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花の咲く場所最新(タイトルあり)


※タイトル変更しました。
SHINOBI~キリ・セキュリティ株式会社身辺警備部隠密警護班~
      ↓
花の咲く場所 キリセキュリティ株式会社身辺警備部隠密警護班・SHINOBI 

画像作成にあたり、ニコニ・コモンズ様より、
いしむらや様
ビーチリバレスト様
kazuno様
漫博堂様
mc113様
(順不同)
の作品をお借りいたしました。
ありがとうございました。
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SHINOBI~キリ・セキュリティ株式会社身辺警備部隠密警護班~ (1)

            
               * 1 *
 
 
 落ちていく。
(…なんか、気持ちいい……)
初めは身を斬られるように痛く冷たかった ビルの外壁を吹き上げる風が、次第に不思議と心地よく感じられてき、ハナは静かに目を閉じた。
(これで、全部おしまい……)

 瞼の裏にボンヤリと、何か、映像のようなものが見えてきた。
(これは、私……? )
だんだんとハッキリ見えてくる映像。
(やっぱりそうだ。まだ小さい、幼稚園の頃の私。……そっか、これが噂の走馬灯……)
小さなハナは、全身 土で汚れ、それでも得意満面で、小さな両手で やっと持てる大きさのサツマイモを、ハナに向かって差し出している。
(どっかで見たな、この場面……。そうだ、藤堂のおじさまが録ったホームビデオ……。おじさまのおうちの菜園でイモ掘りをさせてもらった時の……)
藤堂はハナの父の会社の上司で、代々続く資産家の一人娘である奥さんと その両親と共に、お舅さんの持ち物である超のつく大邸宅で暮らしている。 ハナの父は当時、とても仕事が忙しかったため、普段 ハナの起きている時間に家にいることが ほとんど無く、一緒にいられることが少なかったが、仕事への誇りを持ちながら一緒にいられない家族に対して申し訳なさを感じられる父を、ハナは幼心にも尊敬していた。 父のことが大好きだったこともあり、父のたまの休みに藤堂宅に呼ばれては家族揃って出掛けるのが、幼い頃のハナには、とても楽しみだった。お呼ばれの内容は、春はテニスコート前の庭の満開の桜の大木の下でバーベキュー、梅雨時には映画上映会、夏は花火大会、秋はイモ掘りに焼きイモ大会、冬はクリスマス会と餅つきと豆まき……といった具合。逆に、ハナの誕生日やピアノ・バレエの発表会の時など、藤堂のほうが夫妻で来てくれることもあった。
 瞼の裏、続いて見えてきたのは、父が自宅マンションのソファの上に陣取り 寝転がってテレビを見る姿の、動きは ほとんど無いが、一応 動画。 ハナの物心ついた頃には既に始まっていた藤堂との行き来は10年以上に渡って続き、最後は4ヵ月半くらい前、藤堂夫妻の銀婚祝い兼藤堂の社長就任祝いのホームパーティー。……その日が、境だったように思う。
(……? …境……? 何の……? )
ハナの思考と共に映像が一時停止。 その日を境に、父の仕事が それまで以上に忙しくなったことは事実だが、その境ではない。それより ほんの1ヵ月半ほど後の ある日に  やたらと早い時間に帰宅した父が、その後、一歩も外に出ない日が何日も続いた。朝、ハナが学校へ出掛ける時には、まだ布団の中。土・日など学校の休みの日に見ている分には、昼近くになって起きてきても基本ソファの上。食事と風呂・トイレ以外 動かない。きっと長い間 休み無く働きっぱなしで疲れていて、やっと長期の休みが取れたため体を休めているのだろうと、ハナは勝手に解釈していたが、そんな折、ずっと専業主婦だった母が突然パート勤めを始め、ちょっと、あれ? と思った。そのまま1ヵ月が経過。さすがに、長いなと思った。丁度のタイミングで、ハナの疑問に答えるように、母が、ハナに荷造りをするよう言った。引っ越すから、と。父がリストラされ 再就職の目処もつかず 退職金も そう多くはなかったため、貯金と母のパート収入ではマンションのローンなど払えないから、と。初めて自分たち家族が置かれている状況を知らされた。 境は、ハナが 今 落ちている理由の始まり。普通に考えれば、父が やたらと早い時間に帰宅した日が 境になりそうな気もするが、ハナの中では、何故か ホームパーティー後の忙しい日々と その後のリストラ後の日々が1つの流れで、ホームパーティーの日こそが境であるように感じられていたのだった。
 次に瞼の裏に見えてきたのは、引っ越した先の6畳と4畳半の2部屋しかない手狭なアパートの2階の一室、薄暗い台所の流し台で、父が不器用に皿を洗う姿。 引っ越し以降、父は進んで家事をするようになった。ハナは、その、父が家の中をモソモソウロウロ動く姿が、何となく嫌だった。家事をすること自体は良いことなのだろうが、何かが違う感じがした。何か、変に威張っている感じがするというか、毎日一日中家にいるせいか、ヌシのようになって……もともと父は一家の主であるという言い方も出来るかも知れないが、そういう意味合いではなく、川のヌシとか森のヌシとか呼ばれる生物のように、ただ じっと その場で目を光らせ 全てを支配しようとしているような……。だが、結局のところ 父のしている家事は、気まぐれな お手伝い程度で、キチンと責任を持って こなしているのは 母なのだ。 ヌシ気分で、直接 言ってくるのではなく 独り言気味だが ハナや母に対しては文句が多く、自分は とにかくマイペースな現在の父。以前 仕事をしている頃は、こんなふうではなかった。長い間 家の中にばかりいると、相手を思い遣る、互いに譲り合う、といった 基本的な社会性が失われてしまうのだろか。ハナが水を飲みたくて台所の流しが空くのを待っているのに気づいているのかいないのか リサイクルに出す目的のペットボトルたった1本を、5分も6分もかけて ノッタリノッタリ洗っていたり、ハナが学校に母が仕事に出掛ける時間も 出掛ける直前に必ずトイレに寄ることも知っているはずなのに 自分は一日中 家にいるから いつでも寄れるはずなのに わざわざ ハナや母の出掛ける直前のタイミングでトイレに行って しかも大のほう してみたり……。一言 言えば いいのだろうが、父は、特に ここ最近、話が長くなった。イエスかノーかで答えればいいだけのはずの話も、平気で10分・20分になる。毎回毎回そんなでは、面倒くさくて、話しかけるのを躊躇してしまう。そんなに誰かと話がしたいなら 早く次の仕事を探して外に出ればいいと思うのだが、再就職の目処がつかないも何も、再就職のための活動をしているようには、とても見えない。自身に就職活動の経験が無いため ちゃんとは分からないが、高校3年生であるハナの 卒業後の進路に就職を希望する同級生たちは、皆、新年度スタートと同時に足繁く校内の進路指導室に通い、夏休みが明けた頃からは、学校を遅刻・早退・欠席してまで 説明会や入社試験のため 企業へ出掛けていた。それを見てきたため、家に居ながらにして就活が出来るとは思えないのだ。
 白い紙に整然と並ぶ細かく黒い文字。……次に瞼の裏に浮かんできたのは、そんなものだった。それは おそらく、学校の図書室で借りた本の中の1ページ。自宅にいる時に 父の姿が声が目に耳に入るのが嫌で、図書室で借りてきては、他のモノが目からも耳からも一切入ってこないくらい読み耽っていた。 見たくないのは、モソモソウロウロ動く姿そのもの全て。そして、聞きたくないのも、母に食べさせてもらっている現在の自分の立場もわきまえず いちいちエラそうな 父の発する言葉の全て。ハナは、母の仕事の話の流れで父が仕事について語るのを聞くと、仕事なんかしてないくせに、と思う。学校が休みの土日にハナが、同じく休日の母も、ゆっくり起床すると、父は、『休みの日だからって 何も わざわざ遅く起きる必要は無いと思うけどね』と 自分の考えを述べる。それに対してハナは、アンタは毎日休日だからね、と 突っ込みたくなる。テレビを見ながらの独り言 ひとつ採っても、ウザッたくて仕方ない。しかし、そんなふうに感じていたのはハナだけだったのか、母は、父の話に、うたれている当人は気持ちが良いだろうと思われる相槌をうち、実に調子の良い合いの手を入れる。父が家事をやった時にも、そういえば、何かしらやるごとに、ただの接頭語ではないかと思えるくらいに『ありがとう』と『ごめんね』を多用して 父を持ち上げ、立てていた。しかも場合によっては父をおだてるためにハナを悪者として利用することさえあった。納得がいかず、基本は不信・軽蔑 ある意味尊敬、と、母に抱く感情も いつの間にか複雑なものになっていた。 どうして、いつの間に、父や母に対する気持ちが こんなふうになってしまったんだろう、と、ハナは自分でも分からないし、嫌だった。ハナにとって両親は絶対的な存在で、『尊敬する人は? 』と問われたら、迷わず『両親』と答える対象だったはずなのに……。
 瞼の裏、続いての映像は、まるで ひと昔前の青春ドラマの初々しいキスシーン。ただし、主人公たちが若ければ。 それは、今日の出来事だ。今日は月1回の本の整頓日のため学校の図書室の本が借りられず、本無しで自宅で時間を過ごす自信の無いハナは、何となく帰る気になれなくて、駅前の繁華街の本屋へ寄り道した後、自宅アパートまでの道を、ほとんど足に力を入れずに ただ自宅方向に向けて動かすことで進む。辺りは既に どっぷりと暗かった。あと少しで自宅だという所で、ハナは、後ろから、ちょっとフラつき気味の危なっかしい2人乗りの自転車に追い抜かれた。追い抜かれる瞬間に見えた運転者は、30代半ばくらいの大柄な男性。その荷台部分に 少女のように横座りしていたのは、何と 母だった。表情も、少女そのもの。アパート前に到着し 自転車を降りようとして2人揃って転びそうになり笑い合う姿が、街灯とアパートの通路の明かりに照らし出される。実に楽しそうでキラキラしていて気持ち悪かった。普通に歩いていると 自分もすぐにアパートの前に着いてしまうため、それはバツが悪く避けたいので、ハナは電柱の陰で 2人がいなくなるのを待った。ややして、笑い声が止んだ。男性が母の両肩に手を添え自分のほうを向かせる。母がビクッとしたのが遠目にも分かった。男性は軽く身を屈め、母の額に そっと口づけた。ハナの体感温度が2・3度上がる。何故わざわざオデコかと、マウスツーマウスなら、きっと ここまで気持ち悪くない、と。ハナは見ていられず目を逸らした。
 次の映像は、ボストンバッグを手に自宅の玄関を出て行く母。キスシーンから30分も経たない頃の映像だ。 キスシーンの後、目を背けていたハナは、それまで母と共にいた男性が嬉しそうに 1人 自転車を漕いで ハナの前を通過していったことで、2人がアパートの前から退いたことを知り、電柱の陰から出て自宅へ戻った。 居間的な使い方をしている 玄関を入って正面の4畳半では、父がウロウロ室内を歩き回り、母が玄関に背を向ける形で ちゃぶ台の前に座り、口論していた。ハナの帰宅には全く気づいていない感じだ。ハナは、両親のいる4畳半の隅を通って奥の6畳間へ行くことも 再び玄関から外へ出ることも してはいけない雰囲気を感じ、玄関で靴を脱いで上がった位置で、ただ見守るしかなかった。ハナは初め、父がキスシーンを目撃してしまったために喧嘩になったのかと思ったが、聞いていると、そうではなかった。大雑把に言ってしまえば、喧嘩の中身は、父が全く働こうとしないことに嫌気がさした母が静かに鋭く父を責め、父が激高しながら自らを正当化している、というもの。 ややして母が大きく溜息を吐きつつ立ち上がり、『もういい』言って、6畳間へ。 2・3分の後、母はボストンバッグを手に出てきた。自宅内に入ってから初めてハナは母の顔を見たが、先程 外で見た時とは、まるで別人の顔。だがむしろ、ここ3カ月くらいの間の普通の顔。それを若干疲れさせた顔。母は俯き加減でハナのほうへ直行。ハナの寸前で 初めてハナの存在に気づいた様子で、『あ』顔を上げて足を止め、『ハナも一緒においで。荷物つくるの待ってるから』ハナは、『ううん、いい』断った。母は きっと さっきのキスの男性の所へ行くのだろうと思ったから。自分は邪魔者でしかないと分かっているのに、ついて行けるわけがない。母は、『そう、分かった』少し寂しそうに言って、玄関を出て行った。
 瞼裏画像、次は いきなりの父の超どアップで、ハナは面喰う。これは、発作的に自宅を飛び出そうとしたハナを父が玄関で引き止めた場面だ。 出て行く母を見送った後、ハナは、一旦 6畳間へ籠るが、4畳半で父が歩き回るミシミシという軋み、母への恨み 藤堂への恨み 世の中への恨みの独り言、物にあたる音が聞こえ、耳を塞いでも聞こえ続け、頭がおかしくなりそうだと思った。直後、肩を強く掴まれる感覚があり、ハッと周囲を見ると、玄関だった。ハナは、いつの間にか玄関に立っていた。頭がおかしくならないようにするため、おそらく、ハナの中の自己防衛本能が ハナを自宅から出て行かせようとしたのだ。肩を掴んだのは父だった。父は至近距離から暗い目でハナを覗き、『お前まで オレを裏切るのか』《裏切る? ワケが分からない。気持ち悪い。もう嫌だ! 》ハナは父の手を払い除け、自宅を飛び出した。
 そこからは静止画で、画面が高速で パンッパンッパンッパンッと切り替わっていった。1つ目は、ラーメン屋の屋台。学校の制服のまま財布も何も持たずに自宅を飛び出したハナは、夜道を当てどなく歩き、駅前繁華街の始点付近にいた屋台を、つい、それほど遠くからではなく見つめてしまった。寒くて、空腹で……。結構長時間そうしていて、屋台の主人に睨まれ、繁華街へ逃げ込んだ。 2つ目、いかにもガラの悪そうな若い男2人組。この2人は、ハナにラーメンを おごってくれると言ってきた。『さっき、ずっと屋台を見てたよね? 』『ラーメン食べたいの? 食べさせてあげようか? 』と。優しい口調だったが、ハナの体の奥の奥のほう、あるいは体の外かも知れない、どこか遠いところで、危険を知らせる警告の鐘が鳴り響いたため、怖くなって、ハナは逃げ出した。 3つ目は、ブレている。繁華街の外れの古い雑居ビルの 金属剥き出しの外階段。幾度も折れ曲がって上へと続く、その途中の部分だ。ブレているのは、ハナが走っているため。ラーメンを おごってくれると言った男たちは、逃げ出したハナに、全く移動せず遠くから、『何だよ、ブース! 』と言っただけで 追って来なかったが、それはハナも知っていたが、怖くて、とにかく怖くて怖くて、外階段のあるビルの下まで来た時には、何が怖いのかも よく分からなくなっていたが、恐怖心にまかせて、階段を駆け上ったのだった。 そして最後、4つ目は、雑居ビルの屋上をグルリと囲うハナの胸の高さの柵に掴まり、下を覗いた時に見えた景色。そのビルは古いわりには高さがあり、周囲のネオンは ほぼ眼下。本来見るはずでない位置からのネオンと街灯の明かりが、夜を ぼんやり優しく彩っている。男たちの前から、階段も、ずっと走りっぱなしだったハナは、階段の終点から見て真正面の柵に ぶつかることで、やっと止まり、柵の上部を両手で掴んで胸で柵にもたれ、肩で息をしながら考えた。《これから どうしよう……。どうすれば、いいんだろ……》母と一緒に行けばよかった? 無理だ。居心地悪いと分かりきっているのに行けるはずがない。……しかし、今の あんな状態の父と二人で暮らすのも無理だ。母から一緒に行こうと誘われた時、全く後先考えてなかったな、と、この時になって思った。父と暮らすよりはマシであると信じて、とりあえず行ってみたほうがよかったのかもしれない。《お母さんに連絡して、今からでも……》とも思ったが、《どうやって? 》母はケータイを持っている……多分、荷物の中に入れて持って行ったと思うが、ハナの手元には、公衆電話で電話をかけるために必要な10円玉もテレホンカードも、どちらも無い。《一度、家に戻ろうか……? 》そっと、父に見つからないように戻って、自宅から電話するか財布を持ち出すか……。だが、外を歩くのを怖く感じた。また悪そうな人たちに声を掛けられるかも、と。母が本当にケータイを持って出たか分からない、連絡がついたところで 一度 断ったものを受け入れてくれるかどうか分からない、受け入れてくれたところで 居心地良いとは限らない、絶対ではないことのために、そんな力は出せなかった。《これから どうしよう……って、どうしようも、ないか……。なんか、面倒くさい……。もう、何も考えたくない……。面倒、くさい……》何となく、頭の奥か胸の奥か分からない辺りが イライラモヤモヤして、溜息を吐き 俯いた先にあったのが、4つ目の静止画の景色だった。《…キレイ……》吸い込まれそうで、クラクラした。そのクラクラ感が心地良かった。《気持ちいい……。落ちてみようか……》それもいいかも知れないと思った。面倒くさいし、終わりにしても、と。《そう、ほんのちょっと、身を乗り出すだけ……》ハナは柵の上部を掴んでいる両手に力を込め、軽く跳ね、腕を突っ張って柵の上に体を支えた。そして、そのまま ゆっくりと前に重心を移していき、重心の移動とともに傾く体が 柵に対して垂直の位置を過ぎたところで、両手を離した。

 そんな経緯で、ハナは 今、落ちている。


SHINOBI~キリ・セキュリティ株式会社身辺警備部隠密警護班~ (2)




