いことだが)能力の出る幕が無く、目にする機会がなかったが、一度目覚めた能力が消えることはない。貫太は、無理だ。空を飛ばない。月空力も持たない。先のことは分からないが現段階では慎吾のように体1つで日空人と渡り合えるとも思えない。
 貫太は俯き、黙り込んでしまっている。 
 だが、他にどう言えばよかったのか。どんな言い方をするにしても、内容は変えられない。もっと優しい口調で丁寧に説明しようとすれば、ますます小さな子供相手に話しているような雰囲気になり、余計に不愉快な思いをさせてしまう気がする。本当に、もう、どうしていいか分からない。こんな時、父親だったら、慎吾だったら、どうするだろう。慎吾が、いてくれたら……。ショーコも俯き、黙り込んでしまう。
 暫しの沈黙。
 ややして、貫太が小さく息を吐き、
「…そっか……」
ショーコと目を合わさず、
「そうだよね……」
下を向いたまま作り笑い。
 本当に、どうしたら……。ショーコは唇を噛んだ。
 と、その時、
「あ」
急に貫太は顔を上げ、視線をゆっくりと正面から左側へ移動させた。そして、
「お母さん、あっちだよ」
左手方向を指さす。
 「行こう」
左に曲がり、坂を上っていく貫太。
 ショーコは慌てて追う。
「待って! どうして? 」
 貫太は何かに神経を集中させているように、ショーコの問いには、うわの空気味に、
「何て説明していいか分かんないけど……。有実ちゃんの歩いた跡が残ってるって言うか……」
 (…歩いた跡……? )
ショーコは首を傾げる。足跡など、どこにも見当たらない。
 ショーコがそう言うと、貫太、やはり、うわの空気味に、
「うん、一般的な足跡じゃなくて、ホント、何て言えばいいんだろう……」


 大きなストライドでグングン歩いて行く貫太に、ショーコは小走りでついて行くが、それでも間が開く。
 やがて、大きなカーブに差し掛かったところで、貫太は道路の左側に寄り、足を止めた。
 左手側は、沢の水が小さな滝のようになっている場所。たくさんのフキが生い茂っている。
 貫太は、小さな滝の水が落ちる先、道路から下に向かって、
「有実ちゃん! 」
呼びかけた。
 (まさか! )
やっと貫太に追いついたショーコが下を覗くと、そこには、大きく成長したフキに埋もれるようにして膝を抱えて蹲る有実の姿。貫太の呼びかけに反応して、ゆっくりと顔を上げ、ボンヤリとショーコや貫太のほうを見上げる。
 ショーコは驚き、同時に思い出した。昔、ショーコが生活費を稼ぐため盗みを働こうとしていた現場を貫太に押さえられた時のことを。貫太はその時、「道路にママの足跡がついていたから」、ショーコがどこにいるのか分かったのだと言っていた。そして今は、「有実ちゃんの歩いた跡が残ってる」と。もしかしてこれは、月空力なのではないだろうか。バアヤが持っていた、ある特定の人物の残して行った微かな気配を辿りその人物の行き先を知る能力に似ている。それが貫太の場合、気配のような曖昧なものではなく、はっきりとした痕跡として目に見えるのではないだろうか。そうとしか考えられない。
 少し時間をかけて、目の前にいるのがショーコと貫太であると気づいたらしい有実は、目と口を大きく開き、
「カンちゃん! オバサン! 」
顔をいっぱいに使って驚きと安堵と喜びを表現する。
 ショーコは、有美の元気そうな様子に安心し、貫太も、
「よかった……」
大きく長く、息を吐いた。
 有実は、昨日、中村家へ向かう途中、この場所にフキがたくさん生えているのを見つけ、内緒で採って来て明夫や政枝を驚かそうと、今朝、起きてすぐ出掛け、採ろうとしたところ、足を滑らせて落ち、その際、足を痛めて登れなくなり、帰れなかったのだと説明した。
 それを受け、貫太、
「待ってて、今、助けるから」
言って、滑らないよう注意を払いつつ、90度近い急な斜面を、有実のところへと下りた。
 そして、有実を背負い、今度は指先や爪先をかける場所を慎重に選びながら、道路へと登ってくる。
 ショーコは、真剣な表情の貫太を見守った。
 本当は、ショーコが月空力で有実を道路へ引き上げてもよかった。
 中村夫妻にはショーコは自分の月空力のことを特に隠していないのだから、孫の有実にだって、知られても構わない。それに、月空力のほうが安全で早い。
 しかし、貫太を尊重してやりたかった。
 譲れる部分は出来るだけ譲ったほうがよいと考え、貫太に任せたのだった。

 中村家への道を、貫太は、有実を背負って歩く。
 有実は貫太の首筋に頬を寄せ、小さな小さな声で、
「来てくれて、ありがとう……。心細かったの……」
 貫太が満足げに笑むのを、ショーコは隣を歩きながら見た。


四界戦記 月空界・地表界編外伝~ずっと、この腕のなかに・・・~ (41)