 背中と膝の裏に、太めの棒状のものと思われる何かが めり込み、同時に、トランポリンの上で跳ねた時のように、一旦沈み すぐに押し戻されて体が宙に浮いた感覚があった。周囲の空気が止まっている。と、いうことは、もう落ちていない。背中と膝の裏が少しだけ痛い。何となく思い描いていた おしまいの時との あまりの違いを、
(? )
ハナは不思議に思って目を開けた。
 すぐ目の前に、黒いニット帽の下から僅かに明るい色の髪の先が覗く 黒のネックウォーマーで下唇まで隠した 20代後半くらいの男性の顔。ハナは、その男性の腕に 背中と膝の裏を支えられていた。どうやら、落ちてきたのを受け止められたらしい。
 男性は、溜息を吐きつつ、ハナが自力で立てることを確かめるようにしながら、静かに静かに、ハナを地面に下ろした。
 ハナ、呆然としてしまう。
(…死ねな、かった……)
目の前で男性が しきりに何か喋っている様子なのを、フィルター越しな感じで見、その声を遠くに聞く。 
「おい、聞いてんのっ? 」
大きな鋭い声。
 ハナ、ハッとする。
 男性は片手で自分の額を押さえ、大きな大きな溜息。
「いいか? もう1回だけ言うぜ? あんな高い所から落ちてこられて、もし、まともに ぶつかったりしたら、こっちまで死んじまったりするんだよ。 次からは、必ず下を見て、上を見て、右を見て、左を見て、もう一度下を見て、人がいないのを確認してから落ちてくれ」
冷静な口調で一方的に喋り、最後にビシッとハナを指さして、
「分かったかっ? 」
 ハナ、反射的に、
「は、はいっ! 」
 男性は、よし、と頷き、クルッと背を向けて、
「んじゃな」
後ろ姿で手を振りながら去って行った。
 その後ろ姿を見送りながら、ハナの心には悔しさが こみあげてきていた。
(何で、私が こんな一方的に言われなきゃいけないの……? )
面倒くさいと、一旦は ほぼ停止状態にあった思考回路が、どこかに何かキッカケでもあったのか、いつの間にか復活していた。
(どうして、私が こんな目に遭わなきゃいけないの? 理不尽だよね。私、何も悪いことしてないのに……。そう、私は何も悪くない。 じゃあ、悪いのは誰? 誰のせいで、私は こんな思いをしてるの? お父さん? お父さんが独り言を言うから、頭がおかしくなりそうだから? 家を出ることになった直接の原因は それだし、今のお父さんは本当に嫌だけど、何か違う。 お母さん? お母さんが出て行ったから? お母さんが家にいたら、私は家を出て来なかったのかな? 違うよね。だって私、家を出るより先に、お母さんの誘いを断ってる。大体、お母さんが出て行ったのだって、お父さんが あんなじゃ、無理もないし……。 そもそもは、お父さんが会社を辞めさせられたから……)
そこまで考えが及んだところで、ハナはハッとする。
(そうだ! お父さんは『辞めた』んじゃない、『辞めさせられた』んだっ! 誰に? おじさま……藤堂の、おじさまに……! )
藤堂の笑顔が ハナの脳裏を過ぎる。
(あんな顔して、私に こんな思いをさせて! お父さんを あんなふうにして! 許せない! )
藤堂の顔は、笑顔しか思い浮かばない。消しても消しても、藤堂の笑顔が目の前をチラつく。気持ち悪い……。吐き気がする……。
(死ねなくて、良かった……。何も悪いコトをしてない私が死ななきゃいけないなんて、バカらしい。生きてたって、これから どうしていいか分かんないけど、帰るトコも無いけど、私が こんなに苦しんでるのに、おじさ……ううん、藤堂が、のうのうと生きてるなんて、我慢出来ない。死ぬなら、あの男、藤堂。藤堂が死ねばいい。私は とりあえずまだ生きて、藤堂を殺して、死ぬのは、それからでもいいかも知れない。っていうか、藤堂が生きてたら、私、死ぬに死ねない。死ねる気が全然しない。……面倒くさく感じてたけど、何か、いつの間にか、ビルから下りれてるし……)
 ハナは、足下のアスファルトをグッと踏みしめ、
(行こう……! )
歩き出す。

 不思議と、夜道は全く怖くない。寒さも感じない。空腹も気にならない。喉から みぞおち辺りにかけてが熱い。
 藤堂宅へ向かってズンズン歩くハナ。途中で、乗ってけとばかりに放置自転車。持ってけとばかり、ゴミ捨て場に 先端がグラつき柄の錆びたゴルフクラブ。

SHINOBI~キリ・セキュリティ株式会社身辺警備部隠密警護班~ (3)


                 *


 ハナは、藤堂宅の立派な門がまえを、放置自転車に跨り ゴルフクラブ片手に、一度、下から上へと ゆっくり視線を移動させて仰いでから、閉ざされた門扉を押してみる。が、開かない。
 正門以外の入口を知らないため他の入口を探して、ハナは、自転車を押し、外塀づたいに正門から向かって左側方向へ進んだ。
 角を折れてからも、そのまま塀づたい。暫く歩いて、ごく普通の大きさの、しかし頑丈そうなドアを見つけ、押してみたり引いてみたり。 そこも開かなかった。
 もう、これ以上 入口を探すのが おっくうになり、また、塀が、自転車を踏み台にすれば 越えられる高さに思えたため、自転車を出来るだけ塀に近づけて停め、その上に立ってみる。
 すると、塀の高さは 丁度 ハナの身長くらいになった。
(あ、このくらいなら……)
ハナは塀の上に両手をついてから、自転車を蹴って跳躍。塀を越えて中に入った。

 藤堂宅の敷地内に着地したハナの すぐ目の前には、白い壁の ごくシンプルな建物。 
確か、使用人棟だ。
 ハナは、藤堂宅敷地内図を頭の中に描き、それを基に、使用人棟と使用人棟の裏の森との間の狭い隙間を通って 藤堂が普段生活している離れへ行こうと考えた。
(もしも今、離れにいなくても、離れで待ってれば、そのうち やって来るはず! )
 離れへ向かうべく、ハナが、使用人棟の裏手に回った瞬間、ピンポンピンポンピンポン、と、大きな電子音が鳴った。
(! )
ビクッとするハナ。 直後、斜め前方、使用人棟と母屋を結ぶ、渡り廊下の始点から強い光。渡り廊下の屋根の隅に 使用人棟の裏手を向けて取り付けられた、センサーライトの光だった。
 ハナ、光を避け、光の当たっていない ライトの真下に姿勢を低くして入り、鳴り続けている電子音から逃げるように 渡り廊下を這う形で横切った。 すると、ライトが消え、電子音も止まる。
 ホッとしたハナだったが、頭上からの弱い光を感じ、見れば、それまでついていなかったように思う、使用人棟の2階の部屋の明かりがついていた。電子音が 中の人に聞こえたのかも知れない。 
 焦って、身を隠せる場所をキョロキョロと探すハナ。と、使用人棟の向かい、ごく薄い金属製と思われる ハナの背丈ほどの白色っぽい塀が目に留まった。
 その向こうに身を隠そうと、ハナは塀を乗り越える。

 乗り越えた先は、塀で四方を囲われた25メートルプールほどの広さの空間だった。 
 ハナの降り立った地点のすぐ横には、外塀に平行するように、白い塀と同じくハナの背丈ほどの 低めの天井をもつ、レンガ造りの建物。建物と向かい合う位置の塀に、簡単なつくりのドアがついている。
 確認のため 明かりのついた窓を振り返り、ハナはハッとした。丸見えだ。ハナのほうから窓が見えるということは、窓からもハナが見えるということだ。
 (あ、どうしよう! えっと、見えないようにするにはっ……! )
ハナ、大急ぎで考え、使用人棟側の塀に背中で張りついた。首を無理に捻って窓方向を見てみる。
(うん、見えない! )
 その時、グルル……と、低く、唸り声のようなものが聞こえた気がし、ハナは辺りを見回して、すぐに見つけた。レンガの建物から、複数の黒い影が ゆっくりと出て来ているのを。影は、全部で5つ。犬、だった。体高70センチほど、黒く艶やかな短毛の、スマートだが筋肉質の犬。
(そうだった! ここ、犬舎だ! おじいさんの言うことしか聞かない、おじいさんの犬の……っ! )
 犬たちは、唸りながらハナに詰め寄ってくる。
(咬み殺されるっ……? )
死にたいはずなのに、死にたくない、と、ハナは思った。藤堂に殺されて死ぬのだけは、絶対に嫌だと思った。
(だって、それって、すごい敗北感。すっごく悔しい……! )
藤堂の家の犬に殺されるのは、藤堂に殺されるのと同じ気がするのだ。
 ハナ、ゴルフクラブをグッと握り直し、必死で振り回す。
 が、犬たちは、かまわず にじり寄って来る。
 死にたくない! 負けたくないっ! 恐怖心を振り払うように、ワーッ! と大声を上げながら、クラブを振り回し続けるハナ。
(っ? )
不意にクラブが軽くなり、転んだりなんだりするほどではないが、ハナはバランスを崩した。グラついていた先端が、振り回したことにより取れて 飛んでいったのだ。
(あ……)
飛んでいった先端は、ハナの目で追っていた先で、ハナから一番遠いところにいた1頭の頭部に当たった。
 先端が当たった犬は、ガウッと吠え、ハナに飛び掛かる。
(っ! )
固まるハナ。
 瞬間、ハナの視界の隅で、1つの影が 外塀の方向から飛びだして来、犬舎の屋根の上、ハナと犬たちの間の地面、と、移動。ハナの体を、背中と膝の裏を支える形で すくい上げ、再び犬舎の屋根の上へ。 その間、ほんの1・2秒。 
 背中と膝の裏に当たる 硬く温かい影の感触に、ハナは憶えがあった。 影は、先程 ビルから飛び降りたハナを受け止めた男性だった。

SHINOBI~キリ・セキュリティ株式会社身辺警備部隠密警護班~ (4)



 男性は、犬舎の屋根の上から、ハナを横抱きにしたまま1・5メートルは距離のある外塀の上へと ヒョイッと軽々跳び、そこから敷地外の道路へと、安定した着地。
(…この人、スゴイ……! 忍者みたい……っ! )
感心を通り越し、感動を覚えるハナ。
(この人みたいに出来れば、ちゃんと藤堂のところへ辿り着けるかも! )
自分も、そうなりたいと思った。
(どうすれば、こんなふうになれるんだろ……)
などと、自分で考えるより、本や何かで調べるより、
(そんなの、本人に教えてもらうのが一番早いに決まってる! )
是非とも この男性に教えを請わなければ、と考えた。
 溜息を吐きつつハナを地面に下ろして背を向け、立ち去ろうとする男性。
 ハナ、
(あ、行っちゃう! )
急ぐあまり、
「あ、あのっ……! 」
思わず男性の上着の背中を ガシッと両手で掴まえて、
「弟子にして下さい! 帰るトコ無いので、出来れば住み込みでっ! 」
 頭だけで振り返った男性、
「はあっ? 弟子ぃーっ? 何言ってんの、アンタ」
「私、ここに住んでる 藤堂って人に復讐したいんです! でも、藤堂のトコまで行くことすら出来なくてっ! あなたみたいに身軽に動けたら、藤堂のトコまで辿りつけると思うんです!  私、藤堂に復讐しないと、死ぬことも出来ないんですっ! お願いします! 弟子にして下さいっ! 」
ハナは、もう、本当に必死だった。男性の弟子になるより他に道は無いとまで思い込んでいた。
 男性は静かにジッとハナを見、ややして、自分の上着を握りしめているハナの両手をそっと手を添えて外してから、全身でハナに向き直って、ニッと笑い、
「いいよ、分かった。弟子にしてやる。 アンタ、名前は? 」
 ハナ、心からホッとし、たった今 唯一の寄る辺となった男性に 出来る限り良く思われようと、元気と明るさを心がけ、
「はい! ありがとうございます! 雪村花といいます! ヨロシクお願いします! 」
「ハナ、か。 オレは、霧島早介。ほとんど、その名前じゃ呼ばれないけどね。みんな大体、サスケって呼んでる。アンタは、まあ、気軽に、師匠とでも呼んでくれりゃあいいよ」
「はい! 師匠! 」
「んじゃ、行くか」
「はい! 師匠っ! 」

 歩きだす、ハナの師匠となった サスケと呼ばれているらしい男性、そのままついて行こうとしたハナに、
「ハナ、さっき かっぱらった自転車、持って来いよ。ハナが ここに来るのに通ってきた道を通って行くからさ、元 あった場所に返しとけ。 あと、さっきから ずっと大事に握りしめてる その物騒な棒っきれも、ゴミ捨て場に戻しとこうな」
「はいっ! 師匠っ! 」
 自転車を置いてあるのは、すぐそこ。 返事をしてから自転車を押して持って来、既に歩き始めていたサスケの後を小走りでついて歩きながら、ハナ、
「でも、かっぱらったワケじゃないですよー! 明らかに放置自転車でした。……っていうか、師匠、どうして知ってるんですかっ? 」
「ああ、ずっと見てたからな。 ビルの下でハナを受け止めた後、立ち去るフリしたけど、まだ何かやらかしそうな、アブなそうなヤツだと思ったから、後をつけてたんだ。善良な市民の皆さんが巻き込まれたら気の毒だからさ」
 ハナは、へえっ、と感心。良く思われたい気持ちも手伝って、
「師匠って、人格者なんですね! 素晴らしいですっ! 」
少し大袈裟に褒めてみた。
 サスケ、いやあ それほどでも、と、わざとらしく、照れたように頭を掻く。
「ところで、師匠は本当は早介なのに、どうしてサスケなんですか? 」
「ああ、それはな、『早介』って 早口で10回言ってみ? 」
 言われた通り、ハナ、
「早介、そうすけ、そうすけ、そーすけ、そーすけ、そーすけ、さーすけ、サースケ、サッスケ、サスケ」
10回言い終えてみて、あっ、と口を押さえる。
「……すごいっ! 」
「うん、あと他にはさ、オレの職場の今のポジションに就いた人間は、『サスケ』を名乗ることになってるんだ。オレが初代だけどな。 オレを記念して、次の人からもそうしてもらおうと思って」
(……)
真面目に言ってるのか冗談なのか分からず どう反応していいか困って、ハナは言葉を探し、結果、上手く見つからず、そうなんですかー、と流し気味になってしまってから、
「師匠は、何のお仕事をされてるんですか? 」
 サスケが気を悪くしたのではと サスケの言葉に上手く返せなかった自覚のあるハナは心配したが、サスケは全く気に留めていない様子で、
「警備員だよ。キリ・セキュリティって警備会社、知ってる? 」
「はい、私の通っている高校の近くなので」
 ハナが頷いたのに頷き返し、サスケ、
「そこの身辺警備部の中の、隠密警護班・通称SHINOBIってのの班長してるんだ」
「隠密警護? って、どんなことするんですかっ? 身辺警備は、何となく分かる気がするんですけどっ」
「ああ、名前の通りだよ。大袈裟になるのを嫌う依頼主のために用意してるサービスでさ、一般の身辺警備なら5人くらい必要なところを、1人でとか、少人数で こっそり護るんだ」
 などと話しながら、道すがら、先端の取れたゴルフクラブをゴミ捨て場に置き、自転車を再び元の場所に放置した。
              

SHINOBI~キリ・セキュリティ株式会社身辺警備部隠密警護班~ (5)

                *

 歩いて、到着したのは、車が2台すれ違えるか すれ違えないかくらいの幅の 街灯の少ない暗い道に面した、ブロック塀に金属でできた伸縮する柵のようなものを取り付けただけの簡単なつくりの門の前。
 サスケの後について、ハナは門を入る。
 すぐの所に、昔ながらの学校の校舎を思わせる、横に長い4階建ての 薄汚れた感じの白の四角い建物。門の真正面に位置する、細いワイヤーのようなものが入ったガラス扉の入口の横に、「キリ・セキュリティ株式会社 社員寮」と書かれた木の札が掛かっている。
「ここが、オレの暮らす社員寮の玄関。 入って」
 サスケから言われるまま、入るハナ。
 入った そこには、それこそ学校の昇降口にあるような、フタの無い仕切りの細かい下駄箱が 入って左手の壁にあり、右手側に、管理人室と書かれたプレートと、カウンター付きの小さな窓があった。
 サスケの指示で、ハナが靴を脱いで 1段高くなっているところへ上がり、下駄箱の空いているスペースに適当に靴を仕舞って、下駄箱横に置かれたカゴの中のスリッパを履いた、その時、
「サスケちゃん」
サスケ向けに声が掛かった。
 ハナが つられて声のしたほうを見ると、管理人室の小窓が開いており、
「誰だい? その子」
小窓から顔を出して 丸い眼鏡の向こうから上目遣いにハナを見ていた白髪細身の可愛らしい顔立ちの男性と、目が合った。
 サスケ、
「ああ、シュンジイさん。この子は知り合いの子で、ちょっと面倒をみることになって……。今、空き部屋 無いっすよね? とりあえず、ツキの部屋に一緒にいさせようと思うんですけど、いいですか? 」
 返して、シュンジイという名前らしい白髪男性、
「ツキさんさえ良ければ、いいよ」
 サスケは、ありがとうございますと 軽く シュンジイに頭を下げてから、
「ハナ」
ハナを手招く。 そして、それに従ってサスケの許まで行ったハナに、
「ハナ、寮の管理人のシュンジイさん。 挨拶して」
 ハナ、頷き、シュンジイに、
「雪村花です! ヨロシクお願いします! 」
「はい、よろしく。管理人の志村俊二です」
シュンジイは、ニッコリ笑った。

 シュンジイに見送られ、最低限、程度の仄明るい照明のついた木の床の廊下を、ハナはサスケから半歩後れてついて歩く。
「師匠! ツキさんて、どなたですか? 私をツキさんの部屋に、って、おっしゃってましたけどっ」
 ハナの質問に答える間も無く、目的地に着いたらしく サスケは歩を止めた。
 そこは、玄関から左方向へ歩いて突き当たりの階段を2階へ上がって2つ目のドアの前。
 サスケがドアをノックし、
「ツキィ、いるぅ? 」
ドアに向かって声を掛けているのを、ハナは、ちょっと、あれっ? 
(何か、今の喋り方っていうか、声のトーンっていうか、今までの喋り方と すごく違うよね……? 甘えた感じっていうか、何かワザとらしいっていうか……。別にいいけど……)
などと思いながら、大人しく待つ。
 ドアの向こうからの返答は無く、サスケ、もう1度ノック。そしてまた、甘えたワザとらしい感じで、
「ツキー? 」
 やはり返答無し。
 サスケ、独り言のように、
「ドアの下から光が漏れてんだけどなー。中にいそうなんだけどなー。いないのかなー」
言って、暫しドアの前で待ってから、
「仕方ない」
これまで ハナやシュンジイと話していた時の喋り方に急に戻り、
「こっちだ、ハナ」

 移動するサスケに ついて歩くハナ。
 サスケは、たった今ノックしていたドアの階段側の隣のドアを開け、入って行く。
 そこは 八畳ほどの畳の部屋で、入って正面にコタツ。その斜め向こうにテレビ。コタツの すぐ横、テレビの手前に、いかにも万年床といった感じで布団が敷いてあった。
 サスケは部屋を突っきり、コタツの向こうの窓を開け、ベランダへ。
 ハナは急いで ついて行く。
 ベランダに出、隣戸との仕切りを外側から、手摺から はみ出ながら越え、隣戸のベランダへ。 位置的に、さっきノックしていたドアの向こうのベランダだ。 
 サスケは、ピンクの小花柄のカーテンの掛かった そこの窓を、コンコン。そして、またしても 例の甘えたワザとらしい感じになって、
「ツキー? おーい、ツキー? ツキー」
 コンコン、と、「ツキー? 」を、かなり執拗に繰り返すサスケ。
 ややして、
「うるさいっ! 何なんだ、さっきからっ! 」
声と共に窓とカーテンが ほぼ同時に勢いよく開き、サスケと同じ年頃の 涼やかな目が印象的な整いすぎくらいに整った顔立ちを持つ 色白でスリムな、パジャマの上にカーディガンを羽織った姿の女性が姿を現した。
 女性は迷惑そうな表情で、腰まである色素の薄いストレートヘアを片手で掻きあげる。 細い指から、サラサラサラ……と、髪が零れ、静かに元の位置へ納まった。
 ハナは、
(綺麗な人……。この人が、ツキさん……? )
見惚れる。
 サスケ、女性の怒りを完全無視し、脳天気な感じの軽いノリで、
「どーもー。こんばんはーっ」
 女性は呆れたように小さく息を吐いて サスケから目を逸らし、そこで初めてハナの存在に気づいたようで、
「誰だ? その子」
 その問いに、
「おっ! ツキィ、気になる? 気になるっ? 」
サスケは からかうような面白がるような感じ。 やはり この女性が、ツキ、という人物だったようだ。
 実に楽しそうなサスケを、今度はツキが完全無視。
「とりあえず 中に入れ。寒いだろ」
言って、それまで自分の体で塞ぐようにしていた開けた窓のところを、ハナのために道を空けた。
 ハナ、
「あ……っ、は、はいっ! 」
チラッとサスケを見、サスケが頷いたのを確認してから、
「すみませんっ、お邪魔しますっ! 」
ツキの部屋の中へ。
 サスケが、
 「優しー。 何か、オレだけの時と、随分 対応が違くなーい? 」
言いながら、ハナの後をついて中へ。
 オレだけの時と、対応違くなーい? とのサスケの言葉に、ハナは、
(師匠だって、私やシュンジイさん相手の時と ツキさん相手の時で、随分 喋り方が違うけど……)
と、別に どうでもいいと思いながら、心の中で呟きつつ、失礼にならないよう あまりキョロキョロならないよう気をつけて、通された部屋の中を見回した。
 その部屋は、ベランダに出るために突っきった部屋と 造りは同じようだが、雰囲気は まるで違っていた。 部屋の隅のシングルベッドはキチンと整えられ、他の場所も 全体的に物が少なく整理整頓され小ざっぱりとしているが、ベッドの場所を除いたスペースの中央にあたる位置に置かれたガラスのローテーブルには 小さな鉢植えの花が飾られていたり、カーテンや足下のカーペットはピンク色だったりと、可愛らしく、実際には無臭だが とても良い香りのしている錯覚さえ起こす。
 ツキは窓とカーテンを閉めてから、溜息を吐きつつ ドサッとベッドに腰を下ろし、うっとおしそうに、また、髪を掻き上げた。 髪はしなやかに、蛍光灯の光をキラキラと返す。
 (ホント、綺麗……)
あからさまに不快な表情が、見ていて全く不快でない不思議。 ハナは感動を分かち合いたくて、小声でサスケに、
「師匠! 綺麗なかたですね! 」
「だろ? オレの奥さん」
サスケも小声で返す。
「えっ? そうなんですかっ? 」
小声で驚くハナ。
「……に、なってくれたら いいなあ、ってね」
サスケはニヤッと笑った。
 ハナは反応に困る。
 と、そこへ、ハナとサスケのヒソヒソ話に業を煮やしたのか、ツキが首を左右に振りながら、大きな大きな溜息。
「それで? 何なんだ、一体。 その子は誰だ? その子絡みの用事か? 」
「ああ、うん。コイツはハナ。オレの弟子だよ」
「弟子? ……って、何だそれ」
「うん、ちょっとワケありでさ。ハナを、この部屋に置いてやってほしいんだ。女の子だからオレの部屋じゃマズイし……」
ちょっと困ったような表情で言ってから、サスケ、今度はハナ向けに、
「ハナ、この人がツキ。春日月子。オレと同じSHINOBI所属」
 サスケからの紹介を受け、ハナは、サスケやシュンジイの時と同じように 元気と明るさを心がけ、
「雪村花です! ヨロシクお願いします! ツキさんっ! 」
「あ、ああ……。よろしく……」
鈍く返すツキ。
 ハナとツキが挨拶をかわしたのを確認するように頷いて、サスケ、ハナに向けた話を続ける。
「ハナ、オレ、明日 仕事休みだから、早速、修行開始といこうぜ」
「はい! 」
「オレの修行は厳しいから、覚悟しとけよ? 」
「はい! 師匠っ! 」
「んじゃ、明日の朝 迎えにくるから。今夜は ゆっくり休め」
「はいっ! 分っかりましたっ! 」
 サスケは、よし、と頷き、クルッとベランダ方向に体の向きを変えて窓を開け、それから、頭だけでツキを振り返って、
「それじゃあ、ツキ。そういうことだから、後は頼んだぜっ! 」
ウインクを1つして、逃げるように、とも とれるくらい、そそくさと、ベランダへ出て行った。
「……っ? えっ、あっ、おいっ! サスケッ! 」
何か他のことにでも気を取られてしまっていたのだろうか、一瞬 間を置いてから立ち上がり、サスケを追ったツキの鼻先で、ピシャリと窓は閉まる。
 ツキは、髪を掻き上げた位置でクシャッと掴み、溜息まじり、
「あー、もう……! 」
窓の向こうを睨んだ。

SHINOBI~キリ・セキュリティ株式会社身辺警備部隠密警護班~ (6)


               *

 暫くの間 窓の外を見据えていたツキは、一度、大きな溜息を吐いてから、
「ハナ……と呼べばいいのか? 」
静かに ゆっくりと、ハナを振り返った。
 急に自分に話を振られ、ハナ、ドギマギしてしまいながら、
「あっ……は、はいっ! ツキさんっ! 」
「修行って、何の修行だ? アイツ……サスケが、師匠? 」
「はい、藤堂の家に上手に侵入するための修行です!  私、私の父をリストラして 私の家族をバラバラにした、父の元・勤務先の社長の藤堂に 復讐したいんです! 復讐しないと、私、死ぬことさえ出来ないんです! 死ねる気がしないんです! さっきだって、ビルから飛び降りたのに師匠に邪魔されて死ねなくて……。それって、すごく確率的に低いはずなのに、たまたま通りかかったのが師匠じゃなかったら、飛び降りたのを受け止められるなんてコトないのに、そんなコトが起こるなんて ビックリですよね! 生きていても これからどうしていいか分からないし、帰るトコも無いのに、死ぬことも出来ないなんて、困ったなあ、って……。だから、藤堂を殺して、そうしたら今度こそ 全部 終わりに出来ると思うんです! ちゃんと死ねると思うんです! それで さっき、藤堂の家に忍び込んだら、藤堂の飼い犬に襲われて、危ないところを師匠に助けられて、その時の師匠の動きを見て、これだ、と思ったんです! 同じ動きが出来るようになれば、簡単に藤堂の家に侵入して 藤堂のところまで辿り着けるって!  師匠に 弟子にして下さいとお願いしたのは、そんな経緯からです! 」
 ひと通り、一生懸命 説明を終えたハナは、ツキが あっけにとられているふうなのに気づき、
「ツキさん? 」
 ツキは、ハッと我に返った様子で、
「お前は、面白いな……。復讐願望や自殺願望を、そんな前向きに熱く語られても……」
「面白かったですかっ? 光栄です! 」
「全然褒めていないが……」
「あ、そうなんですかっ? すみません! 」
 コンコン。ドアをノックする音。ドアの向こうから、
「ツキさん、管理人の志村です」
 ツキがドアへと歩き、開けると、布団を抱えたシュンジイが立っていた。
「余っている布団が1組あったので、ハナちゃんに どうかって、サスケちゃんに聞いてみたら、ツキさんの部屋に持ってってくれって言うから」
「……ありがとうございます」
ツキ、布団を受け取り、
「あの、あと、カーテンみたいなものが余ってないですか? つい立でもいいんですけど……部屋を仕切りたいんです」
「ああ、あるよ。持ってきます」
言って、踵を返すシュンジイ。
 ツキは、ドアは開けたままにし、シュンジイから受け取った布団を部屋の隅に置く。
 と、もうシュンジイが戻って来、
「カーテンと洗濯ロープ。あとはフックも何個か持ってきたけど、これでどうかな? 」
手にしていたカーテン・ロープ・フックを少し持ち上げて見せた。
 ツキ、
「ありがとうございます」
それらを受け取り、
「すみません、こんな夜遅くに お願いしてしまって」
「いや、いいんですよ。寮の皆さんの お世話をするのが、私の仕事ですから。 カーテンを取り付けるのは、ご自分たちで出来ますか? 」
「はい、大丈夫です。ありがとうございました」
「うん。じゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」
 階段方向へ去って行くシュンジイを 暫し見送ってから、ドアを閉め、ツキ、洗濯ロープの端をベランダ側の窓のカーテンレールに結び、部屋をロープで二分する形で カーテンレールに端を結んだ位置の丁度向かい側辺りの壁に フックを捩じ込み、そこに ロープの もう一端をかけて結んだ。
 ツキとシュンジイの やりとりを 大人しく見守っていた流れで、シュンジイが去った後 ツキがテキパキと動くのも、何となく眺めてしまっていたハナ、
(あ! ツキさんが1人で忙しく動いちゃってる! 手伝わなきゃっ! )
気づき、
「ツキさん、何をしてるんですかっ? お手伝いしますっ! 」
 ローテーブルをベッド方向にズラしつつ、ツキ、
「部屋を2つに分けるんだ。プライバシーが無いのはキツイからな」
ローテーブルを移動し終えて身を起こし、頭上のロープだけで区切られているスペースのうち ベッドのほうを指さして、
「こっちが あたしのスペース」
もう一方のスペースを指さし、
「そっちがハナ」
 ハナは、もしかして、と、気にした。
(……ツキさん、私に迷惑してる? …そうかも! だって、完全に 師匠から押し付けられたような形だったし……! 謝らなきゃ! 謝って、どっか、他に行こう! )
「すみません! ご迷惑ですよねっ? 私、お部屋の中じゃなくても、雨風しのげて安全なら、廊下でも倉庫とかでも大丈夫ですからっ! 」
 ツキは、キョトンとして、
「あ、いや……、今の あたしの言動を気にしてしまったのなら謝る。ただ単純に、お互いプライバシーを守れる空間が必要だと思っただけなんだ。 ハナが この部屋で暮らすことは、アイツ……サスケが勝手に決めたことなのだから、ハナが気にする必要は無い」
 ハナは、それでも やはり申し訳なく思いながらも、
(ツキさんが、そう言ってくれるなら……)
「それに、アイツは上司とは言っても 学生時代から一緒の同級生だからな、嫌なら断っている」
(っ? 上司っ? )
ハナ、驚く。
「師匠って、ツキさんの上司なんですかっ? 」
「意外か? 」
「あ、何となくですけどっ。人の上に立つようなタイプには見えなかったので」
 ツキは、ふふ……と笑い、
「そうかもな。部下は、今は あたしだけだし……」
(あ、笑顔……)
出会ってから初めて見た、真顔の時とは全く印象の違う、イタズラっぽい幼さの感じられる笑顔に、ハナは見惚れた。もう、見惚れるのは何度目だろう。
(ツキさんて、笑うと可愛い感じになるんだ……)


 ハナとツキ、協力し合って 洗濯ロープにカーテンを吊るし、どうしても重さで沈んでしまう真ん中を余りのフックで吊って、間仕切りの完成。 ハナのスペース側に立ち、ツキは腕組みして満足げに頷き、ハナも、達成感を感じながら、完成したての間仕切りのカーテンを眺めた。
 と、ハナの腹が鳴った。
「腹が減っているのか? 」
 ツキの言葉に、ハナは、少し恥ずかしくなって笑ってごまかしながら、
「はいっ。お昼から何も食べてないのでっ! 」
「そうか。それでは、腹が減って当然だな。 あたしは普段、食事は社員食堂で済ますから、ここには飲物しかないから、コンビニにでも……」
喋りながら考えて 思いついたようで、
「そうだ、サスケのトコに、カップラーメンか何か、あるかもな。もらってきてやる」
それから、ハナを頭の先から爪先まで眺め、
「汚れているな。 あたしは ちょっとサスケのトコに行ってくるから、その間、シャワーを浴びているといい。 ……そう言えば、荷物は無いのか? 着替えとか」
「あ、はい! 何も持たないで家を出てきてしまったので! 」
「そうか」
ツキは頷き、カーテンの向こうの自分のスペースへ入って行き、少しして何やら持って出て来て、それをハナに手渡し、
「バスタオルとパジャマと下着を貸すから……ああ、下着は買い置いてあった新品だから安心しろ。 風呂は、そこのドアだ」
入口のドアの隣、少し離れた位置にあるドアを指さす。

SHINOBI~キリ・セキュリティ株式会社身辺警備部隠密警護班~ (7)


                *

 シャワーを浴びていて、ハナは、お湯の温かさに、自分の体が冷えきっていたと知る。
 今日の出来事が次々と順番に思い出された。 母と見知らぬ大柄な男性のキスシーンに始まり、両親の喧嘩、母が家を出て行ったこと、自分も家を飛び出したこと、繁華街で悪そうな男2人に声を掛けられたこと、ビルから飛び降りて サスケに受け止められたこと、藤堂宅に忍び込んで犬に襲われ サスケに助けられたこと、サスケに弟子入りし、サスケの暮らす ここ キリ・セキュリティの寮に案内され、ツキと出会い、ここで暮らすことになったこと……。 
                                
                *

 風呂場から出たハナの鼻に、久し振りに嗅ぐ、食べ物の いいにおいが届いた。カップラーメンの においだ。
 ハナのスペース側にローテーブルが押し出してあり、その上に、
「良いタイミングだな」
ツキがカップラーメンを置いたところだった。
「あと2分半くらいだ。 食べ終わったら、あたしのスペース側に のれんが掛かったところがあって、その奥が炊事スペースになってるから、そこの流しに残り汁を捨てて、容器を軽く水洗いしてから ゴミ箱に捨てておいてくれ。ローテーブルは、仕切りカーテンの下から あたしのスペース側に押し込んでおいてくれればいい」
「はい! ありがとうございますっ! 」
 ツキは頷き、
「では、あたしは寝るから」
言って、仕切りカーテンをめくり、自分のスペースへ。
「あ、はい! 色々と ありがとうございましたっ! おやすみなさいっ! 」
 ツキを見送ってから、時計は見ていないが 丁度2分半くらい経った頃だと判断し、ハナは、ローテーブルの前に座って カップラーメンのフタを開け、まず、スープをすすった。 熱いスープが体内に滲み渡る。
 何だか、落ち着く。何故だか、涙が溢れた。




SHINOBI~キリ・セキュリティ株式会社身辺警備部隠密警護班~ (8)


               * 2 *


「ハナ、ハナー」
自分の名を呼ぶ遠くからの声に、ハナは目を覚ました。 電気はついていないのに、部屋の中が明るかった。もう、朝のようだ。
「ハナー」
声は、ベランダのほうから。
 ハナは布団から起き上がり、ベランダ側の窓のカーテンを、そっと、少しだけめくる。
「よっ! 」
カーテンの隙間から、サスケが顔を覗かせた。今日はニット帽を被っていない。明るい髪が朝の光に透けて赤みの強い金色になり、眩しくて、ハナは目を細めた。
「ハナー? 」
もう1回 名を呼ばれ、ハナはハッとして、急いで鍵をはずし、窓を開ける。
「おはようございます、師匠っ!  すみません! 師匠がカッコイイので、見惚れてましたっ! 」
我ながら調子良いな、絶好調だな、と、ハナは思った。サスケから良く思われたい一心が一晩のうちに染みついたか、全く心にも無いことというワケではないが、朝一番、お世辞が口から飛び出した。
 サスケ、そうだろう そうだろう、と、冗談めかして ふんぞり返りながら、部屋の中へ入って来、
「とりあえず、シャショクで朝飯だ。これに着替えろ。研修生用のジャージだ。かなりダセーけど」
言いながら、ジャージ上下らしい紺色の布物を差し出す。
 ハナ、受け取り、
「はい! 師匠! 」
受け取ったが……。
(…… )
正体不明の、しかも そこそこ強い違和感を感じ、着替えられない。
 その場で あぐらを掻いて座り、ハナの着替えを待っていたサスケ、
「あれっ? 着替えねーの? 」
「あ、はいっ! 着替えまっす! 」
慌てて返事をするハナ。
 その時、仕切りカーテンが めくれ、ツキが無言で顔を出した。
「あ、ツキさん! おはようございますっ! 」
「おう、ツキ! 邪魔してるぜっ! 」
 ツキは、サスケの顔を見、髪を掻き上げて大きな溜息。
「バカか、お前は……。『着替えねーの?』じゃない。お前の前で、ハナが着替えられると思うか? 」
 ハナ、ああ そうか、と、気づく。自分が感じていた違和感の正体はそれだったのか、と。
 サスケは、
「おっ? さぁっすがツキ! いいトコに気づくねぇ」
ツキを指さしウインクしながら軽いノリで言って立ち上がってから、ハナに向けて、
「んじゃ、オレ、自分の部屋で待ってるから、着替えたら声掛けてくれ」
言って、ベランダへ出ていこうとする。
(ああ、師匠は もしかして、ツキさんに かまって欲しくて、ワザとボケてたのか……)
などと思いつつ サスケを見送るハナ。
 その脇を すり抜け、ツキ、
「ああ、サスケ、ちょっと……」 
サスケと共にベランダへ。
                *

 着替えを終えたハナは、ツキから教えてもらったサスケの部屋のドアをノックする。
 そこは、ツキの部屋の階段側の隣。昨日の夜、ツキの部屋のベランダへ行くために通過した、万年床の敷かれた部屋だった。
「師匠ー! ハナでーす! 着替え終わりましたーっ! 」
「おう、今 出るよ」
ドアの向こうから声。 ドアが開き、サスケが出て来て、
「んじゃあ、行くか」
歩きだす。
 真後ろを ついて行きながら、ハナ、
「あ、あのっ、師匠! 私、お金とか何も持ってないんですけど…… 」
「ああ、そうだろうと思ってたよ。昨日 ビルから落ちてきたのを受け止めた時、手ぶらだったし、ポケットにも財布とか入ってる感じがしなかったから。 とりあえず、オレが食べさせてやるよ」
「あ、ありがとうございますっ! 」
「けど、働かざるもの食うべからず だからさ、ハナをバイトさせることにしたから。 
手続きとか まだだけど、一応、所属はSHINOBIで、でも、オレの手の空いてるときじゃないとトレーニングできないからってことで、シャショクを手伝ってもらう。 バイトになっちまえば、シャショクで食った分は次の給料からの天引きになるし、シャショクを手伝った時には 賄いとしてタダで食える。それに、オレも昔 シャショクで働いたことがあるけど、修行にもなるからな」
「はい! 師匠! 頑張りますっ! 」
 サスケ、よし! と頷く。
「ところで、シャショクって、何ですかっ? 」
(! ) 
突然、サスケの背中が目前に迫った。サスケが急に立ち止まったのだ。
ハナはサスケの背中に ぶつかる。
 サスケは溜息を吐きながら振り返り、
「おいおい、分からねーのに 調子いい返事すんなよ……」
「はい! すみませんっ! 」
 サスケ、再度溜息。頭痛でもしたのか、額を片手で押さえつつ、
「シャショクは、社員食堂の略。今から朝飯を食べる場所だ」
(あ、なるほど。シャショクは『社食』か)
「分かった? 」
「はいっ! 」
 サスケ、さっきよりも重めに もう一度、よし、と頷き、ハナに背を向け、再び歩き出した。