            
              *  *  *



 昼食の仕度をしようと台所の流しの蛇口のカランを捻ったショーコは、
「あれ? 」
首を傾げ、一度、カランを締めてから、もう一度、水が出てくるはずの方向へ回す。
「あれ? 」
水が出てこない。
 ショーコの、あれ? あれ? を、少し後れて中村家の畑から戻ってきた貫太が聞きつけ、
「どうしたの? 」
勝手口をくぐりながら声をかけた。
 ショーコが、水が出ないと話すと、貫太、
「どこかで管が外れてるのかもしれないね。僕、見てくるよ」
言って、入ってきたばかりの勝手口から出て行こうとする。
 水を引くための管は、だいぶ遠くから繋がっている。外れている箇所が、自宅から かなり離れた場所である可能性もある。
 貫太を1人で行かせるわけにはいかない。
 この間、いなくなった有実を捜している時に、貫太にも月空力らしきものがあると気づいたが、身を守るのに使える能力ではない。1人で行動させられないことに変わりはない。
 ショーコは、
「待って、お母さんも行くから」
焦って貫太を呼び止めた。
 貫太はショーコに背を向けたまま、大きな溜息。
「また? 」
 聞いたことの無い低い声に、ショーコは驚き、一瞬、竦む。
「ま、『また? 』って……。だって、1人で行って、もし日空人に襲われたら、どうするの? …お母さんと行くのが嫌なら、キーちゃんと一緒に……」
 貫太が体ごと振り返った。
 軽く構えてしまうショーコ。
 貫太は、そんなショーコの脇を通り過ぎ、靴を脱いで畳の上に上がってから、一旦、足を止め、ショーコに背を向けた状態で俯き、
「そうだよね。僕、頼りないから……」
低く暗い沈んだ声で、それだけ言い、土間から一直線に並んでいる2部屋を早歩きで通り抜け、寝室に入って、普段は閉めることのない襖を閉めた。
「カンちゃん……? 」
ショーコは靴を脱いで上がり、寝室の、閉ざされた襖の前へ。
「カンちゃん」
呼びかけても、返事が無い。襖を開けようとしても、つっかえ棒でもしたのか、開かない。
「どうした? 」
貫太より更に後れて帰ってき、ショーコの背後までやって来た清次から、声がかかる。
 言葉を濁すショーコ。
 清次は、中途半端に状況を察し、
「襖自体を外せば、開くだろ? 」
4枚並んだ襖のうち1枚の襖の両側の縁に手をかけ、外そうとした。
 ショーコは、
「あ、いいの、いいの」
大急ぎで止め。
「お昼ごはん、食べよう」
清次の背を押し、寝室から離れた。



 水が使えないため、昼食は、朝食の残りごはんで作ってあった おにぎりだけで済ませ、貫太の分を ちゃぶ台の上に置き、ショーコは一度、寝室前へ行って、
「ちゃぶ台の上に、おにぎり置いてあるから、食べてね。キーちゃんとお母さん、中村さんちに行ってくるから……」
言い残して、清次と2人で中村家へ。


四界戦記 月空界・地表界編外伝~ずっと、この腕のなかに・・・~ (42)

               * 


 1日の作業を終え、帰りがけに水道の管の外れた箇所を調べて修繕してくるよう清次に頼み、ショーコが自宅へ戻ると、ちゃぶ台の上に、貫太の分のおにぎりが、手つかずのまま置いてあった。
 靴を脱いで土間から上がろうとしたショーコは、ヨロける。
(……? 疲れたのかな……? )
何だか、頭が少しボーっとしている。
 頭を軽く横に振り、1度、深呼吸してから、ショーコは寝室の前へ。
「…カンちゃん……」
遠慮がちに声をかける。
 返事は無い。
 ショーコは襖に手をつき、中の様子を透かして見る。
 貫太は、両手を頭の後ろで組んで枕にし、畳の上に寝転がって、天井を見据えていた。
(カンちゃん……)
 貫太は、頼りなくなどない。今の生活の中では、随分と貫太に助けられている。それだけではない。慎吾の死後、ショーコは、ずっと、まだ幼かった貫太と清次に精神的に支えられてきた。今だって、そうだ。頼りなくなど、ない。それだけでは、不充分だろうか……?
 ショーコは小さく息を吐く。

 水が出なければ夕食の仕度が出来ないため、先に洗濯物を取り込もうと、ショーコはサンダルを履き、洗濯物を取り込むのに使うカゴを持って外に出、庭の隅、縁側と平行に置いてある物干し台へ。
 高い位置のサオに干してあるバスタオルを取ろうと、上を向いて腕を伸ばす。
 瞬間、めまい。
 咄嗟に物干し台に掴まる。
(……? )
めまいは、すぐに治まった。
 3人分、3枚のバスタオルをサオから外して、地面に置いたカゴに入れ、続いて、他の洗濯物も、サオやハンガーから外しては、カゴに入れていく。



 全て取り込み終わって、縁側へと運ぶべく、一旦、カゴを持ち上げた、その時、視界が大きく揺れた。
 立っていられず、膝をつく。
「お母さん! 」
清次の叫び声。
「お母さん! お母さんっ! 」
 自分は どうやら仰向けに転がってしまっているようだと、ショーコは、何となく分かる。
 清次が間近から顔を覗き込んでいるようだが、とにかく視界が揺れていて、自信が無い。
 そこへ、
「どうしたの? 」
清次の尋常でない叫び声が聞こえたのか、貫太が出てきたらしい声が聞こえる。
 貫太のものらしい顔が、ショーコを覗いた。
 清次は叫び続ける。
「お母さん! お母さんっ! 」
 貫太が、
「落ち着いて! 」
完全に取り乱している様子の清次を一喝。
「落ち着いて、キーちゃん。とりあえず、布団に寝かせよう。僕が運ぶから、キーちゃんは布団を敷いて。それから、明夫オジサンを呼んできて」
 貫太が的確に指示を出すのを、ぼやけた意識の中で聞きながら、
(カンちゃん、すっかりお兄ちゃんだね。頼りに、なるね……)
そんなふうに思ったのを最後に、揺れる景色が全て消え、貫太の声も清次の声も次第に遠く、やがて、聞こえなくなった。

四界戦記 月空界・地表界編外伝~ずっと、この腕のなかに・・・~ (43)