 右手に広いグラウンドを見ながら渡り廊下を歩き、その終点である入口をくぐりながら、サスケ、
「ここが社食だ」
 入口を一歩入ったところに、行く手を阻むように、ショッピングセンター内のゲームコーナーにある両替機大の箱型の機械。その向こう、左手側には、奥に厨房らしきものが見えるカウンターと、その上の壁に電光掲示板のようなもの。右手側にはグラウンドの見える大きな窓。カウンターと窓の間は広い食堂になっていて、4人掛けのテーブルを10個ずつ くっつけて並べた列が、3列見えた。そのテーブルで、人が まばらに食事をしている。
 サスケが機械の前で足を止めたので、ハナも止まる。
 ハナは機械を見て、その形状から、ハナの誕生日プレゼントを買うため藤堂と共に 市内の大型ショッピングセンター・カトーナノカドーへ行き、そこで立ち寄ったゲームコーナーでのことを、ふと思い出した。それは、藤堂がクレーンゲームでマスコットを取り、ハナに渡す際、手が触れたこと。気分が悪くなり、ハナ、思い出した その手の感触を消すべく、ブンブン手を振る。
「ハナ? 」
 サスケに名を呼ばれ、ハナ、ハッとし、
「は、はいっ! 」
「ハナは、パンとゴハン、どっちがいいんだ? 」
「あ、師匠と同じがいいですっ! 」
「じゃ、ゴハンな」
言って、サスケは 襟元にチラリと覗いていた紐をたぐり、服の中から 何やらカードのようなものを引っ張り出して、機械の右端の 縦10センチほど横1センチほどの大きさの黒い出っぱりの、縦方向中央にある ごく細い隙間に、上から下へと通した。機械がピッと鳴る。続いて、機械の、B、と書かれたボタンを2回押した。機械がピピッと鳴る。
「何ですか? それ」
ハナの問いに、サスケ、
「どっち? 」
片方の手でカードを目の高さまで持ち上げて示し、もう片方の手で機械を指さす。
「両方です」
 サスケの説明に拠れば、機械のほうは 社食で食事の注文を受け付ける機械。カードのほうは社員証で、普通に社員証として使うほか、タイムカードや 社内の重要な施設に入室する際の鍵の役割、そして、今 サスケがやったように、社食での食事の注文にも使うとのことだった。
「社員証は、多分 バイトにも発行されると思うからさ、今日中に、オレ、手続きしとくから、2・3日中には ハナの手元にも届くよ」
サスケは社員証を元どおり仕舞い、注文の機械の横をすり抜け、窓際の列の席へ。窓を背にして座った。
 後をついて行き、ハナは、その向かいに座る。

SHINOBI~キリ・セキュリティ株式会社身辺警備部隠密警護班~ (9)


 ややして、サスケが 気持ち上方に視線を向け、
「お、出来た出来た」
 ハナ、つられてサスケの視線を追い、電光掲示板に五桁の数字が並んでいるのを見た。
 ハナの無言の問いに、サスケ、
「オレのコード番号だよ。 メシが出来上がると、そこに番号が出るんだ」
答え、カウンターのほうへ歩きだす。
「うちの会社の社食のメシは美味いからさ、ビックリするぜ? 日曜定休日なのが残念だけどな。 日曜は、代わりに外部の弁当屋が売りに来るんだ」
 サスケの後をついていくハナ。 カウンターに近づいてみると、その奥は やはり厨房で、それなりの広さがあるが、見る限り、中に人は1人だけ。赤いエプロンをし 白い三角巾を被った50代後半くらいの小柄な女性が、忙しそうに動き回っている。
 カウンターの上にはトレーが2つ並び、それぞれの上に、白いゴハン・わさび漬けの小袋・わかめの味噌汁・焼ジャケと玉子焼・塩もみ野菜が載っている。
 サスケ、トレーを1つ 片手に持ち、カウンターの隅の箸立てから箸を1膳取ってトレーに載せ、歩きだしながら、
「そっち、ハナの分」
カウンターに残った もう1つのトレーを指さした。
 ハナは サスケに倣ってトレーを片手に持ち、箸を取り、サスケの後に続く。
 サスケは 真っ直ぐ席には戻らず、カウンター横の給茶機で茶を淹れてから席へ向かう。
やはり倣って、ハナも茶を淹れてから席へ。
「いただきます」
行儀良く両手を合わせて言ってから食べ始めるサスケを、また倣って、ハナ、
「いただきます」
 メニュー的には地味だが、ゴハンは一粒一粒ふっくらツヤツヤ、しっかりとダシの効いた味噌汁、シャケの焼き加減に玉子焼きの甘さ加減と塩もみ野菜の塩加減、全てが絶妙で、サスケの言ったとおり、本当に美味しい。
「メシ食い終わったら、ほら、さっき厨房にいた チエさんに、紹介すっから」


 食堂内の四隅に置かれたテレビのうち 席から一番近いテレビで、もともと ついていた 朝の情報番組を何となく眺めつつ、時々 サスケと会話を交わしながら、ハナは朝食を終え、サスケの後について、カウンター隅の返却棚にトレーを戻し、給茶機とは反対側のカウンター横、洗面台との間のドアを入る。
 そのドアは厨房につながっており、サスケ、
「チエさん、ちょっといいっすか? 」
さっきから ずっと忙しそうに動き回り続けている 赤いエプロンの小柄な女性・チエに声を掛けた。
 チエは動きを止めることなく サスケを振り返り、
「ああ、サスケちゃん。おはよう。 その子は? 」
「うちの新人のハナです。 チエさん、アヤさんが辞めちゃって忙しいから手伝いが欲しいって言ってたでしょ? ハナを使ってくんないっすか? ボクかツキが休みの時じゃないとトレーニング出来ないんで、社食の仕事は 素早く事実を認知し それに即した行動を取る点で、SHINOBIのトレーニングとしても持って来いだし、頼んます。 真面目で素直なヤツだから、扱いやすいと思うんで」
 チエ、初めて仕事の手を休め、ハナとサスケの前まで歩いて来、
「そっか、そりゃ助かるわ。いつから入ってくれるの? 」
「今日はボクが休みで トレーニング出来るんで、明日の朝食からで」
答えてから、サスケ、ハナに向け、
「ハナ、社食のチエさん」
「雪村花です! よろしくお願いしますっ! 」
 チエは、年齢を重ねた女性特有とも言える非常に印象の良い明け透けな笑顔。
「うん、よろしくね。 じゃあ、明日の朝、本当は6時45分でいいんだけど、初めてだし、説明したいから、6時半に ここに来てくれる? 」
 (6時半。早いな……。でも、この時間にゴハンを出してるってことは、そうか……)
ハナ、考え、納得し、
「はいっ! 分かりましたっ! 」
 サスケ、ハナとチエの会話が一段落ついたのを確認したように頷いてから、
「それじゃあ、そういうことで、よろしくお願いします」
チエに軽くペコッと頭を下げ、厨房を出て行く。
 ハナも頭を下げ、続いた。

SHINOBI~キリ・セキュリティ株式会社身辺警備部隠密警護班~ (10)


                *


 寮の玄関で、サスケは下駄箱の上の白い厚紙製の箱を手に取り、ズイッとハナの目の前に差し出した。
「午前中はランニングだ。 あの藤堂とかいうヤツの屋敷から ここまで、普通に歩けるってことは、ハナは それなりに体力があるんだけど、体力は あればあるほどいいからな」
 ハナは条件反射で箱を受け取りながら、これまた ほとんど条件反射のような返事。
「はい! 師匠っ! 」
それから、手渡された箱を開けてみる。白い運動靴だった。
「研修生用のシューズだ。サイズは いいと思うぜ? ハナが ここに履いて来た靴を確認して、シュンジイさんが用意してくれたやつだから」
言いながら、サスケ、管理人室の小窓の向こうのシュンジイに目をやる。
 つられて目をやり、シュンジイと目が合ったため、ハナ、
「あ、ありがとうございます! シュンジイさんっ! 」
 シュンジイは、ニコッと笑み、右手を上げて返した。
「よし、行くか」
言って、サスケはハナに背を向け、下駄箱から自分のスニーカーを出して 玄関の土足スペースに放り出すようにして置いてから、つっかける形で履いて歩き出そうとする。
 ハナ、トイレに行きたかったため、焦って、
「あ、あの! 師匠っ! 」
止める。
「御手洗いに行きたいですっ! 」
 サスケ、振り返り、
「ん? ああ、そうだな。オレも済ませとくか」


 それぞれ用を足して、再び寮の玄関。 トイレに行く前に脱いだままにしてあった靴をつっかけ さっさと外に出て行こうとするサスケの背中を、ハナは急いで追おうと、運動靴を箱から出し 土足スペースに置いて履き、一歩踏み出した。
 瞬間、ステーンッ!
 見事な音をたてて思いきり転んでしまった。
 サスケがギョッとしたような顔で振り返って固まり、シュンジイが驚いた様子で小窓から顔を出したのを、それぞれ目の両端に映しながら、
(痛……。お腹 打っちゃった……)
ハナは起き上がり、転んだ拍子に脱げた運動靴に手を伸ばす。片方を持ち上げただけで、もう片方もついてきた。左右の靴が、細く白いプラスチックのようなもので出来た紐でつながっていたのだ。
(ああ、これのせいか……)
 小窓からシュンジイが、
「ハナちゃん、大丈夫かい? 」
「あ、はいっ、大丈夫でっす! 」
 と、サスケが無言でハナに歩み寄って来て、しゃがみ、
「靴、貸してみ? 」
ハナの手の中の靴に手を伸ばして取り、歯でプラスチックの紐を切って、ハナに戻す。
「師匠、すみません! ありがとうございますっ! 」
 サスケ、頷き、
「よし、じゃあ、今度こそ行くぞ」
 そこへ突然、
「うーん、いいねー……」
シュンジイが唸った。
「何か、微笑ましいね。親子みたい」
 サスケは、えーっ? と声を上げる。
「勘弁して下さいよー。まだボク、こんなデカい子供のいる歳じゃないっすよー! 」
 本日絶好調のハナ、
「師匠がお父さんだったら、相当、自慢のお父さんですよねっ! 若くて、カッコよくて! 」
すかさず お世辞。言いながら、切なくなってきた。
(…私のお父さんも、自慢のお父さんだったんだけどな……)
そのまま落ち込んでしまいそうになって、ハナは、ごまかそうと、意識して勢いよく立ち上がり、靴に足を突っ込んで、
「雪村花、走りまっす! 」
大きめの声で宣言し、軽い駆け足で外へ。 サスケやシュンジイに、落ち込んでいる姿を見られたくなかった。見られたら、うっとおしいと 嫌がられそうで……。
 後ろから、
「おいー、ハナー! 先に準備体操ーっ! 」
サスケの声が追いかけてくる。


 寮の玄関の真正面、裏門を出たところで追いついたサスケの指導の下、準備体操を済ませてから、ハナはサスケの後に従って、裏門前の道を右手側へ。
 右手側へ走ってすぐ、植えられている街路樹から銀杏街道と名付けられている幹線道路と交わる交差点の横断歩道の信号待ちで、斜向かいに、ハナの通う高校の正門が見えた。今日は平日。どこで運命がズレたのだろう。何かの ちょっとした加減の違いで、今頃 自分も、あの正門の内側で普通に勉強していたりしたかも知れないと、ハナは思った。しかし何故だか、今 自分が実際に置かれている立場のほうが、当たり前に感じられていた。
 信号が変わり、サスケが走り出す。
 ハナも続いて横断歩道を渡り、高校と自動車学校の間の道を 高校の敷地を左手に見ながら走る。 高校の生け垣のすぐ向こうにチラチラ見え隠れする体育の授業中らしい体育着姿が、少し離れた所に見える三階の渡り廊下の制服姿が、何だか別の世界のもののように思えた。
 駅前繁華街を抜け、市役所・保健センター・老人福祉施設の裏手を通り、施設と市立病院の敷地とを曖昧に分ける 誰でも自由に通行出来る雑木林の中の遊歩道を走る。 
 サスケのペースは速い。一生懸命ついて行こうとするハナだが、サスケとの距離は開く一方。
 遊歩道出口に着いたサスケが、その場で足踏みしながら ハナを振り返る。
「どうしたー? ハナー! キツいかー? ペース落とすかー? 」
 ハナ、見放されるのを恐れ、
「いえ! 大丈夫ですっ! 」
力を振り絞り、全速力でサスケの許へ向かう。
 速く走りすぎて、ハナの頭はグワングワンしていた。視界が揺れ、真っ直ぐ走れている自信が無い。だが、サスケの姿は確実に、グングン近く大きくなっていく。
(あと少しっ! あと5歩? くらい? で師匠のトコだ! )
 そこへ、
「おっ? やるねえー」
サスケから声が掛かった。
 (褒められたっ! )
ハナは嬉しくて、もっと褒めてほしくなり、サスケの横を そのまま止まらず、スピードも落とさず、走り抜けようとした。
 しかし、
「おっと」
サスケに二の腕を掴まれ 止められる。
「すぐそこは駐車場だぜ? 車に撥ねられたいか? 昨日の夜 飛び降りた時もそうだったけど、確認しないのは、ハナの悪いクセだな。 直さねえと、セキュリティの そこそこしっかりした場所に忍び込むには、致命的だぜ? 」

 遊歩道を出た先の市立病院の駐車場を通り抜け、通称・市民通りという 市の公共施設が多く在る幹線道路に出て右、来た方向へと、その整備された広い歩道を、ハナ、ひたすら サスケについて走る。
 踏切を渡ると、道路を挟んで左手側に、ほんの2ヵ月ほど前までハナが住んでいたマンションがある。そこで暮らしていた頃は幸せだったと、その時には当たり前に感じていたが、今になって しみじみ思う。 
 ハナはマンションが視界に入らないよう、顔を軽く右に向けて俯き、少しスピードを上げて通り過ぎた。
 だが、何が違うのだろう、と思う。マンションに住んでいた頃、何故 あんなに幸福感に包まれていたのだろう、と。むしろ、窮屈ではなかったか? と。アパートに引っ越してからの生活のほうが、自由で、実は気に入っていたのでは? と。……父の友人や仕事関係の人が訪れる度に、ピアノを弾かされたり、一緒に お茶を飲みながら会話に付き合わされることもなくなった。母の手料理に いちいち感想を求められることも無くなった。服や文具を買い与えられることもなくなったが、以前 与えられていた物で充分足りていた。習い事を全部やめたため時間が出来て、別の目的のほうが大きかったのは事実だが ただ単純に好きでもある本を、毎日 学校で借りて帰っては、心ゆくまで読み耽ることが出来た。本当に、何が違うのだろう。
(…やっぱ、一つだけか……)
父の変化……それだけだ。全ては 藤堂……あの男のせいで……。
「ハナ」
名を呼ばれて、ハナは ハッと顔を上げる。 自分の前にいたはずのサスケがいない。
 ハナ、足を止め、キョロッと首を動かしてサスケを捜すと、サスケは ハナの左斜め後ろにいた。同じ 今 走っていた市民通りと銀杏街道が交わる大きな交差点でも、ハナが立っている場所は 銀杏街道を渡ることになる、自動車学校敷地側面とキリ・セキュリティ敷地側面を結ぶ横断歩道の手前。サスケが立っているのは 市民通りを渡ることになる 自動車学校正門とカトーナノカドー西側入口を結ぶ横断歩道の前。考え事をしていたために、いつの間にかサスケを追い越し 通り過ぎてしまっていたのだ。
「ハナ、こっち」
サスケはハナを手招き、親指でナノカドーを指して、
「ちょっと、そこ 寄ってくから」
 サスケの後をついてナノカドーの入口を入りながら、ハナは、胸がキュッとなる。
 明るい照明、軽快なBGM、新しい物だらけの独特の匂い……。ここは、ハナにとって ちょっと特別な場所だ。 
 ハナは ここに、1人で来たことや友達同士で来たことは ほとんど無い。いつも、大体 大人と一緒だった。両親と買物したり食事をしたりして楽しく過ごした場所。そして……そこまでで気分が悪くなった。両親の笑顔の思い出を、藤堂の あの気持ちの悪い笑顔に邪魔されたのだ。ここへは、藤堂とも時々 一緒に来た。バーベキューの材料の買物や、ハナの誕生日プレゼント選びで……。
 ハナは一度 深呼吸して、気持ちを切り替えてから、
「師匠っ、お買物ですか? 」 
 答えてサスケ、ハナが着替えやタオル類など生活に必要な物を何も持っていないため それらを買うのだ、と。
「ありがとうございますっ! さっすが師匠! 細やかな気遣いですねっ! 」 
 サスケ、そうだろうとも、と、冗談っぽく ふんぞり返って見せてから、ちょっと肩を竦め、
「なんてな、本当はツキなんだ。 ハナにバイトをさせようってのも、ツキの案」
「あ、そうなんですかっ? ツキさんて、外見だけでなく、本当にステキな女性ですよね! 昨日も色々と、私の世話をして下さったんですっ! 」
素直に直接的な表現でツキを褒めてしまってから、ハナは、ふと思いつき、しまった、と思った。
(師匠の良い奥様になりそうですよね、とか、言えばよかった。 そっちのほうが、絶対、師匠、喜ぶのに……)
 サスケも、ごく普通に、そうだなー、と返す。ハナ、次の機会には頑張ろう、と、心に誓った。

                   

SHINOBI~キリ・セキュリティ株式会社身辺警備部隠密警護班~(11)