               *


 目を覚ましたショーコは、寝室の、普段通りの場所に敷かれた布団の中にいた。
 目を開けて最初に見えたのは、心配げにショーコを覗き込む清次の顔。
「キーちゃん……」
 ショーコと目が合うと、清次、最初に見えた心配げな表情から一転、素っ気ない態度で徐に顔を上げて台所のほうを向き、
「兄ちゃん! お母さんが起きたよ! 」
大きな声で貫太を呼ぶ。
 ややして、貫太がやって来、
「気分、どう? 晩ごはん、食べられそう? 」
ショーコの枕元に腰を下ろした。
 昼に聞いた低い声ではない。いつもと変わらないトーン、優しい口調。
「明夫オジサンが、お医者さんを呼んでくれてね、診てもらったんだけど、お母さん、疲れが溜まってるんだって。心配はいらないけど、たくさん栄養を摂って、2・3日ゆっくり休んだほうがいいって言ってた。明夫オジサンも、作業のほうは気にしなくていいからって」
「ゴメンね、心配かけて……」
 ショーコの言葉に、貫太は優しい笑みを浮かべ、首を横に振る。
 と、そこへ、
「ごめん下さーい」
玄関から大人の男性の声。
「はーい」
貫太は返事をしながら立ち上がり、玄関へ。
 玄関を開ける音。
 大人の男性の客人が、
「お母さんの具合は、いかがですか? 」
と尋ねる。
 答えて貫太、
「たった今、目を覚ましたところです」
「そうですか。それは良かった。……あ、これを」
「ありがとうございます。助かります。もう暗くなってきてるのに、すみませんでした」
「いえ、完全に暗くなる前に届けられて良かったです。今度は、仲間と一緒に行って、もっと たくさん採って来ますよ。では、また明日」
 会話は、
「ありがとうございました」
との貫太の台詞を最後に終わったらしく、沈黙が流れる。
 少ししてから、玄関を閉める音。客人は帰ったようだ。

 寝室へ戻ってきた貫太は、再びショーコの枕元に腰を下ろしつつ、
「お母さん、これ」
何かを握っているらしいグーにした右手をショーコに差し出す。
 ショーコが条件反射で手のひらを上に向けて貫太の右手の下に出すと、貫太はグーを解いた。
 そこから落ちてき、ショーコの手のひらの上に転がったのは、サクランボ1つ。
「お母さんが過労で倒れたって言ったら、良い物を知ってるから採ってきてくれるって言って、今、届けてくれたんだよ」
 貫太の言葉に、ショーコは、
(過労にサクランボ? しかも1個……)
首を傾げながらも、その気持ちは嬉しく、
「そう、今、来た人が……? 」
手のひらのサクランボを見つめた。
 途端、
(……違う! サクランボじゃない! )
驚きすぎて、来てくれたのが誰なのかと聞こうとしていたのが、ふっ飛んだ。
 ショーコの手のひらの上で転がっている実は、サクランボではなく、「ジヨーの実」。
 青の国の風の縁近くの森に多く自生していた実で、青の国の人々は、古くから薬として利用していた。効能は、肉体疲労時や病中病後、産前産後の栄養補給、滋養強壮、虚弱体質等。地表界では見かけたことが無いのだが……。
 ショーコの驚きに応えるように、貫太、
「人じゃないよ、カラスだよ」
 それでショーコは納得。カラスならば、青の国や、その他の月空界の3国のうち いずれかの国へ行って、採ってきたのかも知れない、と。
 しかし、今度は、一度は聞き流してしまったが、はたと気づいて、別の理由で驚く。
「カラスッ? カンちゃん、カラスと話せるようになったのっ? 」
 驚いたショーコに、ちょっと呆れ気味の調子で清次、
「は? 何言ってんの? オレら月空人がカラスと話せるのは、当たり前だろ? 」
(…そりゃ、そうだけど……)
「お母さん、前に、オレに、自分で言ったんだろ? 月空人がカラスと話せるのは普通のことだけど、地表人は話せないのが普通だから、気味悪がられるから、中村のオジサン、オバサン以外の地表人に、カラスと話してるところを見られないように気をつけろって」
(確かに言ったけど……)
 と、いうことは、清次の目に、貫太がカラスと話すことが当然のこととして映るくらい前から、貫太は、カラスと話していたということだろうか?
 全然知らなかった、と、ショーコは少しショック。


四界戦記 月空界・地表界編外伝~ずっと、この腕のなかに・・・~ (44)


              *  *  *



 明夫の厚意に甘えて休むこと、3日目の朝。
 勝手口を出、庭を抜け、細い坂道に面した門まで、ショーコは貫太と清次を見送りに出た。
 いつもは、何か その時その時の事情で 貫太や清次を先に中村家へ送り出すことがあっても、見送りなどしないが、今日は、何となく そうしたい気分だった。
「行ってらっしゃい」
笑顔で言うショーコに、貫太は、
「行ってきます」
笑顔で応え、清次は、首を傾げながら背を向け、後ろ姿で手を振った。