               *

 ナノカドーでの買物を済ませて キリ・セキュリティに帰り、社食で昼食後、今度は会社敷地内のグラウンドで修行。 必要な物を持って行くから 先にグラウンドに出ていてくれと、サスケから言われ、誰もいないグラウンドで 手持ち無沙汰のため膝の屈伸運動をしながら、ハナは待っていた。
 ややして、ライン引きと 小学校でドッジボールなどに使いそうなボールを1つ手にして、サスケが やって来、
「お? 準備運動? 感心感心っ」
(褒められたっ! )
喜ぶハナ。
 サスケはボールを地面に置き、鼻唄まじりに楽しげに 地面に3メートル四方の四角を描き、
「よしっ」
ひとり頷いて、今度はライン引きを四角の外に置き、代わりにボールを手に取る。
 そのボールを、サスケ、自分の顔の横に立てた人指し指の先で器用に回しながら、
「んじゃあ、修行再開。 ハナ、オレから このボールを取ってみ?  この修行では、咄嗟の判断力と反射神経、俊敏性を培う。ルールは、オレは この四角から出ない。ハナは四角の中にいても外にいても自由。制限時間は5分。 オッケー? 」
 ハナは少し緊張しながら、
「はい! 師匠! 」
 サスケ、ハナの返事に頷き、
「よし! じゃ、始めっ! 」
 相変わらずサスケの顔の横で回っているボール目掛けて ハナは走り、腕を伸ばす。
 サスケは、ボールを ヒョイッと自分の頭上に軽く抛り、反対の手で受け止め、再び、今度は 受け止めたほうの手の人指し指の先を使い 顔の横でボールを回しつつ、溜息。
「ハナ、そんな真正面から真っ直ぐにじゃ、例えばオレがハナから取るのも無理だと思うぜ? 」
(そっか、じゃあ、どうすればいいんだろ……)
ハナが考え込もうとしたところで、サスケ、
「おっ? 」
視線を寮と社食を結ぶ渡り廊下へ向け、そちらへ向かって駆け出す。 その先には、ツキがいた。
 ハナも、サスケを追ってツキの許へ。
 「おーい、ツキィー! 」
 サスケの呼び声が聞こえたらしく、ツキは足を止め、ハナやサスケの方向を振り返った。
 一足先に到着したサスケと、何やら迷惑そうな顔で話しているツキ。
 ハナが2人の所へ着くと、サスケ、
「ハナ、ツキがお手本を見せてくれるって」
 ツキは、大きな大きな溜息を吐きながら、スリッパのまま、渡り廊下のすぐ脇、グラウンド隅の、アスファルトで舗装された部分に下りる。
 サスケ、
「んじゃ、ハナ、開始の合図 出して」
 「合図? ですか? 」
 サスケ、頷き、
「『始めっ! 』って言いながら 右手を高く上げればいいから」
 対峙するサスケとツキ。辺りを張り詰めた空気が包む。その雰囲気に、ハナは圧倒されてしまう。
「ハナ」
 サスケに声を掛けられ、ハッとして、
「始めっ! 」
ハナは慌てて合図を出した。
 ツキがサスケを窺いつつ、ゆっくりと、サスケを中心にして、横歩きで反時計回りに旋回し始める。それに合わせ、サスケも、ツキが自分の正面になるよう その場で回る。
 その状態の続くこと十数秒間。突然、ツキが旋回方向を変え……るのかと思いきや、反対方向へ動かした足を 地面につけないまま、素早く元の方向前方へ、大きく踏み出した。
 時計回りに対応しようとしていたらしいサスケ、危ないところで後方へ跳び、ボールに確実に届くところだったツキの手をかわして、フーッと大きく息を吐く。
「あっぶねー……」
 ツキ、小さく舌打ちしてから再び旋回。 と、何かが目に触れたようで、動きを止め、寮の方向を見た。
「ん? 」
サスケも そちらを見る。
 ハナも、
(何だろ? )
つられて見た。
 直後、
「ほら、取ったぞ? これでいいか? 」
ツキの声。
 見れば、ツキの手に、ボール。
(ツキさん、スゴイ……! )
ハナは感心する。
 サスケ、ちょっとワザとらしい感じで むくれ、
「あ、ずっるー! 」
「引っかかった お前が悪い」
真顔で言ってから、ツキは、
「じゃあ、あたしは今から昼食だから」
ボールをサスケに手渡し、渡り廊下へと上がって社食へ向かって歩き出す。
 その後ろ姿に、サスケ、
「あっツキ! ありがとさんっ! 」
 ツキ、顔だけ振り返って フッと笑み、社食へ入って行った。
 昨日ハナが見惚れたものとは種類の違う、柔らかく大人びた、真顔の状態からも想像し易いキレイ系の笑顔に、ハナ、
(ツキさんて、色んな笑顔を持ってるんだ……)
見惚れた。
 サスケも、見送りながら、
「くっそー、ホント いい女だよなー」
呟く。

SHINOBI~キリ・セキュリティ株式会社身辺警備部隠密警護班~ (12)


               *


 ハナはガクンと膝を折り、グラウンドの土に手をついた。 ツキの お手本から、フェイントを使うのだと学び、その後、グラウンドの白線の四角のところへ戻って サスケに挑戦しつづけていたが、取れない。惜しい瞬間もあったが、惜しい瞬間を迎えるごとに、初めは一ヵ所に立ち 指先で回していたボールを 回さず手のひらの上に置くようになり、次は 胸の前で両手で持つようになり、ここ数回などは それまでと違い 四角の中を動き回るようになり、と、サスケの守りが堅くなっていったのだった。
「どうした、ハナ。もう終わりかー? 」
 ハナ、土をグッと握りしめるようにして、ついた手に力を込め、立ち上がろうとしながら、
「いえっ! まだまだですっ! 」
 気力は充分。だが体力は限界だった。力を振り絞って何とか立ち上がるも、足に力が入らず、また すぐ
(……! )
崩れそうになったのを、サスケに支えられ、ハナ、急いで、
「す、すみません! 師匠! 」
自力で身を起こそうとするが、無理だった。
 サスケ、
「いいって いいって。無理すんな」
軽い口調で言ってから、グラウンド隅に設置された時計に目をやり、
「どっちみち、今日は もう終わりだな。晩飯の時間だ」
(もう、そんな時間? )
ハナは辺りを見回す。 ハナとサスケのいる場所はグラウンドのナイター照明で明るいが、照明の当たっていないところは暗かった。 ボールやサスケを追うのに必死だったのと、照明のおかげで自分のいる辺りだけは明るかったため、全く気づかなかったのだ。
「さ、メシメシっ」
言って、サスケはハナの右腕を持ち上げて肩に担ぎ、左手でハナの左腋を支えて、ボールを右手に、歩き出す。
 申し訳なく思い、導かれるのに従って、出来るだけ自力でと努め、ハナは足を引きずった。

 グラウンドから、靴を脱いで渡り廊下に上がり、ハナとサスケは、直接 社食へ。
 注文機の前で、
「ハナ、ちょっとボール持ってろ」
ハナにボールを預け、サスケ、空いた手で首元から社員証を引っ張り出し、
「ハナ、和食? 洋食? 」
「あ、師匠と一緒で」
「んじゃ、和食な」
言って、注文機を操作。それから、ハナを その場から最も近い空席に連れて行き、座らせた。
 ややして電光掲示板にサスケの番号。ハナは立ち上がろうとするが、サスケ、
「あー、いいよ。オレが持ってきてやる」
 ……と、こんな調子でサスケに世話を焼いてもらいながら夕食を食べ終わる頃には、30分ほど座ったままでいたことに加え 食事を摂ったこと自体も良かったのか、ハナは だいぶ回復し、自力でトレーを返却棚に戻して、サスケに手を貸されることなく 社食から寮のサスケの部屋の前までを普通に歩けた。


「んじゃ、またな」
「はい! ありがとうございましたっ! 」
 サスケの部屋の前でサスケと別れ、サスケが部屋に入るのを見届けてから、ハナ、ツキの部屋のドアの鍵穴に、出来る限り そうっと、ツキから預かっていた合鍵を挿し、やはり そうっと回して開け、ドアノブを静かに回して、ドアを静かに引いて開け、静かに静かに部屋の中へ入り、静かに静かに そうっとドアを閉め、中から鍵を閉めた。 ツキの仕事の予定は、曜日や時間による固定ではないため、また、急な変更も多いため、予めハナに正確に伝えておくことが困難であることから、ハナが部屋に戻って来た時、朝でも昼でも夜でも ツキが眠っているかも知れないということで、そのように開け閉めするよう、今朝、ハナがサスケの部屋へ行こうと部屋を出る時に、鍵を渡してくれながら、ツキが言ったのだった。
 部屋の中にツキはおらず、ハナのスペース側に押し出されたローテーブルの上に手紙があった。
 その手紙に従い、ハナは、シャワーを浴びて 昼間 サスケに買ってもらったパジャマに着替え、シャワー前に脱いだ物とシャワーに使ったタオル類、ツキが手紙と一緒に置いて行ってくれた洗濯洗剤と それから
(あと、このへんもだよね)
ツキから借りていたパジャマとタオル類を手に、4階の共同洗濯室へ。
 これまで一度も洗濯などしたことの無いハナだったが、洗濯室の壁に、親切にも洗濯機の使用方法が紙に書かれて貼られていたため、とりあえず回すことは出来た。
(うん、意外と簡単っ)
ハナは、もう一度  使用方法の貼り紙を確認する。
(あとは、ただ待つだけでいいみたい。…45分か……。結構、時間がかかるんだな……)
 そこへ、
「あ、ハナちゃん。洗濯? 」
シュンジイが廊下から顔だけで洗濯室を覗いた。
「あ! シュンジイさんっ! こんばんはっ! 」
 シュンジイ、はい こんばんは、と返してから、
「洗濯 時間かかるから、一旦 部屋に戻って、終わる頃に また来るといいよ。 あと、屋上にビニールハウスがあって、そこが物干し場になってるから、洗濯 終わったら、そこに置いてあるハンガーを自由に使って干してね」
 それじゃあ、と言って立ち去ろうとするシュンジイに、ハナ、
「ご親切に ありがとうございました! 」
 シュンジイは笑顔で返し、去って行く。
 ハナ、壁の時計を見て時間を確認し、
(今、7時半だから、8時10分くらいまでか)
部屋へ向かう。

 部屋の前で鍵を開けようとし、
(あれ……? )
ハナは、自分が鍵を持っていないことに気づいた。
(どこに置いてきたんだろ……)
記憶を巻き戻し、再生し、
(あっ! )
鍵の在りかを知るのに、そう時間はかからなかった。
(部屋の中のローテーブルの上だ! 社食から戻って鍵開けて入って、ローテーブルに置いて そのまんま! 私、鍵かけてない! )
 そっと、ドアノブを回して少し引いてみる。鍵はかかっていない。
(ツキさん、帰って来てないみたい。……よかった。中から鍵かけられて寝られてたり、一度 帰って来て鍵かけて出掛けられたりしたら、私、部屋に入れないし)
 ドアを開け、暗い部屋へ足を踏み入れた瞬間、
(! )
ハナはギクリとした。ハナのスペース中央に、入口に背を向け あぐらを掻いて座っている人影。 しかし、
(なんだ、師匠か……)
すぐに 人影がサスケであると気づき、ホッとして電気をつける。
 サスケがハナを振り返った。
「よ! ハナ! どこ行ってた? 」
「あ、はい! 洗濯でっす! 」
「そっか。 風呂は? 入った? 」
「はい! 」
「じゃ、ストレッチやろう、ストレッチ! これ、風呂上りの日課な。体が柔らかけりゃ怪我もしにくいから」
「はい! 師匠っ! 」
「んじゃ、脚を前に伸ばして座って」
サスケ、言いながら立ち上がる。
 ハナ、サスケの指示に、脚を前に投げ出すようにして座り、サスケを仰いだ。
「こうですかっ? 」
 サスケ、頷き、ハナの背後に回りつつ、
「よし。んじゃあ、1・2・3で背中を押すから」
「はい! 師匠! 」
「行くぞ! はい、1・2・3ー。弱く・弱く・強くー。1・2・3ー」
1・2の 弱く・弱く で、反動をつけ、3の 強く で、サスケは軽く体重をかける。 3 のタイミングで、ハナの腹・胸・顔が、ぺター、と、伸ばした脚についた。
 サスケ、驚いたように、そして とても楽しげに、
「おー、スゲー! 柔らけー! 面白えー!  」
 ハナ、褒められて嬉しくなり、
「楽しんでいただけて光栄ですっ! 」
「何か、体が柔らかくなるようなことしてた? 」
「はい! 毎日 お酢を飲んでましたっ! 」
「酢かー。よく そう聞くけど、本当に効くのかー」
「あと、3歳の頃から2ヵ月くらい前まで バレエ習ってましたっ! 」
「…かなりの確率で、そっちだと思うぜ……? 」
「そうですかっ? 」
「ああ、多分な」
 そこへ、ドアが開き、ツキが入ってきた。
「何をやっているんだ? 」
「あっ、ツキさん! お帰りなさーいっ! 」
「おう、ツキ! ストレッチだよ。 風呂上りの日課」
 ツキは、ふーん、と頷き、
「そのくらいなら あたしが見るから、明日から、お前、来なくていいよ」
 サスケ、えっ? と、ワザとらしく驚き、そして、こちらもワザとなのか、酷く慌てた様子で、
「い、いや! オレの弟子だし、悪いから、ちゃんとオレが見るよっ! 」
 ツキ、腕組みをし、暫し沈黙後、考え深げに、
「…何か、おかしいな……。いつものお前なら、こんな時、喜んで『あっそう? 悪いねー』とか言って押しつけるのに……。 …お前、本当は ハナと同室でも平気そうだよな? ハナを この部屋に置いてるのは、もしかして、この部屋に出入りするための口実だったりするんじゃないのか…? 」
 ツキから 探るような視線を向けられ、サスケ、一瞬 ワザとらしくグッと言葉に詰まった感じを作ってから、へラッと笑って、
「あ、バレたー? 」
 ツキは大きく溜息。
「……まあ、お前が平気そうだとか、ハナも気にしなそうだとかの問題じゃなく、常識的にマズイのは確かだけどな」
「うん、そう。そうなんだよ! 」
 そんな サスケとツキのやりとりを見ていて、ハナ、
(あっ! )
チャンスだと思った。言えばサスケが喜びそうなものに 今の この2人が似ていると、気づいたのだ。 それは以前、たまたま見ていたテレビドラマの中のワンシーン。
「なんか、師匠とツキさんって、無駄遣いをしたダンナさんと、その理由を問い詰める奥さんみたいですねっ! 」
 案の定、サスケは気を良くしたようで、ハナを指さし、ウインク。
「おーっ? ハナァ、分かってるねえ」
 ハナ、心の中で小さくガッツポーズ。
 ツキは、大きく大きく溜息をついた。
 

SHINOBI~キリ・セキュリティ株式会社身辺警備部隠密警護班~ (13)


             * 3 *


「おはようございます! よろしくお願いしまっす! 」
昨日の約束どおり、朝6時半。研修生用のジャージに着替えて社食へ行き、ハナは厨房を覗く。
 忙しなく動き回っていたチエが、ピタッと動きを止めて ハナを振り返り、
「ああ、ハナちゃん。おはよう! よろしくねっ! 」
包み隠されたものの一切無い感じの底から明るい笑顔で言い、ダスターでササッと手を拭ってから、ハナに歩み寄って来た。
「良かった。ちゃんと起きられるか心配してたんだよ? 昨日、サスケちゃんに、だいぶ しごかれてたでしょ? 夕食を食べに来た時にフラフラしてるのが見えたから……。大丈夫? 疲れは残ってない? 一晩経って、筋肉痛とかになってない? 」
「はい! 大丈夫でっす! 筋肉痛には なってないし、疲れは、昨日の夜、チエさんの作ってくれたゴハンを食べたら取れちゃいましたっ! 」
 チエは一瞬、ポカンとした表情になり、それから、ハッと我に返った様子で、頬を少し赤らめ、ハナの肩をバシバシ叩いて笑いながら、
「もー! この子はヤダよお! どこで、そんな お世辞を覚えたんだろうねえっ! 」
言い、フウッと1回 小さく息を吐いて落ち着いて、穏やかに笑み、
「でも、ありがとうね。そうやって言われると嬉しいよ」
それから、スッと真顔になった。
「ハナちゃんは、いい子だねえ。いい子なんだってことが、見てて すごくよく分かるよ。サスケちゃんのために、辞めないでやってね。 SHINOBIは、ほんとに人が続かなくてね。身辺警備部自体が大変な部だけど、SHINOBIは特に危険任務が多いからかな? せっかく高倍率くぐり抜けて採用されて 厳しい入社前新人研修を乗り越えて入社式を迎えても、SHINOBIに配属が決まって ちょっともすると、皆、辞めてっちゃうんだよ。サスケちゃんも、去る者追わずだし。危険だって分かってるから、引き止められないんだろうね。だから毎年、4月5月だけは サスケちゃんとツキさん以外にも5・6人くらい所属してるんだけど、他は常にサスケちゃんとツキさんだけで……。SHINOBIへの依頼件数が いくら少ないとは言え、2人じゃ、きっと大変だよねえ……。それで、ハナちゃんを雇ったのかな? 異例中の異例なんだよ、こんな中途半端な時期の新人……しかも、アルバイトなんて存在自体が この会社じゃ初だって、社内で、既に ちょっとした話題になっててさ。サスケちゃんの立場だから出来たことだろうけど」
(師匠の立場だから……? )
ハナ、ちょっと考え、思い出す。
「あ、班長さんだから、ですか? 」
 チエは、少し驚いたように、
「あれ? 知らない? サスケちゃんは、この キリ・セキュリティ株式会社代表取締役社長の次男、つまり、社長令息ってやつだよ。よくは知らないけど、おうちで色々あるみたいで、立派なご自宅があるのに寮で暮らしてるし、お兄さんである健真さんの副社長って立場に比べると 1つの部署の中の更に1つの班の班長なんて 下のほうに感じるけど、仕事上での階級じゃなく、ある意味、やっぱり、特権階級ではあるよね。あんまり良い言い方じゃないけど……。サスケちゃんは、とっても いい子なんだけど、その特権的立場へのヒガミから、良く思ってない連中もいてね。だから、ハナちゃんには、サスケちゃんのために頑張ってもらいたいなって思ってるの。特権を使って例外的にサスケちゃんが採用したアルバイトだから、この先のハナちゃんの仕事ぶりが、直接、サスケちゃんに対する周りからの評価に関わってくるはずだから」
 ハナは内心、困ったな、と思った。だって自分は、そんなに長く ここにいるつもりは無い。 とりあえず、ここに来てから今まで、ここにいる誰に対してでも そうしてきたように、
「はいっ! 頑張りまっす! 」
明るく元気に返事だけしておいたが……。
(私が気にするコトないよね? 私が師匠にお願いしたのは弟子入りであって、バイトをと提案したのはツキさんで、師匠は、私の事情を知っていて その提案を受け入れたんだから……)
 チエは ハナの返事に満足したようで、明るい笑顔を呼び戻して軽く頷き、
「さ、仕事仕事! ハナちゃんに やってもらう仕事の説明をしなくちゃね! 」

 じゃあ こっちに来て、と言う チエの後について行くハナ。 食堂と厨房をつなぐカウンター横のドアの真向かいに位置する厨房奥のドアを出ると、そこは薄暗い倉庫のような部屋。入ったドアの向かいにシャッターがあり、左右とドアのある壁に寄せて たくさんの色々な物が並べられたり積まれたり吊るされたりしている。
 チエ、シャッターを指さし、
「あそこが、外から運ばれてくる食材なんかの搬入口。もし、さっきハナちゃんが入って来たドアが閉まってたら、こっちから入って来て」
 それから、壁に寄せられている色々な物のうちの1つ、3つの縦長の扉のあるロッカーの前まで歩き、「雪村」と名前の入った扉を指して、
「ここ、ハナちゃんのロッカーにしたから。ハナちゃんは寮で暮らしてるから必要ないかもしれないけど、とりあえず」
そのロッカーを開け、中からチエの物とお揃いのエプロンと三角巾を出し、ハナに手渡した。
「はい、これ、つけてね」
「はい! 」
受け取り、身につけようとして手間取るハナ。チエが横から手伝って、ササッとつけてくれ、
「はい、出来上がり! 」
ハナを上から下まで眺め、
「わー、可愛い! やっぱ、若い子は何を着ても似合うねえ! 」
 はい、そうしたら次は こっち、と、チエは、ロッカーの上に載っていた空の500ミリリットルのペットボトルをエプロンのポケットに突っ込み、ロッカーの隣に吊るされたモップと、そのすぐ下に置かれた いかにも業務用っぽい掃除機を、それぞれ片手に、ドアから倉庫を出、厨房を通り過ぎざまモップを持った手の指にダスターを一枚引っ掛けて、食堂へ。
「朝、まずハナちゃんに やってもらいたいのは、食堂のお掃除。今日は私がやって見せるから」
言って、チエは、ダスターをカウンター上、掃除機を その真下の床に置き、ポケットからペットボトルを出して、ドアの すぐ横の洗面台で水を半分くらい入れ、すぐにモップの上に こぼし、もう一度、今度は水を満タンに入れてからフタをし、再びポケットへ。 そして、ホウキで掃くようにモップを軽く左右に動かしながら、後ろ向きに歩き始めた。モップを動かし 時々ペットボトルの水を撒きつつの、チエの説明によれば、モップがけの目的は2つ。1つは 人が通る場所の床のホコリを抑えること、もう1つは ゴミを窓際なり壁際なりの食堂の隅か椅子・テーブルの下にまとめること。後から、まとめたゴミの場所だけを 掃除機で吸っていくらしい。
 チエの後を ついて歩くハナ。チエは5分弱でモップ・掃除機を終え、今度はダスターに持ち替えて、テーブルの上をザッと拭いていく。 テーブルを拭き終え、道具類を また いっぺんに持ち、ダスターを厨房へ戻し、倉庫の元の位置へ掃除機を置いてから、モップを搬入口を出て すぐの外水道で洗って絞り、元の場所へ吊るし、ペットボトルも戻して、掃除終了。掃除の所要時間は、片付けも含めて約10分。ハナ、
(私、こんな短い時間で終わらせれるかな……)
不安になり、チエに そう言うと、チエ曰く、
「短時間で終わらせるポイントはね、どれだけのことを見て見ぬフリ出来るか、かな」
真に受けていいものかどうか分からず、ハナは途惑う。 
 その表情を見て取ってか、チエ、笑いながら、
「ホントだよぉ、ちょっと言葉が不適切だったかも知れないけど。 うん、初めは、時間かかるかも。必要なのは経験で、日によっての汚れ方の違いで変わる しっかりやるべき箇所と手抜きすべき箇所を判断して、正しく手を抜ける必要があるから」
 掃除の説明は そこまで。続いて、社食の受付が始まってからの仕事の説明。
 受付開始後のハナの仕事は、入口の注文機で注文された注文内容Aセット・Bセットと5桁のコード番号が載っている作業伝票を確認し、既にチエが調理して 厨房内のウォーマーテーブル上に用意してある料理を、同じくチエが用意した盛り付け見本に倣って食器に盛り付け トレーに並べ、カウンターに出して、カウンター内側のボタンを操作し、伝票に記載されているコード番号を電光掲示板に表示する。そして手隙時に、返却棚に戻された食器を種類ごと仕分け 洗い場に運び、更に余裕があれば洗う、というもの。

 説明を受けている間に、サーマルプリンターから連続して何枚も伝票が出てき、人がゾロゾロ食堂に入って来て席に座るのが カウンター越しに見えた。
 チエ、
「さあ、始まったよ。ハナちゃん、集中してね。社食はスタートと同時にピーク突入だから。 ピークが終わるまでは、私も盛り付けをやるから。私、Aセットやるから、ハナちゃんはBセットをお願い」
「はいっ! 」
 ハナの返事に頷き返して、チエは動き始める。 チエ担当のAセットは パン食で、今日のメニューは、フォッカチオ・ミネストローネ・目玉焼き・ソーセージ・野菜サラダ。 伝票をプリンターから取り、書かれていることが見えるよう プリンター横の伝票ハンガーに並べて挿し、それから、カウンター内側の カウンターと一体になっているワークテーブルにトレーを5枚並べ、ウォーマーテーブルからフォッカチオを取り 皿の上に載せては、並べておいたトレーに順に置いていく。次に、別の皿にサラダを盛り付け目玉焼きとソーセージを載せてはトレーに置いていき、サラダの部分にドレッシングをかける。それから ミネストローネをスープ皿によそってはトレーに置いていき、5人前がいっぺんに完成。それをカウンター上に並べて出し、慣れた手つきで電光掲示板のボタンを操作。コード番号を5つ入力し表示して、伝票を5枚、伝票ハンガーから引き抜いて足下のゴミ箱に捨て、また新たにトレーをワークテーブルに5枚並べて 同じことを繰り返す。
 その素早く無駄の無い、しかし無駄が無さすぎて逆にオモチャのようで可愛く面白いチエの仕事っぷりに、ハナが思わず見惚れていると、チエ、チャカチャカチャカとオモチャのような動きは そのままに、
「ハナちゃん、ちゃんと集中して! B伝票 溜まってるよ! 」
 ハナ、ハッとし、
「す、すみませんっ! 」
慌てて、トレーを1枚ワークテーブルの上に出し、見本をパッと見て確認。大急ぎで ゴハンをよそって、トレーに置こうと、茶碗を持った手を移動した瞬間、左手の動きに茶碗がついて来ず、
(っ! )
ポロッと手を離れた。
(……ああ……っ! )
腹から胸にかけてに ゾワッと冷たいものが込み上げるのを感じながら急いで体勢を変え、
(…っぶない……)
受け止め、思わず溜息をついて しゃがみ込んだ。
 と、その時、頭上から、
「なあ、Bセット まだ? 」
 ハナが、顔を上げて見ると、日に焼け深くシワの刻まれた顔をした 白髪まじりの脂ぎった頭髪の男性がカウンターから覗いていた。
 男性は、カウンターを指でコツンコツンコツンコツンと鳴らしながら、黄色く濁った目で ハナを見下ろす。
「俺、多分、一番初めに注文したんだけど」
 ハナは急いで立ち上がり、
「すみませんっ! 今、やりますっ! 」
手にしていた茶碗をトレーに置こうとした。
 と、男性、
「あんたが抱え込んでた その飯を、俺に食わすのか? あんたのフケや唾が入ったかも知れねえし、指で触ったかも知れねえし、汚いら。それに、ちょっと冷めてるじゃあ」
 ハナ、そうかも知れないと思い、どうしたらいいか、とチエを窺う。
 チエ、ハナの視線に気づいているのかいないのか、チャカチャカと自分の仕事をこなし続け、トレーをカウンター上に出し、電光掲示板にコード番号を表示して、伝票ハンガーの伝票を捨て、と、そこまでやってから、突然、変則的に茶碗とシャモジを持って、ゴハンをよそう。よそったゴハンをハナが出してあったトレーに置き、アジの開きを横長の四角い皿に載せて、小鉢にホウレンソウのおひたしを菜箸でひとつまみ入れ、それぞれトレーに置き、切干ダイコンの味噌汁を椀によそって置き、最後に納豆のパックをトレーの隅に載せ、カウンター上、男性の正面に出し、伝票を1枚 ハンガーから取って見、確認したように頷いてから、男性に向けて、ニーッコリ笑顔。
「はい、お待たせー。ゴメンねえ? 社食でのバイトは今日が初日だから、温かい目で見守ってやってえ」
 男性、無言で カウンターから自分の前に出されたトレーを持ち上げ、背を向けて、2・3歩 歩いてから、チエを振り返り、
「まあ、言いたいことは山とあるけどさあ、言わないほうがいいら? オボッチャマが連れてこられたバイトなんだから」
言って、口元を歪め、チラッとハナに視線を流してから、再び背を向け、席へ。
(オボッチャマ、って、師匠のことを言ってるんだよね……)
何か嫌な言い方だな、と、ハナは思った。自分が料理を出すのが遅くなってしまったことは事実だし、ゴハンが汚れてしまっていたかもしれないのも その通りかもしれないから、言われて当たり前なんだけど、師匠のことを わざわざ言う必要無いのに、と。
(…って言うか、本当に言いたかったのは、私への苦情じゃなくて、師匠についての嫌味だったのかも……。何か、そんな感じがする……。…もしかして、今のオジサンって、さっき チエさんが言ってた、師匠のことを良く思ってない連中、の1人……? )
「ハナちゃん、盛り付ける時、トレーは5枚までなら並べていいから、何食分か まとめて盛り付けたほうが速いよ」
男性の背中を見送っていた ハナに、チエがアドバイス。
 ハナは、また自分が ちょっとボーッとしてしまっていたことに気づき、
「あっはい! 分かりましたっ! 」
急いで返事。
「初めは速くなんて出来なくて当たり前なんだから、慌てないで、落ち着いて確実にやって」
そう言って、チエは自分の作業に戻った。
 ハナ、チエからのアドバイスに従い、まずは落ち着こうと深呼吸。それから伝票ハンガーを見、Bの伝票が5枚以上あることを確認してから ワークテーブルにトレーを5枚並べ、ゴハンをよそっては 5枚のトレーに順に1つずつ置いていき、次は アジの干物を順に。それからホウレンソウのおひたし、味噌汁、最後に納豆のパックを置いて完成したBセットのトレーをカウンター上に出し、伝票と しっかり見比べながら、掲示板のボタンを操作。念のため もう一度 番号を確認してから表示し、伝票を捨て、新しいB伝票が5枚以上あるのを数えてから、また、ワークテーブルにトレーを5枚並べ……と、何回か繰り返すうち、リズムが生まれ、何だか楽しくなってきた。
 暫くして、いっぺんに盛り付ける伝票が4枚以下になったところで、チエ、
「ハナちゃん、私、そろそろ、洗い場と昼食の仕込みに入るから、Aセットもお願い。 あと、手隙で返却棚の食器を洗い場に運んでね」
そして、厨房奥へ。
 ハナの作業内容は変わったが、リズムは崩れない。変わらずリズムに乗って、AセットとBセットを交互に盛り付け、盛り付けるべき伝票が無くなってからプリンターから新しく伝票が出てくるまでの合間に、返却棚を片付ける。
 丁度、ハナが返却棚の片付けをしているところへ、トレーを返しに来た30代後半くらいの男性が、笑顔で、
「ごちそーさまー」
 ハナは嬉しくなり、社食の仕事が好きになりそうだと思った。
                             

SHINOBI~キリ・セキュリティ株式会社身辺警備部隠密警護班~ (14)


               *

(ん……? このコード番号……)
Bセットを3つ、新たに盛り付け終え、掲示板のボタンを操作しようと、うち1枚の伝票のコード番号を見たハナは、その数字の並びに見覚えがあった。
 そして その番号を表示後、カウンターに受け取りに現れたのは、
「よぉ、ハナ! 頑張ってるか? 」
サスケだった。
 あ、やっぱり、と、心の中で呟いてから、ハナ、
「師匠! おはようございますっ! もちろん頑張ってますよー! 」
元気に朝のご挨拶。
 サスケ、ハナの もちろん頑張ってます、との答えに、そうかそうか、と 満足げに頷いてから、カウンターの上に身を乗り出し、声をひそめて、
「ハナ、さっき、社食が開いたばっかの頃、交通誘導警備部の立岩さんに、何か言われてただろ? 」
(立岩さん……? …ああ、さっき、出すのが遅いとか、ゴハンに私のフケとか入ってるかもとか、あと、師匠についての嫌味っぽい言い方をした人かな……? )
「オレ、あの人 苦手でさ、ハナに絡んでるとこにオレが行ったら、もっと何か言われるんじゃねえかと思って、本当は、社食が開いて すぐくらいに一度 来たんだけど、一旦 部屋に戻って、あの人がいなくなる頃を見計らって来てみたんだ」
(立岩さんて人? 師匠本人にも、ああいう言い方するのかな? )
「何言われたか知らねえけど、あんま 気にすんな? 」
「はい! 全然 気にしてないですっ! 」
「……」
サスケ、暫し無言。ポリポリと頭を掻き、
「……やっぱ、ちょっとだけ気にしてみるか? 」
「はい! そうですねっ! 反省点もあるしっ! 」
 サスケ、大きな大きな溜息を1つ吐いてから、
「ああ、そうだ、ハナ。オレ、今日・明日は一日中仕事だけど、明後日は午後から 体 空くから、修行な」

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            * 4 *


(…そっかぁ、もうすぐクリスマスかぁ……)
ハナは、1人でジョギングしている途中、買物のためカトーナノカドーに寄ろうとして、その西側入口横のショーウィンドウに飾られている家庭用サイズのクリスマスツリーに目が留まった。 そういえば、さっき通った駅前繁華街も、真っ昼間なためか点灯しておらず印象に残っていなかったが、街路樹に小さな電気の球のついたコードが巻きついていたような気がする。
 ナノカドーの入口を入ると、2階まで吹き抜けとなっているフロア中央に巨大なクリスマスツリー、天井からサンタクロースやトナカイ、雪ダルマ、その他キラキラした飾りなどが ぶら下がり、BGMはジングルベル、と、クリスマスムード一色。 日曜日なため家族連れやカップルで賑わう中を、ハナは3階の文具売場へ。
 社食でバイトを始めてから、今日で丸1ヵ月。一昨日は、初めての給料日だった。 生まれて初めて自分で稼いだ金なので大切に使いたいと考え、いつも世話になっているサスケとツキへのプレゼントを買おうと思いついたのだった。 身につける物や常に目に触れるような場所に置く物では趣味が分からないため、普段は どこかに仕舞っておける、しかも場所もとらない実用的な物ということで、ボールペンにしようと決めていた。

(どれにしよ……)
文具売場レジ横のショーケースに並べられたボールペンを、1本1本、サスケやツキを思い浮かべながら丁寧に見ていくハナ。
(あ、何か、これなんてツキさんっぽい……)
目に留まったのは、パールがかった白色の軸の細身のノック式ボールペン。軸の上部に紺色の三日月の模様が入っている。
(うん、ツキさんのは、これにしよう! )
ツキのが決まると、サスケのは早かった。 ツキ用にと選んだボールペンの隣の隣に並べられた、一見 濃い灰色、よく見ると迷彩柄の、ツキと同じ形のボールペン。
(うん、師匠には これがいいな)
と、そのすぐ隣のボールペンに目が留まる。
(あ、カワイイ……)
それは、サスケやツキの物と同じ形で、軸が光沢の無い薄ピンク、その上部に灰色の ごく簡単な花の模様が入っている物。
(自分用に買おっと)

 店員に言って、選んだ3本のボールペンをショーケースから出してもらい、サスケ用とツキ用はラッピングをしてもらって、ジャージのポケットに裸の状態で突っ込んであった紙幣で会計を済ませたハナは、エスカレーターで一階まで降りた。
 すると どこからか、いい匂いがしてき、カランカランと鐘が鳴った。 その方向を見ると、そこはパン屋で、恰幅のいい 少し汚れた白衣姿の男性が、大声を張り上げる。
「三種のチーズパン、焼き上がりましたー! 」
(へえ……三種のチーズパンか……)
ハナは 壁の時計を確認し、
(もう1時半か。 お弁当屋さん、帰っちゃったかも……。帰ってなかったとしても、多分、あんまりいいの、残ってないよね……)
昼食用に買っていこう、と、ハナはパン屋へ。
 トレーとトングを手に、パン屋内を回る。 たった今 パン屋の男性が大声で叫んでいた、焼きたて、の札の出ている 三種のチーズパンは、上にサイの目カットのオレンジ色がかったチーズがトッピングされた 手のひらに載るサイズの丸いパンで、説明書きに、中にはトロットロのエレメンタルチーズとグリュイエルチーズ、と書かれている。 焼きたて、と、トロットロに惹かれて 2つ取ってトレーに載せ、
(あとは……)
何か甘いものも食べたいと、ガトーショコラを載せた。
 何だか、とても楽しい。とても、充実感。
(何でだろ……)
さっきから、このナノカドーで、ハナは楽しい時間を過ごしていたが、それは1ヵ月前の自分では考えられないことだったと気づき、首を傾げる。
(どうして 私、平気なんだろ……)
ナノカドーという場所自体がそうだし、周りが家族連れだらけという状況も。
(いつの間に、平気になったんだろ……)
1ヵ月前の自分ならば、買物の場所にナノカドーなど、きっと選ばなかった。 ここ1ヵ月の出来事を振り返ってみても、平気になった理由など思い当たらない。ここ1ヵ月間……サスケに師事して修行に汗を流し、社食で働き、空いた時間は自主トレに励み……それだけだ。それ以前とは生活そのものが全く違うのは、それはそうだが、だからと言って、特別なことは何もない。
(…っていうか……あれっ? )
何故、何のために修行をしているのかという疑問さえある。もちろん、憶えている。復讐のためだ。復讐のため、藤堂の家に忍び込めるように……憶えているが、何だか、どうでもよくなってきている気がする。復讐したい気持ちが かなり薄らいできているような気がする。修行は一生懸命取り組んでいるが、ただ単純に楽しくて、うまくいった時に褒められるのが嬉しくて……そんな感じだ。
 ハナを見る不審そうな表情のパン屋の店員が目の端に映っていたが、考えるのを やめられず、ハナは考え続け、やがて、
(ま、いっか)
という結論に達した。何故、いつから、ナノカドーが平気になったのか、復讐したい気持ちが薄らいだのか、全く分からないが、それが 今のハナだから。理由だとか いつからだとか、あまり意味が無いと考えたのだ。
(あ、でも……)
ふと、難題が浮かび上がった。
(私、出てかなきゃいけない……? )
復讐したいからという理由で弟子にしてもらった以上、それをしないのであれば、もう、弟子ではいられない。それは当然、サスケと離れて寮を出て行くことを意味する。今後の身の振り方を、考えなければならない。
(他のトコでバイトして独立して生活、って、難しいのかな……? このままツキさんの部屋にいさせてもらって、社食のバイトを続けさせてもらえたらいいのに……)
 

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               * 5 *


 社食の仕事の開始時間に合わせて起床し、いつものジャージに着替え、洗面所で洗顔して髪を梳かしてから、出掛ける前に水を飲んで行こうと、ハナ、遠慮がちに仕切りカーテンをめくり、ツキのスペース側へ入る。 と、明かりのついている炊事スペースののれんの隙間から、今日を含め残すところ九日分となった壁に掛けられたカレンダーに 何やら記入しているツキの後ろ姿が見えた。その手には、ハナがプレゼントしたボールペン。
 ハナ、嬉しくなり、
「おはようございます、ツキさん! ありがとうございます! ボールペン、使ってくださってるんですねっ! 」
のれんをめくり上げながら、声をかける。
 ツキはハナを振り返り、同時、表情を険しくした。
(あ、私、何か いけなかった……? )
不安になるハナ。
「ハナ、オレも使ってるぜ! 」
背後からの突然の声に、ハナは軽くビクッ。振り返ると、社食のエプロンをし 白いタオルを捩じりハチマキにしたサスケが、ハナのプレゼントしたボールペンを挟んだ右耳の上辺りを指さして立っていた。
 ツキ、大きく溜息をつく。
「また お前は、人の部屋に勝手に……」
ツキの険しい表情の原因は、それだったのだ。
(…よかった、私じゃなかった……)
ハナ、ホッとし、
「師匠! おはようございますっ! 」
「おうっ! 」
「師匠! すっごく男らしくてステキなんですけど、どうしたんですかっ? その格好っ! 」
「ああ、これか? 今日って、クリスマスイブイブだろ? 社食の夕食時って、クリスマスパーティじゃん? オレ、毎年、その仕込み 手伝ってんのよ。 チエさんとハナは昼食後からだけど、オレは朝から始めるからさ」