 貫太と清次が中村家の敷地内に入ったために見えなくなるまで見送ってから、ショーコは物干し台の前に立った。
 少しくらい家のことをやって 体を慣らさなければ、と、洗濯物干しを引き受けていた。
 貫太が、洗濯済みの洗濯物をカゴに入れ、物干し台の前に置いて、干すばっかりにしておいてくれてある。
 澄みきった青空。適度に風もある。絶好の洗濯日和だ。
 ショーコは腰を屈め、カゴの中、一番上に載っている 清次のシャツを手にとり、パンパンッと宙を舞わせてシワをのばし、ハンガーに掛ける。
 そのシャツの大きさは、ほとんどショーコの物と変わらない。
 ここで暮らすようになった頃には赤ちゃんだったのに、と、自然と笑みがこぼれる。
 ショーコは鼻歌まじり、次々と干した。調子いい。
 これならば、もう明日から中村家で農作業が出来そうだ、などと考えながら、カゴの中の最後の1枚に手を伸ばした。
 と、その時、にわかに頭上に影が差したのを感じ、雲が出てきたのかと、上体を起こして空を仰ぐ。
 直後、
(! )
 ショーコは固まった。
 太陽の光を遮ったのは、雲ではなかった。
 遮ったのは、
(タークッ! )
 貫太と清次を抱えて逃げた夜から数えて10年半分老けたタークと、同じく年齢を重ねた、顔ぶれどころか簡単に変えられる髪型等の特徴すら変わらない2人の部下。
「随分、捜シマシタヨ、青ノ国ノ姫君」
タークは、部下と共にゆっくりとショーコの目の前の舞い降り、
「アマリニモ見ツカラナイノデ、私ニ断リ無ク、イズレカノ場所デ既ニ オ亡クナリニナッタノデハトモ考エマシタガ、捜シ続ケタ甲斐ガアリマシタ」
ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべながら、ショーコの頭の中に語りかける。
「ヤハリ アナタハ、私ノ手ニ掛カッテ、死ナナケレバナリマセン」
 ショーコは周囲に視線を走らせた。
 タークたちとの距離が近過ぎる。この状況で、どうしたら上手く逃げられるか、と、考えを巡らせる。
 逃げる助けとなりそうなものは、地面の土と、細い坂道の向こうの森。
 ショーコは地面に両手のひらを向け、自分の身長より高く土を月空力で大量に弾きあげて、タークたち3人から一瞬だけ姿を隠し、その隙に翼を出しざま後ろ斜め上へ飛んだ。
 が、
(! )
3人は、ショーコとほぼ同時と思える素早さで舞い上がって来、ショーコを取り囲んだ。
(…ダメだ、逃げられない……)
ショーコは諦め、地面に降りる。
 3人も、ショーコが降りるのに合わせるようにして、ショーコを囲んだまま降りた。
「駄目デスヨ。逃ガシマセン」
ショーコの正面でニヤニヤ笑いのターク。 
 ショーコは覚悟を決め、タークを見据えた。
 逃げられないなら、戦うしかない。
 タークが、不意にショーコから視線を逸らす。
 ゆっくりと首を動かして180度の広範囲を見回し、
「トコロデ、オ子サンタチハ? 」
 ショーコは、ふと思いつき、
「死にました」
口に出す。
「あの子たちは、死にました」
死んでしまったことにしておけば、仮に今、ショーコがタークたちと戦って敗れ、命を落としても、いや、間違いなく敗れるが、もう、貫太と清次に、タークに関しての危険はなくなる。
 日空人による被害は後を絶たず、そのうち、この静かな農村にまで及ぶ日が来るであろうが、カラスネットワークによれば、どうやら、現在 日空人が地表人の町を襲うのは、その土地を欲しているのではなく、労働力確保のための人集め。執拗につけ狙われたりしなければ、今のあの2人なら、何とかかわし、生き延びられる。協力し合って、生きていける。
 自分の役目は終わったのだ。
(カンちゃん、キーちゃん、元気でね……)
ショーコは、タークに聞こえないよう、小さく小さく、心の中で呟いた。
 そして一度、大きく息を吸って吐いてから、腹にグッと力を込め、更に強くタークを見据える。
 以前、タークは、ショーコに恨みがあると言っていた。
 だが、ショーコにだって、タークに対して恨みがある。
 勝ち目がないのは百も承知。しかし、同じ戦うなら、せめて一矢報いたい。
 ショーコは狙いを覚られにくいよう、若干 威力と正確さは落ちるが、手を使わず、タークの眉間に意識を集中させた。
 けれども、月空力がタークに及ぶ寸前で、
(っ! )
ショーコは、自分の斜め左右背後の部下たちに、両側から翼を掴まれ、地面に うつ伏せに押さえつけられた。
 狙いが大幅にズレ、また、タークがショーコの狙いを察知したのか素早く上空に舞い上がったこともあり、月空力はタークの衣服の裾を掠めて千切っただけに終わった。
 ショーコは歯噛み。
 だが、1度ダメだったくらいで諦めるワケにはいかない。
 押さえつけられたままの姿勢で上空のタークを睨みつつ、自分の体の周りの地面の土を、部下たちの顔を目がけて月空力で弾き、目をやられた部下たちの手から逃れ、上空へとタークを追う。
 待ち構えていたタークが、
(! ! ! )
一度、両腕を、空のもっと高みへと向けて上げ、いっきに振り下ろすといた、満身の力を込めて、といった感じのポーズで、ショーコの手を触れずに物を動かす月空力に似た力を使い、ショーコを地面へ向かって叩き落とした。
 その攻撃による勢いで、かなりの速度で背中から地面へと落ちていくショーコ。
  タークとの距離からの計算上、あと3メートルで地面というところで、
(! ! ! ! ! )
今度は、背中を衝撃が襲い、再び空へ。
  下にいた部下たちが、タークが使ったものと同じ力で突き上げたのだ。
  ショーコの鼻と口から血が噴きだす。
  上空で待機していたタークが、下から飛ばされてきたショーコを、タイミングを計って右手で襟ぐりを掴んで自分のほうへ引き寄せた。
  ショーコは、人形のように ぶら下がる。
  もう、手も足も、翼も動かない。
  ターク、
「オ別レデス。姫君」
ニヤリと笑い、ショーコの胸の真ん中あたりに、そっと、空いている左手を置いた。
 一瞬、非常に強い圧力が胸にかかったのが分かった。
 タークが右手を放す。
 落下していくショーコ。
(カンちゃん、キーちゃん、バイバイ……)
意識が薄れていく。

四界戦記 月空界・地表界編外伝~ずっと、この腕のなかに・・・~ (45)