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               *

(…どうしよう……)
ナノカドーの食品売場、生クリーム等の乳製品売場の前で、ハナは途方に暮れた。 昼食後に始めたクリスマスパーティの準備中、生クリームを買い忘れていたことに気づいたサスケに頼まれ、買いに来たのだが、売場に見当たらず、店員に確認したところ、まさかの売り切れ。
(他に、生クリーム 売ってるトコって……)
考えたが、自宅アパート近くの商店しか思い浮かばない。
(行きたくないな……)
会社を辞めさせられて以降、引っ越しで前のマンションから現在のアパートへ移動する時以外、ハナの知る限り全く外に出なかった父だが、今、父は独り暮らしなのだ。近くの商店にぐらいフラフラッと買物にでも出て来て、鉢合わせるかもしれない。
(でも、ケーキ食べたいし……。買って帰らないと師匠に怒られるだろうし……。仕方ない)
会わないように気をつけて行こう、と、決心し、ハナは、西側入口からナノカドーを出た。

 市民通りと交わる線路沿いの道を、ハナは自宅方向へ。この道を通るのは、本当に久し振り。家を出た日以来だ。 商店は、自宅アパートを少し通り過ぎた所にある。アパートが近くなるにつれ、ハナの足は重くなっていった。


(……? )
自宅アパートの前に パトカーと救急車が停まっており、自宅の玄関が開け放たれ、2階へと続く階段の上り口に通せんぼするように立つ2人の警察官の前に人垣が出来ている。
(…何……? )
ハナの胸の底のほうが、低く、ドクン、と鳴った。何となく その場を離れることが出来ず、人垣の最後列で見守る。
 ややして、その開け放たれた玄関から、担架が救急隊員に運ばれて出て来た。
 警察によって分けられた人垣の間を通って救急車に向かう担架。担架に掛けられた毛布が、人の形に膨らんでいる。頭から爪先までスッポリと毛布に覆われ、誰だか分からない。
(誰……? )
 救急車は、担架と救急隊員を乗せ、走り出した。静かに、サイレンを鳴らさず、赤い回転灯も点けず、自宅アパート前の道路を、標識通り 時速30キロほどの速度で、ハナが来た方向とは逆の方向へ。
 自宅玄関から運ばれて出て来たのが誰なのか、何があったのか……。かなり高い確率で、ハナは無関係ではない。

 ザワザワ騒ぐ胸を抱え、ハナは、救急車を追って走り出す。
 救急車は、すぐの角を左折。追ってハナが曲がった時には、その先でT字にぶつかる銀杏街道へ右折で出て行くべく、右にウインカーを出して停まっているところだった。
 ハナ、急いで追いつき、救急車の脇をすり抜けて追い越し、先に右に曲がって、時々 後ろを向いて救急車を確認しつつ先を走る。救急車が どこの病院へ向かっているか分からず、いつどこで また曲がるか予想できないが、銀杏街道は50キロ道路であるため、何故か一般の交通ルールに従って走行しているものと思われるとは言え、まともに走り出されては、少しでもリードしておかないと ついて行ける自信が無いのだ。
 救急車が銀杏街道に出た。相変わらずサイレンを鳴らさず、回転灯も点けず、標識に則って50キロ。一般車輌の流れに乗って走ってくる。
 ハナは頑張って走るが、やはり途中で追い抜かれ、差をつけられ、しかし、救急車が赤信号で止められている間に追いつき、追い越し、リードし、それでもまた 青信号になると抜かれ、差をつけられ……の、繰り返し。


 銀杏街道に出てから12・3キロほど走った頃だろうか、救急車が左にウインカーを出し、車が2台すれ違えるくらいの広い門を入って行く。
(…警察……っ? )
そこは、警察署だった。
(どうして警察なの……? 病院じゃないの……? )
 門を入った救急車は、警察署の駐車場内を徐行し、駐車場隅の、白く塗られたコンクリート壁の小さな建物の前に着けた。
 ハナは、駐車場に停まっている一般の車などの陰に隠れながら移動、最終的には 救急車が着けた白い建物のすぐ横の植え込みに身を隠し、様子を窺った。
 建物の、軽そうな金属製の銀色のドアの横に、白衣姿の男性が1人、立っている。
 救急車の後ろのドアが開き、車内へ運び込まれた時の担架ではなく、今度はストレッチャーに乗せられて、全身をスッポリと毛布で覆われた人が運び出された。
 白衣の男性が建物のドアを開け、救急隊員がストレッチャーを動かして中へ入り、それに付き添う形で 白衣の男性も中へ。
 ちょっともしないうちに、救急隊員と、中身が空になったらしいペタンコになった毛布を載せたストレッチャーだけが出て来、ドアが閉まった。
 救急車が、救急隊員とストレッチャーを乗せ、静かに去って行く。
 辺りは静まり返った。銀杏街道からの車の音と、警察署のメインの入口付近の人の声が、遠くに聞こえるだけ。
 騒ぎ続ける胸。ハナは、どうしよう、と、頭を巡らす。 建物の中の様子を知りたい。人が中にいることは明らかなのだが、建物の中からは、頑張って耳を澄ませても、物音も人の声も聞こえてこなかった。植え込みの陰からでは、もう、何の情報も得られないと思った。
 と、その時、救急車が行ってしまってから ものの数分か、先程の白衣の男性が1人で建物の中から出て来、ドアを閉め、鍵をかけて、メイン入口方向へ去って行った。
(外から わざわざ鍵をかけるってことは、中から鍵をかけれる人がいない? )
つまり、今、建物の中には、たった今 救急車で運ばれて来た人と、他にいたとしても 同じように 自分では身動き出来ない人だけということだと判断し、ハナ、辺りに注意を払いつつ植え込みの陰から出、建物に近づく。
 ドアの、ハナの目線より少し上の位置に、「検視室」と書かれたプレートが貼ってあった。
(検視室……? って、何だろ……? )
 ハナは、さっき男性が鍵をかけているのを見たが、間違って開いてくれないかと、ドアノブを回しながら そっと引いてみるが、
(……やっぱダメか)
ドアは、引っ張られたことで揺れるだけ。
 ハナは諦め、建物側面へ回る。正面から見た場合の右側面・左側面、いずれにも窓があったが、鍵が掛かっていた上、磨りガラスで中が全く見えない。残るは、裏。 裏手には、やはり磨りガラスの、横に細長い窓が、背伸びをして腕を伸ばし ようやく指の掛かるくらいの高い位置にあった。
 ハナは、一縷の望みを託し、片手を伸ばして指先に力を込めてみる。
(開いたっ! )
何と、鍵が掛かっていなかった。
 音をたてないよう、そうっと、ゆっくりと、窓を 開くところまで開けるハナ。そして、一旦、伸ばした手を引っ込め、膝を曲げることで反動をつけてジャンプ。開けた窓の枠に両手のひらをついて体を持ち上げ、そこに上る。
 修行の成果か そんなことを易々とやってのけられた自分に少々驚きつつ、窓枠から見下ろした その建物内部は、12畳ほどの1つの部屋になっていた。コンクリートむき出しの床や壁や天井。日が当たっていないため薄暗く、室温は、真冬の外気よりも更に冷たい。 壁に寄せて、ファイルの並ぶ書棚と薬品と思しき瓶の並ぶガラス戸棚、それから何かの機械数個が置かれており、部屋中央に 幅の狭いベッドが3つ、人と人とが擦れ違える程度の隙間をあけて並べられ、うち真ん中の1つだけに 白いシーツが掛けられて、そのシーツの中に人が寝ていると思われる膨らみがある。
 ハナの足下には流し台。ステンレス製で弱そうなため、へこませないよう気を遣って、静かに その上に下りる。 薬品の臭いと腐敗臭が鼻をつくが、腐ったものが実際に そこにあるというより、部屋全体に染み付いた臭いといった感じだ。
 ハナは、3つ並んだベッドのうち、シーツが掛けられている真ん中のベッドに歩み寄った。 自宅から運び出された人は、救急車で この建物に運ばれ、出てきていない。この建物に、他に部屋は無い。例えばハナが自宅から運び出される人を見るよりも前に 一緒の救急車の中に別の人が既に運ばれて車内にいて、ハナの見た自宅から運び出された人は ここでは救急車から降ろされていない、とかでない限り、真ん中のベッドの膨らみが、自宅から運び出された人で間違いない。
 シーツをめくろうとハナは手を伸ばすが、たった20センチ先のシーツに、手が届かない。 ハナは、震えていた。怖いのだ。シーツの中の人が、生きている気がしなくて。生きている人間の頭から 毛布やシーツを掛けるなどありえない気がして……。  怖い。それでも、何故か確認せずにはいられない。 手の震えを どうにか抑え、恐る恐るシーツをめくった。 瞬間、
(……! )
ハナは、頭のてっぺんから爪先まで、スウッと冷たくなっていく感覚を覚えた。一瞬、呼吸を忘れた。
(…お、父さ…ん……)
 そこに横たわっていたのは、父だった。 驚きとは多分違う。騒ぐ胸の奥で、無意識のうちに そうではないかと感じていたのかもしれない。 
 部屋が薄暗いせいか青白く見える、しかし、ハナが嫌っていた諸々の要素の抜けきった、穏やかで綺麗な顔。ハナの大好きだった頃の、仕事で疲れて帰って来た後の寝顔そのもの。
 …確かめたくない……。 だったら確かめたりしなきゃいい……そう思うのに、何故か、本当に何故だか、吸い寄せられるように、呼吸を確かめるべく、手が父の鼻に伸びる。
(……)
分からない。 手で分からないなら頬でと、父に覆い被さるようになって、頬を鼻先に寄せる。父の鼻先が微かに頬に触れた。
(っ? )
その鼻先は驚くほど冷たくて……。呼吸も、自分の息を どんなに凝らしてみても、感じとることが出来なかった。
(…嘘、だよ……)
ハナは、必死で探す。
(違うっ! )
探す。…何を……? …父が生きている証拠を……。 シーツの中から 以前より重さを増したように感じられる父の手を引っ張り出し、手首の動脈に指を置く。頚動脈に指で触れる。更に大きくシーツをめくって シャツの胸をはだけさせ、心臓があると思われる位置にピタッと耳をくっつける。鼓動が、全く感じられない。
(……嘘だ! )
先程から、ハナが あちらこちら散々いじくりまわしているにもかかわらず、父は何の反応も示さない。
(お父さんっ! )
ハナは堪らず、父の はだけた胸に両手をつき、強く揺さぶった。
「……。……! ……っ! 」
お父さん。お父さん! お父さんっ! と呼びかけたつもりだったが、声にならなかった。
 父を起こそうと、揺さぶり続けるハナ。 しかし、父は横たわったまま微動だにしない。ただ 冷え切った固ゆで卵の表面のような感触だけが、父の胸に触れている指先から伝わる。
 入口のほうで、カチャッと音が鳴った。 ビクッとし、ハナは、弾かれたように身を起こす。
 入口のドアが、ごく普通に開いた。
 ビクッ、に弾かれた勢いで、ハナ、入口を入って来ようとしている人の脇を姿勢を低くして摺り抜け、外に飛び出し、銀杏街道に面する門まで いっきに駆け抜ける。
 門まで来たところで勢いが弱まり、徐々にスピードが落ちて、自然な形で立ち止まったハナは、ドクンドクンいっている胸を押さえながら、後ろを振り返った。誰も追ってきていない。
 大きく息を吐いたところへ、ポツンと落ちてきた雫に頬を濡らされ、ハナは空を仰ぐ。
 雨だ。雨が、降ってきた。


 頭の奥が、靄がかかったようにボーッとしている。そして、少しのイライラ。何を思うわけでもない。頭の中に、ただ、ずっと、先程 警察署の検視室とかいう部屋で見た、父の綺麗な寝顔があるだけ。 ボンヤリと実際に目に映っているのは、キリ・セキュリティに向かって動く、自分の足。だが、曖昧だった。頭の中に浮かんでいるものと、実際に見えているもの。何となく区別がつくだけで、ハッキリしない。しかし、どうでもよかった。
「ハナ」
名を呼ばれ、顔を上げると、そこは社食の厨房入口で、目の前に、サスケが腰に手を当て仁王立ちしていた。
 どこをどう帰って来たのか、全く憶えが無い。 右手の重さに気づき、見れば、サスケから頼まれた生クリームが、自宅アパート近くの商店のレジ袋に入って ぶら下がっている。警察からの帰り道で買ったらしい。…やはり、全然憶えていないが……。
「おっせーよ。生クリーム買って来るのに 何時間かかってんだ。 それに、ズブ濡れじゃねーの。カサ持ってけって言っただろ? …まったく、オレの言うこと聞かねーから……」
言いながら、サスケは 自分の頭のハチマキ状のタオルを取って、バサッとハナの頭に被せ、両手で力強くガショガショと拭く。
 ハナの頭は、まだボーッとしていた。
「で? 生クリームは? 」
サスケの言葉は聞こえている。が、聞こえているだけ。頭を介さず、言葉に直接 体が反応している感覚で、ハナは、右手のレジ袋をサスケの顔の前まで持ち上げた。
 サスケ、受け取り、
「おお、サンキュ。……あれ? ナノカドーじゃねえの? だから時間かかってたのか」
 返してハナ、やはりボンヤリと、そのボンヤリに自覚はあったが、特にどうにかしようと思わないまま、
「ナノカドー、売り切れだったので……。私、他に 生クリーム売ってるトコ、私の家の近くのお店しか知らないので、行きました。…そしたら、私の家の前にパトカーと救急車が停まってて……。玄関から、誰かが頭から毛布を被されて担架で運ばれて出て来て、救急車に乗せられて行ってしまったので、追いかけました。…そしたら、救急車が警察署に入って行って……。救急車で運ばれた人、検視室って建物の中に移されて……。結局、運ばれたのが誰なのか分からないままだったので、運ばれて来た人以外の人が誰もいなくなるのを待ってから、忍び込みました……。そうして、その運ばれて来た人の顔を見たら、私の、お父さんで……」
 そこまで話したところで、サスケが、ハナから受け取ったばかりの生クリームを、レジ袋ごと床に落とした。
(あ、生クリームが……)
ハナが 相変わらずボーッとしながらも、床に転がった生クリームに気を取られた瞬間、
「ハナ! 」
突然、サスケがハナの頭を自分の胸へと引き寄せた。そして、強く強く、抱きしめる。
「もういい! それ以上、言わなくていい! …辛いことを話させて、悪かった……!」
(…辛い……? )
ハナは首を傾げた。 ハナは、話していて、別に辛くなどなかった。生クリームを買いに出掛けてから帰って来るまでの出来事を、ほとんど頭は介さず 言葉で再生するだけの行為が、辛いはずない。
 ただボンヤリとサスケの胸に体を預けていて、ハナは、
(……? 師匠、震えてる……? )
サスケが小刻みに震えていることに気づいた。
(寒いの……? …私は あったかいけど、師匠の体温で……。 あったかい……。師匠、あったかい……)
その時、耳の奥か後頭部かで、キン、と、高い音が鳴った気がした。頭の中にかかった靄が、急速に晴れていく。
(…さっき会った お父さんの体は、冷たかった……。師匠は、温かい……。…その、違いは……)
「……あああっ! 」
ハナは、叫ばずにいられなかった。 さっき、冷たく動かない父の体に触れた。人が来てしまったために、納得いくまで確かめられなかった。しかし今、サスケの温かい体に包まれ、その呼吸と鼓動を感じて比較し、納得するに足る材料が揃ってしまった。いや、本当は分かっていたのかも知れない。認めたくなかっただけで……。靄は、頭の奥で既に認識してしまった事実を覆い隠すための自己防衛だったのだ、おそらく。それが どういった加減か晴れてしまい、認めざるをえなくなった。父の、死を……。
「あああああああああああああああああっ! 」
脳ミソも腸も体液も、体の中の ありとあらゆるものが皮膚を突き破って大爆発を起こしそうな感じがした。
「ハナ! ハナっ! 」
サスケが、爆発を必死で抑えようとしているように、更に強く強く、ハナを抱きしめる。


 爆発の危機は、どうやら回避できた。
 ハナは、静かにサスケに寄り掛かり、震える横隔膜で 深く長い呼吸を繰り返す。肌が、高熱を出した時のように ピリピリ敏感になっている。頭がクラクラする。
 サスケは腕を緩め、体を離して ハナの目を覗き、
「今は、とてもじゃねえけど、働いたり、パーティとかって気分じゃないだろ? 部屋で休んでるといい。 料理は、後で ちゃんと、全種類、部屋に運んでやるから。ケーキも、大きめにカットしたやつを持ってってやるよ。オレのケーキはメチャクチャ美味いぜ?」
ちょっと悲しげに見えるくらい優しく笑む。
(…ヤダ……)
ハナ、サスケのエプロンをキュッと掴まえ、サスケを仰いで首を横に振る。
(1人に、なりたくない……)
口を開くが、言葉が出てくるまでに数秒を要した。
「…大、丈夫、です……。大丈夫、です。大、丈夫ですっ! 」
やっと それだけ言って、思いっきり笑みを作る。 
(笑わなくちゃ! メソメソしてたら、嫌われちゃうしっ! )
一度 笑顔を作ったら、落ち着けた気がした。
「取り乱してしまって、すみませんでしたっ! 」
言葉も、スラスラ出てくる。
 サスケは、一瞬 驚いたような表情を見せてから、更に悲しみの度合いを強めた、もう ほとんど泣いているようにしか見えない優しい笑みを浮かべて頷き、ハナの頭を手のひらでポンポンッとやって、
「んじゃあ、とりあえず部屋に行って、風呂入って温まって、乾いた服に着替えて来い。 そのままじゃ、風邪ひくから」

SHINOBI~キリ・セキュリティ株式会社身辺警備部隠密警護班~ (18)