(…シンゴさん……。今、行くから……)
 そうしてショーコは、硬い地面へと叩きつけられ……なかった。
 ぼんやりとした視界に、慎吾の顔。
 地面にぶつかる前に、慎吾が抱き止めてくれたようだ。
(シンゴさん……。迎えに、来てくれたの……? )
 だが、何となく違和感。自分を支える腕や胸が、慎吾のものにしては頼りないような……。
 ショーコを覗き込んでいた慎吾が口を開く。
「お母さん」
(…お母さん……? )
 慎吾は、貫太が生まれてからもショーコのことを「ショーコさん」と呼び、「お母さん」とか「ママ」とかは、貫太や清次相手にショーコのことを話す時にしか使わなかった。
(……? )
至近距離から覗き込む その顔を、霞む目で見つめること数秒。
 やっと、
(…何だ、カンちゃんだったの……)
自分を受け止めたのが貫太だったことに気づき、
(っ! カンちゃんっ? )
気づいた途端、意識も視界もハッキリした。
 心配げな貫太の向こうには、背に翼を出し、険しい表情で上空を見据えている清次。
(キーちゃんまでっ! )
「…どう、して……」
 思うように出ないショーコの小さく掠れた声を、一生懸命聞き取ろうとしているように、ショーコを見つめる貫太。
「…どう、して、……来ちゃった、の……? 」
 皆まで聞き取ったところで、クッとショーコから視線を逸らし、小刻みに震えながら、
「ふ、ざけんなよ……」
呻くように呟く。
 ショーコは、ビクッ。
 こんなに怒っている貫太は、初めて見た。
 貫太は、一度、小さく息を吐き、震えを抑えてから視線をショーコに戻す。
 その目は、怒りというより、むしろ、悲しみに満ちていた。
「お母さん。僕たちは、そんなに頼りないの? 」
静かな口調。
「…1人で戦って……。こんなに、傷ついて……」
 貫太の底からの優しい心が、傷に沁みる。
 辛くて、今度はショーコが目を逸らした。
 と、思わぬ人と目が合った。……タークの部下のうち、長髪のほう。
 目を見開いて仰向けに転がり、サラサラの髪が地面に放射状に広がっていて、ピクリとも動かない。
 ソバカスのほうも、耳から血を流して長髪の上に折り重なり、うつ伏せで倒れていた。
(もしかして、2人ともキーちゃんが……? )
ショーコは清次に目をやった。
 清次は、上空を見据え続ける。
 その視線の先のターク、地面から2メートルほどの高さまで下りて来、
「コレハコレハ、王子様ガタ。生キテオラレタノデスネ。母君ハ、アナタガタガ亡クナラレタト オッシャッテイタノデスガ……」
余裕のニヤニヤ笑い。
「ソレニシテモ、アナタガタノ母君ハ強イ。マダ息ガアルノデスネ」
 タークの、どす黒い感情が流れ込んでくる。
 タークは、
「丁度イイ。完全ニ息絶エル前ニ、目ノ見エルウチニ、更ナル苦シミヲ味ワッテイタダキマショウ」
清次に向けて右手を構えた。
(キーちゃん! )
ショーコは動こうとするが、全く体が動かない。
 清次は、一旦、目を伏せ、軽く息を吐いてから、再び真っ直ぐタークを見据え、大きく息を吸って、
「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ・・・・・・・・・・・・・・」
地を這うような低く響く声を発する。……赤ちゃんの頃の泣き声に代わるものだろう。
 ショーコはタークの反応を見る。
 タークは平然と、相変わらずのニヤニヤ笑い。
 驚き、声を止める清次。
 ターク、
「『備エアレバ憂イナシ』トハ、良イ言葉デスネ」
耳をショーコたちのほうへ向け、空いている左手人指し指で指さして見せた。
 耳栓が入っている。
 清次は歯ぎしり。
 タークは顔の向きを戻し、耳を見せるために少しズレてしまっていた右手を構えなおした。
(キーちゃんっ! )
気持ちばかりで、やはりショーコの体は動かない。
 と、
「お母さん、ちょっといい? 」
貫太が小さく言って、ショーコを そっと地面に横たえた。
(カンちゃん……? )
 そして、清次とタークの間に割り込むような形で立ち、タークを見上げる。
(カンちゃん! )
 ターク、小ばかしたように、
「アナタモ、何カ、芸ガ出来ルノデスカ? 」
 直後、ワサッという音と共に、
(カンちゃんっ? )
貫太の背中に、大きくて立派な翼が現れた。
(カンちゃんに、翼が……)
驚くショーコ。
 清次も、
「兄ちゃん! 」
初めて見たのだろう、驚く。
 貫太は、バサッ、バササッと、力強く翼を動かし、50センチほど宙に浮いたかと思うと、フッといなくなった。
 すぐ次の瞬間、タークが何かに弾かれたように、ターク自身の意志とは無関係な感じで背中から後方へ飛び、それまでタークがいたはずの場所に、貫太が姿を現した。
 何が起こったのか全く見えなかったが、高速飛行した貫太がタークに体当たりしたか何かなのだろう。
 清次が、
「…兄ちゃん、すげえ……」
感嘆する。
 体勢を立て直したタークからは、終始浮かべていた、あの嫌な薄ら笑いが消えていた。
 顔は青ざめ、上唇と下唇の隙間から血が滴る。
 突然、また貫太が姿を消した。
 タークが、今度は空高く、やはり、何かに弾かれたように ふっ飛ぶ。
 ふっ飛んでいく前にタークがいた位置に、再び貫太が現れ、上空のタークを見上げた。
 遠すぎて、ショーコからはタークの表情までは見えないが、空中に止まっているのがやっと、といった様子だ。
 と、また、貫太の姿が消える。
 ドカッという音。
 直後、ショーコと清次の すぐ目の前、かなりの量の地面の土が、爆発でもしたかのように派手に飛び散った。
(っ? )
 清次が、土から庇うように、ショーコの顔に覆いかぶさった。
 辺りが、急に静かになる。
 風に揺れる木の葉の微かな音が、はっきり聞こえるくらいの静けさ。
 清次は、ゆっくりと身を起こし、飛び散った土が元あった場所へと歩き、
「大きな穴が……」
覗いて、そこまでで絶句。血の気を失った顔でショーコを振り返った。
 清次が覗いたその穴は、おそらくタークが地面に墜落した衝撃で出来た穴。その中には……。
 清次は、もう穴のほうを見ることはなく、ショーコを振り返ったきり、呆然と立ち尽くしてしまった。
 ややして、上空に暫し佇んでいた貫太が、ショーコの傍へ舞い降りる。
 こちらは、初めから青ざめ、穴に背を向けて放心状態。
 ショーコは、地面の上に横たわったままの姿勢で月空力を振り絞り、折り重なっている部下2人の亡骸をタークの悲惨な亡骸があるはずの穴へ移動させ、飛び散った土をかき集めて被せた。
 貫太と清次に、見せていたくなかった。
 戦っている最中は興奮状態のため平気でも、それが醒めた時、平気でいられるわけがない。
 事実、貫太も清次も、既に自分のしたことを自覚し、ショックを受けている。
 人を殺すなんて、させたくなかった。
 貫太と清次の心が壊れてしまうのではと心配で、今 目にした2人の強い能力を、単純に喜べずにいた。
 トドメは自分が刺せていたらよかったのに、と、ショーコは、自分の力不足を呪った。
 ショーコの目から、涙が伝う。

「おーい」
と、細い坂道に面した門のほうから呼び声。明夫の声だ。
 その声に、俯き加減だった貫太と清次はハッと顔を上げ、門の方向を向く。
 少ししてショーコの視界に姿を現した明夫は、にこやかな笑顔で貫太と清次に歩み寄ってきながら、
「どうした。2人とも、急にいなく…なっ…て……」
言葉の途中で、倒れているショーコに気づいたらしく、血相を変えてショーコの脇に駆け寄り、膝をついてショーコを覗き込んだ。
「な、なっ……? 」
そして、すぐさま立ち上がり、医者を呼んでくると言い残して踵を返した。
 貫太と清次は、ショーコに駆け寄る。
 貫太は片膝をついてショーコを抱き起こし、清次は、中腰でショーコの顔を覗く。
 ショーコの涙に気づいてか、貫太、気遣わしげに眉を寄せ、
「どこか痛むの? 」
大真面目に聞いた。
 思うように声の出ないショーコは、心の中でツッコんだ。
(そりゃ、痛いよ。死にかけたんだから! …でも、心のほうが、もっと痛いよ……)
 空が青い。小鳥のさえずりが聞こえる。爽やかな風に、さっき干したばかりの洗濯物が、土にまみれて揺れている。
 ……とにかく、
(終わったんだ……)


四界戦記 月空界・地表界編外伝~ずっと、この腕のなかに・・・~ (46)

          
  
              * 2 *



 よく晴れた気持ちのよい朝。ショーコは小鳥たちに交じり歌を歌いながら、洗濯物を干す。
(……)
ふと感じるものがあり、足下を見るショーコ。
 と、突然、
(! )
地面から、男性のものと思われる大きなゴツゴツした右手が突き出た。
 直後、
(! ! ! )
同じく左手も。
 恐怖で後退るショーコ。
 洗濯カゴに躓き尻もちをつきそうになったところを、誰かに支えられる。
 振り向いて見れば、
(っ? )
そこには、タークの2人の部下が無表情で立っており、ショーコは長髪のほうに支えられていたのだった。
 ソバカスが横から両手を伸ばし、ガッとショーコの頭を掴むと、見ろ、といった感じで、地面から突き出た手のほうへ、ショーコの顔を強引に向けた。
 ショーコの視線の先で、土から突き出た手は、手のひらを地面につける。地面を押さえるように、その手に力が入ったように見えた。
 手の少し後方の地面の土が盛り上がる。
 そこから、不気味なほど静かに現れたのは、
(タークッ……? )
 頭と手だけが地面から出た状態で、タークは、ニタアー、と笑った。
 ショーコの体は完全に固まってしまっていた。
 動けない。声も出ない。呼吸も、思うようにできない。

 そこまでで、ショーコの視界がパッと切り替わった。
 目の前に天井。
(……? )
目だけで辺りを見回す。
 見慣れた ここは、寝室。体の下には敷布団。上にはタオルケット。
 ショーコは、
(…夢……)
大きく息を吐いた。
(また、こんな夢……)
 タークとの決着から1ヵ月。
 このところ、ショーコは こんな夢ばかりみる。
 パジャマが、汗でグッショリ濡れている。
 着替えようと、ショーコは、ゆっくりと半身起き上った。
 本当は風呂にでも入りたいところだが、それは、もう少し我慢。
 何とか自分の身の回りのことを出来るくらいまで回復したところなのだ。
 正直、まだ長時間 起き上がっているのは辛い。
 1日1回、蒸しタオルでザッと体を拭くのが やっとの状態だ。
 起き上がると、右手側、開け放った障子の向こうの縁側で、清次が、取り込んだ洗濯物を畳んでいるのが見えた。
 視線を正面に移すと、台所に、夕食の仕度をしているのだろう、貫太の後ろ姿。
(もう、そんな時間なんだ……)
 食事とトイレの時くらいしか起き上がらない生活では、時間の感覚が無い。
 ショーコは、ゆっくりゆっくり立ち上がり、ヘロヘロと おぼつかない足取りで、寝室内の押入れの前まで歩くと、押入れ内のタンスの中から替えのパジャマを出し、思うようにならない自分の手つきに少々イラつきながら着替えた。
 明日 洗濯してもらえるように、汗で汚れたパジャマを、土間の隅、風呂場に通じるドアの前に常に置いてある、汚れた衣類を入れる専用のカゴの中へ入れに行こうと、やはりヘロヘロ、台所のほうへ。

四界戦記 月空界・地表界編外伝~ずっと、この腕のなかに・・・~ (47)

 台所の手前まで来たショーコは、貫太に声を掛けようとするが、貫太の包丁を持つ手が止まっていることに気づき、声を掛けるのをやめて、暫し様子を見る。
 5秒経過、10秒経過、15秒……。
 手だけではなく、まな板に向かった姿勢のまま、全身、全く動く気配がない。
 タークとの決着以降、いつの頃からだったか、貫太は時々こうなる。
 ボーっとしているような、何か考え込んでしまっているような……。
 タークとの戦いの精神的ショックが残っているのだろうか?
 大人のショーコでさえ、タークとの戦いが原因と思われる夢を頻繁にみるのだから、当然と言えば当然だが……。
 そこへ、
「カンちゃん」
勝手口から、有実が顔を覗かせた。
 貫太はハッと我に返った様子で、勝手口の有実を見る。
 ショーコは咄嗟に、台所の手前の部屋と台所を仕切るための障子の陰に身を隠した。
 何も隠れる必要は無いのだが、何となく。
 障子に開いた小さな穴から、ショーコは、そっと、貫太と有実を窺った。
 有実は貫太のところまで歩き、手にしていた1冊の厚めの本を両手で差し出し、
「はい、これ。和尚さんに借りた本。次、貸してって言ってたでしょ? 私、読み終わったから」
 貫太は包丁をまな板の上に置き、手近にあった布巾で軽く手を拭って、体ごと有実のほうを向き、
「ありがとう。でも、明日でもよかったのに」
両手で受け取る。
 すると、有実、ちょっと頬を赤らめながらニコッと笑い、
「うん。でも、急にカンちゃんの顔を見たくなっちゃって。本を渡すのは、実は口実」
(さっきまで中村さんちで会ってたばっかのはずなのに……)
 有実の言葉に、貫太は実に調子よく、
「やっぱり? 気が合うね。僕も丁度、有実ちゃんに会いたいって思ってたとこだよ」
ニッコリ笑って、恥ずかしげもなく返す。
 見つめ合い、微笑み合う2人。
 このところ、この2人は、いつもこんな調子だ。
 見ているこっちが恥ずかしくなってくる。
(…でも、ちょっといいな……)
 もともと貫太と有実は気が合うらしく、有実が中村家で暮らすようになってすぐの頃から、中村家での農作業中に一緒にいるだけでは足りずに、作業終了後、それぞれの家でやるべきことの合間をみては、互いの家を行き来していたが、ここ最近、特に行き来が頻繁になり、親密になったように思える。
「本、どうだった? 」
貫太の問いに、有実、
「うん、面白かったよ」
普通に答えてから、
「でも……」
急に沈んだ声になる。
「ちょっと切なくなっちゃった……。主人公の女の子に、優しいお父さんとお母さんがいてね、家族みんなで仲良く暮らしてるの……」
(有実ちゃん……)
ショーコの胸が、キュンとなった。
 有実は両親と離れて、本当は寂しいのだ、と。
 いつも明るいだけに、余計に胸が締めつけられる。
 貫太もショーコと同じだったようで、
「有実ちゃん……」
と呟いたきり、表情に影を落として黙り込んだ。
 そんな貫太を前に、有実、軽く息を吐き、
「でもね」
明るい声と表情を作った。
「私、信じてるの。お父さんも お母さんも、そのうち絶対、無事に帰ってくるって」
「どうして? 」
暗さを残したままの貫太の問い。
 有実は明るく答える。
「昔、まだ私も生まれたばっかだったから、全然憶えてないんだけど、聞いた話、昔も一度、今ほどじゃないけど、たくさんの人たちが日空人に連れ去られたことがあったんだって。でも、その時は、救世主が現れて、連れ去られた人たちは解放されて、日空人もいなくなって、平和が戻ったんだって」
 ショーコは、覗き穴から視線を逸らす。
「今度もきっと、その時の救世主さんが、お父さんとお母さんを助けてくれるよ」
 明るく、しかし軽さは無く、熱く語る有実の言葉を聞きながら、
(ゴメンね、有実ちゃん……)
ショーコは台所の2人に背を向け、障子に寄り掛かって俯いた。
(今度は、その救世主さんは、現れないよ……)
 おそらく有実のように、17年半前の有実の言うところの救世主の存在を知り、再来を期待する人は多いと思う。
 その正体を知っているカラスたちがショーコに色々と情報をくれるのも、ショーコに、日空人を何とかして欲しいと考えているからに違いない。
 しかし、無理だ。
 17年半前と現在とでは、日空軍全体の規模も戦闘能力も違うと考えられる。日空軍を何とかしようとすれば、精鋭を集めてあるであろう本隊との戦闘は避けられない。ショーコは、一小隊の長に過ぎないタークとその部下たちにさえ敵わなかったのだ。何とか、出来るわけがない。
 もし仮に、何とか出来る実力をショーコが持っていたとしても、多分、現在のショーコは、自分と子供たちを守るためにしか戦わない。
 今、せっかく、執拗に自分たちをつけ狙っていたタークがいなくなり、貫太の心の中、おそらく清次の心の中にも、まだタークとの戦いの際のショックが残っていると思われるものの、穏やかに暮らせている。この生活を失いたくない。そういう考えは、身勝手だろうか……?

四界戦記 月空界・地表界編外伝~ずっと、この腕のなかに・・・~ (48)


「盗み聞きかよ、趣味わりーなあ」
突然の声に、ショーコはハッと顔を上げる。
 清次が、いつの間にか目の前に立っていた。
 ショーコは慌て、シッ、と自分の唇の前に人指し指を立てるが、時、既に遅く、
「お母さん、トイレ? 」
貫太に気づかれた。
 ショーコが、バツの悪さをごまかすための笑顔を作りつつ頷き、それから、これも、と付け加え、持っていたパジャマを見せると、貫太は両手で持っていた本を左手に移し、右手を差し出してパジャマを受け取ってから、優しく、
「手伝わなくて、大丈夫? 」
 清次が、バッサリ斬り捨てるように、貫太の語尾に被せ、
「大丈夫だよ。オレらがいない時には、1人で行ってるんだから」
 それから、少し呆れ口調で、
「兄ちゃんさ、家の中でイチャつくなよ、恥ずかしい」
 そんな清次の台詞を、有実が、
「あ、キーちゃん、羨ましいんでしょ! 」
茶化す。
 清次、
「ば、馬っ鹿、羨ましくなんて、ねえよ! 」
 貫太は笑い出しながら、有実は本を持ってきてくれただけだと説明。
 清次は、最近 貫太が本を読んで夜遅くまで起きているので 灯油の減りが早いと、ブツブツ文句。
 有実は、この本 面白いからキーちゃんも読んでみたら、と提案。
 それに対して、清次は脹れ、
「嫌味かよ。オレが、字、読めねーの、知ってるだろ? 」
言い放ちつつ、土間へ下りざまサンダルをつっかけ、毎日の日課である風呂の準備をするべく、土間の隅の風呂場へ通じるドアへと歩く。
 貫太は、清次の背中に、
「今度、字の読み方を教えるから、読んでみない? 」
 清次は後ろ姿のまま、ぶっきらぼうに、全く可愛げなく、しかし、字が読めたらいいな、とは思っていたのだろう、
「そのうちな」

四界戦記 月空界・地表界編外伝~ずっと、この腕のなかに・・・~ (49)




                *


 数日前から、ショーコは きちんと起き上がり、貫太と清次と共に、普段食事をしていた部屋で食事をとるようになった。
 今日の夕食のおかずは、塩漬け肉入り野菜炒めに玉子焼き、ナスの味噌汁。
 ショーコは、時間はかかるが、怪我をするより更に前、過労で倒れる前の完全な健康体の時と同じだけの量を食べる。
 ゆっくりゆっくりショーコが食べている間に、貫太と清次は食べ終わり、ジャンケンで勝った清次が入浴。
 貫太は、調理に使用した鍋類や貫太と清次の分の食器類の後片付けを、考えられないくらい手早く済ませ、
「ちょっと、行ってくるよ」
ショーコに声を掛ける。
 何処に? 何の用事で? などと、野暮なことは聞かない。
 行き先は中村家。用事は、有実に会うこと。それ以外無い。
 ショーコは箸を休め、
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
 それを背中で受け止め、一旦 振り返って、ショーコに向かって笑んでから、貫太は勝手口を出て行った。
 箸を止めたまま、貫太が出て行った後の勝手口の戸を、ほんの少し寂しく観じながら、ショーコは見つめる。
 少しずつ、だが確実に、貫太がショーコから離れていっていると感じる。
(…しょーがないよね……)
 カンちゃんが成長して大人に近づいていっている証拠だよ、と、ショーコは心の中で呟き、自分を納得させようと努めつつ、夕食の続きに箸をつけた。



                

 夕食を平らげたショーコは、自分の使った食器を、ヘロヘロの足取りで手にも充分に力が入らず危なっかしいながらも、何とか無事に台所の流しに運んで洗う。
 調理に使用した鍋類と貫太・清次の分の食器類は、既に貫太がキレイに洗い終わっているため、自分の使った分をそのままにしておくのは何となく申し訳なく思ったからだ。
 洗い終え、その足で勝手口から外に出、外水道で、手製の歯磨き粉で歯を磨く。
 家の中で、
「兄ちゃん」
清次の声。
「兄ちゃん、風呂! 」
 ややして勝手口が開き、清次が顔を覗かせた。
「お母さん、兄ちゃんは? 」
 もう充分に歯を磨いたショーコが、水で口を漱いでから、
「出掛けたよ。有実ちゃんのとこでしょ? 」
答えると、清次、忌々しげに舌打ちし、
「ったく、色ボケしやがって」
夕方、台所で散々イチャついてたばっかなのに、と、ブツブツ。
 ショーコは、まるで小舅のような清次を、ちょっと からかいたくなり、
「キーちゃん、カンちゃんを有実ちゃんに取られちゃって、寂しいの? 」
 清次は、暫し沈黙。
(あ、図星……? )
 数秒後、ムキになった様子で、
「それは、お母さんだろっ? 」
 こちらは間違いなく図星。
 清次をからかうつもりが、逆に遣り込められてショーコは俯き、そっと、上目遣いで清次を見、
「そう、見える……? 」
 清次は、少々呆れ気味に息を吐き、
「見えるよ」
言ってから、
「くだらねーこと言ってないで、歯、磨き終わったんだったら、さっさと寝ろよ」
ショーコを家の中へと追いやった。



               


 ショーコが布団に入り、ウトウトし始めたところへ、
「兄ちゃん! 風呂が冷めちまうだろっ? 早く入れっ! 」
清次の怒鳴り声と、明らかに笑いながらの、貫太のゴメンゴメンが聞こえた。



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獅兜舞桂

Author:獅兜舞桂
獅兜座(しっとざ)座長・獅兜舞桂(しっとまいけー)です。
よろしくお願いします。

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