               *


 サスケの言いつけどおり、一度 ツキの部屋に戻って風呂に入り、替えのジャージに着替えて、ハナが社食に戻ると、既に、食堂のテーブルに料理が並び始めていた。
 パーティは7時開始。時計を見れば、6時45分。 料理をカウンターからテーブルへ運んでいるのは、サスケやチエではなく、チラホラと集まり始めたパーティの参加者たち。自主的に手伝ってくれているのだった。
 参加者は寮で暮らしている人たちが中心で、今年の参加者数は82名。座席数の関係で、120名を越える年は立食形式にするらしいが、今年は少ないため、参加者それぞれに席を用意してある。
 自主的に手伝ってくれている人たちの中に、ツキもいた。 料理の載った皿を いっぺんに4枚も持って歩いているツキを、ハナは、器用だな、と感心しつつ、カウンターまで行き、厨房のサスケとチエに、
「すみませんっ! 結局 何も お役に立てなくってっ! 」
カウンター越しに声を掛ける。
 チエ、フライドポテトを皿に盛り付けながらハナを振り返り、
「うん、大丈夫大丈夫! じゃあ、ハナちゃんは、グラスを各席に1個ずつ置いてきてくれる? 」
言って、カウンター隅に グラスが24個入るグラスラックが4つ積み重なっているのを指さした。
 ハナ、はい、と返事し、ラックを1つ持ち上げ、テーブルのほうへ。 窓側の列の端から順に、と思い、行くと、他の参加者たちが積極的に手伝い、動いている中で、早々と席に陣取り テレビを見、楽しげに喋っている一団がいた。立岩と、立岩と似たような年頃似たような風貌の男性3人だった。
 彼らのテーブルにグラスを置こうとし、彼らの見ていたテレビ画面に何の気なく目をやって、
(! )
ハナは固まった。 そこに、ハナの自宅アパートが映っていたからだ。そして、音声が伝える。
「今日 午後2時頃、このアパートに住む、無職・雪村史朗さんが、自室で死亡しているのを、訪ねてきた知人男性が発見しました。 第一発見者である知人男性や近所に住む方々から話を聞いたところ、雪村さんは、勤めていた会社を3ヵ月ほど前にリストラされ、妻と高校生の娘と共に こちらのアパートに引っ越して来ましたが、ここ1ヵ月ほどは妻子の姿を見かけないとのことでした。 遺書などは見つかっておりませんが、会社をリストラされたことや家族との関係を苦にした自殺ではないかと見られています」
映像が切り替わり、スタジオの ベテランの女性キャスター、
「ご家族が傍にいれば、このようなことにはならなかったのではないでしょうか。支えになるべき時に、妻や娘はどこへ行ってしまったのでしょう」
サラリとコメントを付け加えた。
「次です」
キャスターの言葉で テレビはすぐに次のニュースに移ったが、ハナの頭からは、キャスターのコメントが こびりついて離れなかった。
(……私のせいなの? 世間は、そう見るの? 『べき』って何? 私が家を出たのは自分を守るためだけど、自分を守っちゃ、いけないの? )
 と、その時、
「今のニュースの自殺のあったアパートってさあ、ここのすぐ近くだら? 」
立岩の声が、ハナを、キャスターのコメントばかりがグルグル回る世界から引き戻す。
 ハッとし、グラスを置く続きを始めたハナ、ハナをチラッと見た立岩と目が合った。
 一緒にいる男性3人に言っているにしては大きな声で、
「雪村、って、わりと珍しい苗字だらあ? 」
立岩は続け、再び、ハナをチラッ。
「高校生の娘が どっかに行っちまったってよお」
三たび、ハナをチラッ。
「最悪だら、親父を見捨てるなんてさあ。 育ててもらった恩も忘れてさあ」
 ハナの胸か頭の奥で、シャボン玉がはじける感覚があった。 直後、
「ハナっ! 」
サスケの声。グイッと右の二の腕を掴まれ、視界にサスケの顔が割り込む。
(師匠……? )
そして、サスケの顔が半分を占めている視界の残り半分に、口と鼻から血を流し 黄色い白目をむいて床に転がる立岩が映った。 
(痛……)
右手に軽く痛みを感じ、見れば、いつの間にか拳を握っていた右手の、指のつけ根の関節の外側の皮膚が擦り剥けている。
(どうして……)
周囲を見回すと、パーティの他の参加者たちが、ハナに対して、驚きや怯えといった感じの視線を向けていた。
 何が起こったのか全く分からないハナ。だが、状況から察するに、
(私が、やった……? )
 サスケが、もう一度 グッとハナの二の腕を掴み直し、しっかりとハナの視界中央に入り込んでハナを見据え、静かな口調で、
「ハナ。 残念だけど、立岩さんたちじゃ 4人まとまってだって、ハナの相手は務まらねえ。 暴れてぇなら オレが相手してやるから、表に出ろ」
 ハナは、サスケが怒っているのを感じ、ビクッ。
 ハナが立岩を あんな状態にするのに使ったのは、他に知らないため、おそらく、キリ護身術。その中に含まれる、数少ない攻撃性の高い動きだろう。 キリ護身術とは、キリ・セキュリティ株式会社の警備員のために考案された護身術で、実際の事件・事故での事例や教訓を基に、独自に体系を作成し、訓練をしながら内容の改良を重ねているもの。年に1回大会もあり、種目は、警棒(特殊警棒含む)・警杖・徒手。ハナは、復讐に行って返り討ちに遭う危険性もあるため、徒手での護身術を サスケから教わっていた。
 身を守るために良かれと思って教えてくれたものを 喧嘩に使っては、怒って当然かも知れない。
「出ろっ! 」
声を荒げて、サスケは 掴んだハナの二の腕を持ち上げるように引っ張り、寮側の出入口へと歩き出す。
(怒ってる! どうしようっ! )
突然 引っ張られたことでヨロけて2・3歩分進んでから、ハナ、足を踏ん張って踏みとどまろうと、抵抗した。
「待て、サスケ」
ハナの二の腕を掴んでいるサスケの手の上に、フッと、色の白い綺麗な手が優しく載る。
「外は雨だ」
ツキの手だった。
 サスケは一旦 立ち止まり、進行方向を向いたまま、低く、
「関係ねえよ」
言って、強引に、再び歩を進める。
(どうしよう! どうしようっ! )
パニック状態が生む、方向性の間違った集中力。ハナは、キリ護身術の基本に従い、自分の腕を掴むサスケの手の指先方向に 腕を勢いよく動かし、サスケの手を振り払った。
 サスケが足を止め、ハナを振り返る。
 そのサスケの表情に、ハナ、
(あ……)
マズイ、と思った。余計に怒らせてしまった、と。 
 サスケの右肩が微かに動いた。 気づいて、ハナ、反射的にスウェーバック。
 ほぼ同時、サスケの右手のひらが、ハナの鼻先を掠めて 大きく空を切った。
 ハナ、その隙をつき、素早く体勢を立て直して、サスケの脇を体を低くして走り抜け、寮のほうへ。
「ハナァッ! 」
背後から、少し距離がある サスケの怒鳴り声。
(どうしよう! どうしようっ! )
もう、何が何だか分からない。寮の玄関で靴を履かずに手で持って、ハナは、外へ飛び出した。


 ガシャガシャと音をたてて激しく降り頻る雨の中を闇雲に走り、ハナは、
(っ! )
駅前の繁華街で派手に転んだ。クリスマスのイルミネーションが、雨に煙る。
(…クリスマス、なのにね……)
怒っているサスケから離れたことで パニック状態を脱した心は、惨めで、悲しかった。
 サスケの所には、もう帰れないと思った。「特権を使って例外的にサスケちゃんが採用したアルバイトだから、この先のハナちゃんの仕事ぶりが、直接 サスケちゃんへの周りからの評価に関わってくるはずだから」とのチエの言葉を思い出す。 仕事の出来不出来とは無関係だが、それより まだ悪い。暴力沙汰なんて、すごく迷惑をかけたに決まっているし、きっと許してもらえない。
 ハナは立ち上がるも、この後どうしていいか分からず、どこへ行っていいか分からず、その場に、ただ力無く立ち尽くした。
(…殴られとけばよかった……。なんで、逃げちゃったんだろ……。師匠の気の済むまで殴られるだけ殴られたら、もしかしたら、その後には許されて、師匠のトコにいられたかも知れないのに……)
冷たい雨が頭と肩を打ち、涙のように ほんのり温まっては、全身を伝い流れる。
(…帰りたい……。帰りたいよ、師匠のトコに……。殴られても、蹴られても、投げられても、踏まれてもいいから……。…今更、遅いけど……)
 その時、急に、ハナを中心に半径30センチほどの場所だけ、雨が止んだ。
(? )
不思議に思って、ハナが頭上を見上げると、そこには、上品なクリーム色の女性用のカサ。
「あなた、風邪をひくわ」
背後からの声に振り返ると、憐れみの表情を浮かべた 気品ある年配の女性。カサは、女性がハナに差し傾けていたのだった。 女性の斜め後ろには、カチッとした服装ながら小洒落た雰囲気を持つ 女性と同じ年頃の男性がおり、女性が濡れないよう 自分のカサに入れていた。
 女性はハナの右手を取り、半ば強引にカサを持たせてから、今度は左手を取り、何かを握らせ、握らせたハナの手の上から、自分の手でギュッと包み、更に固く握らせて、
「これで、何か温かい物でも お上がんなさい」
悲しみの混ざった感じの静かな笑みを浮かべてから、ハナに背を向け、男性と共に、近くのレストランに入って行った。
 女性が あまりにも たて続けに喋り、動くので、ハナは、「えっ」とか「あのっ」くらいしか言葉を挟む余地が無く、カサと、左手に握らされた何かを手にしたまま、呆然と 2人の背中を見送ってしまい、ややして、ハッと我に返って、左手の何かを確認する。 その感触から、紙のようなものだとは分かっていたが、手を開いて見ると、千円札だった。
(今の私、知らない人から施しを受けちゃうくらい、可哀想なふうに見えてるんだ……)
 いつものハナならば、そんなのはプライドが許さないし、ショックだったろう。しかし、今のハナは、
(…そうかも……)
自分で納得してしまった。
(ホントに、これからどうしよう……)
これから どうしていいか分からない、帰るトコも無い。……そういえば、1ヵ月ちょっと前にも、全く同じことを思ったな、と、思い出した。そして、あの時は、今と同じこと思った後、どうしたんだっけ……? と。
(そっか、藤堂の家へ行ったんだ……。復讐しに……。 …藤堂の所……。…いいかも知れない……)
あの時には藤堂の所まで辿り着くことすら出来なかったが、今は違う、と、それなりに自信がある。
(今度こそ、絶対に成功させて……。成功させて? それから? …全部、終わりにしよう……! )
 ハナは、女性から渡されたカサを閉じ、閉じた中に千円札を入れて、クルクルと巻き、ボタンを留め、キチンとした形にしてから、女性が男性と共に入って行ったレストランの入口外側のカサ立てに置いた。

 目標が出来、力を得て、ハナは歩き出す。藤堂宅へ……終わりへ、向かって……。
 身が、キュッと引き締まる。鼓動が、痛いくらいに強く、速い。


 藤堂宅の、藤堂が普段 生活している離れに近い、正門から向かって右側面の外塀前に立ち、ハナは、鼓動を静めるべく 深呼吸を繰り返した。 以前 忍び込もうとした時と同じで入口は開いていないかも知れないと思い、それならばと、今のハナにとっては この塀の高さは特に苦にならないため、入口を確認することはせず、初めから 塀を乗り越えて侵入することにしたのだった。
 鼓動が落ち着いた。 ハナは数歩下がって軽く助走をし、踏み切ってジャンプ。塀の上に手のひらをつき、跳躍の勢いと少しの腕の力で塀の上に上がる。そして そこから、1・5メートルほど向こうの 離れの1階部分の屋根に向かって跳び、難なく着地成功……したが、
(っ! )
着地した瞬間、雨で濡れているせいで足を滑らせ、塀と離れの間に落ちた。
 運悪く、そこにセンサーがあったらしく、ピンポン、ピンポン、ピンポン、と、大音量の電子音。ハナは急いで立ち上がろうとするが、足を傷めたようで、どちらの足も 地面に足裏部分をつけただけで痛み、動けない。
 鳴り続ける電子音。
(どうしよう! )
気持ちは焦るが、どうにも動けないハナ。 歯を食いしばって痛みを堪え、もう一度、立ち上がろうと挑戦するが、足に上手く力が入らなかった。
 ややして、雨音に消され気味の複数の足音と人の声と、雨でかすんだ懐中電灯らしき光が3つ、正面から近づいて来るのが見えた。
 光は どんどん近づいて来、
(どうしようっ! )
ついに、
「誰だっ! 」
ハナを照らし出した。
(もう、ダメっ! )
 その時、塀側から、ハナの目の前に黒い影が差し、ハナの体がフワッと宙に浮いた。 影はハナをさらい、塀を越え、敷地外へ。 そして、ハアーッと大きく息を吐き、
「危なかったなあ」
 影の正体は、サスケだった。
(…師匠……! )
驚くハナ。
 サスケは目を優しくして ハナを見つめ、
「さて、帰るか。 今日は足場が悪すぎる。また今度にしとけ」
言って、ハナを抱いたまま歩き出す。
(…師匠……、迷惑、かけちゃったのに……。助けに……迎えに、来てくれた……)
鼻の奥がツンとなり、涙が溢れた。胸が締めつけられて苦しくて、ハナは、サスケの首にしがみく。
「…師匠、ゴメ……なさい……。ゴメン、なさい……」
 サスケ、宥めるように ハナの背を優しくトントンとやりながら、
「ハナは、もう1ヵ月以上もオレの下で修行した。しかも、オレでさえ驚くほどの素質もある。まだまだだけど、立派な歩く凶器になりつつあるんだ。その辺、自覚しないとな」
「はい、すみません……」
 ハナの返事に頷き返し、もう一度 背をトントン。 それから、急に何かを思い出したように、あっ、と声を上げ、
「そうだ、ツキにTELしなきゃな」
ハナを片腕で支え、ポケットからケータイを出して、操作。 耳に当て、
「あ、もしもしー? ツキィー? ハナ、見つかったよ。今から帰るからさ、ツキも戻って。 ……うん。じゃあなっ」


 サスケが寮の玄関を開けると、
「ハナ! 」
ツキが、すぐのところに立っていた。ツキは、少し震えながら、サスケの腕の中のハナに手を伸ばし、ハナの頬を両手のひらで包んで顔を近づけ、震える声で、
「顔を、よく見せてくれ……」
その目には、うっすらと涙が滲んでいる。
 サスケが、軽く両膝を曲げ、ハナの位置を低くした。
 ツキは、頬の両手をハナの後頭部に移動させ、頭を引き寄せる。
「無事で、よかった……。もう二度と、会えないのかと思った……」
(ツキさん……)
ハナの胸が、また、締めつけられた。 と、ツキの向こう、管理人室の窓の中のシュンジイと目が合う。
 シュンジイは、いつもハナが外から帰って来た時に「お帰り」と言ってくれるのと同じ笑顔で、ニコッと笑った。

 

SHINOBI~キリ・セキュリティ株式会社身辺警備部隠密警護班~ (19)


            * 6 *


 暖色系の柔らかな光に包まれた部屋の中、クリスマスツリーのてっぺんに星を飾りたくて、両腕を上げ、背伸びをし、ピョンピョン跳ねるハナ。そのハナの両腋を、背後から大きな大きな手が掴み、クリスマスツリーのてっぺんに手が届く高さまで、ヒョイッと持ち上げた。 ハナは てっぺんに星を飾り、大満足で、自分を持ち上げてくれている大きな手の主を振り返る。と、そこにいたのは、この上なく優しい笑みを浮かべた父だった。
(……っ! )
そこまでで、目の前がパッと切り替わる。薄暗い部屋、見慣れた天井……。ツキの部屋だ。ハナは今、布団で横になっている。
(…夢、か……)
ハナは、片手で目を覆い、大きく息を吐いた。 ……辛い。 夢に見るのも思い出されるのも、何故か、父の 良い姿ばかり。
「人は死んだら、皆、仏さんになる」と、以前、テレビか何か そういったものの中で、誰かが言っていた気がするが、それは、こういうことだったのかな、と思う。 父は、良いところばかりではなかったはず……どころか、父の人生の終わりのほうは、ハナは、父を嫌いだったはず。それなのに、嫌だったことが全く思い出せないから。 亡くなった人は、生きている人の心の中で、良い人=仏さんになるという意味だったのでは、と。
 父の嫌だったところを思い出したい。嫌だったところを思い出して、家を出なければ自分を守れなかったのだと、自分を肯定したい。大切にしてもらったのに、愛してもらったのに、大好きだったのに、そんな父に対して自分は……では、辛すぎる。
 
 ハナは、枕元に手を伸ばし、手探りで体温計を取って、腋の下に入れた。 パーティの日に雨に濡れたせいか、高熱を出し、もう2日間ほど寝込んでいる。色々と考えてしまって よくは眠れず、やっと うとうととしては、今のような夢を見て目が覚め、その夢のせいで また色々考えて眠れず……の繰り返し。寝たきりでは発散する方法も無い。 傷めた足は、ここ2日間 トイレの時しか歩かなかったおかげか、腫れがだいぶひき、何時間か前にトイレに行った時には、足を普通について歩いても 全く痛くなかった。
 ピピピッと、体温計の電子音。 今は まだ朝5時半。部屋の中が薄暗くて見えにくいが、ツキがカーテンの向こうで眠っているため、電気はつけず、目を凝らして、表示された体温を確認。36・8度。
(熱、下がってるっ! )
 足のほうは、医者から、5日間は無理をしないよう言われているが、熱も下がったことだし、足を使わない運動なら やってもいいだろうと考え、トレーニング棟にある スポーツジムにあるような様々なトレーニングマシンの中から、足を使わないものを選んで使おうと思い、出来るだけ音をたてないよう気を配りつつジャージに着替え、部屋を出、やはり音をたてないよう そーっとドアを閉めた。

「コラッ! 」
背後からの突然の声に、ハナ、ビクッとして振り返る。
 サスケだった。仕事から帰って来たところらしい。茶色がかった緑色のブルゾンに、同色のニッカーボッカーズ、ブルゾンの中には黒のハイネック、という、警備員というよりは鳶職のようなSHINOBIの制服を着、鎖入り手袋をした手に 地下足袋をぶら下げている。
 サスケ、ニヤッと笑い、
「ビックリした? 」
「あっ、師匠! お帰りなさいっ! お疲れ様でっす! 」
「こんな時間に そんな格好して、どこ行くんだ? 熱は下がったのか? 」
「はい! 下がりましたっ! トレーニング棟に行ってきまっす! 足を使わない運動なら、いいですよねっ? 」
 サスケは、大きな溜息をハナの語尾に被せ、
「却下」
それから、徐にツキの部屋のドアノブに手を伸ばして開けながら、
「熱 下がったって言ったって、オレが出掛ける夜7時半頃には、まだ38度近くあっただろ? せめて、社食の仕事が始まる時間までは大人しくしとけ。それで 社食の仕事をやってみて、まともにこなせるようだったら、その後、足を使わない運動なら していいから」
言って、ハナの背を押し、部屋の中へ押し込んで、
「んじゃ、オレ、寝るから。おやすみ」
ドアを閉めた。
(…そんなこと言われたって……)
途方に暮れるハナ。
(社食の仕事が始まるまで、まだあと1時間くらいあるんだけど……)
このまま部屋で1時間も 何もしないでジッとして過ごすなど、絶対に無理だと、色々考えてしまって頭がおかしくなりそうだと、思った。
(…どうしようか……)
ちょっと考え、
(そっか! )
ハナは気がつく。
(別に、師匠に見つからなきゃいいんだ! )
 耳を澄ませ、ドアの向こうの様子を探るハナ。 廊下は、とても静かだ。
(もう、師匠、部屋に入ったよね? )
そっと、ドアを細く開けてみる。
(……! )
その隙間から、サスケの顔が ヌッと覗いた。
 サスケ、首を横に振りながら溜息。
「ハナの考えることなんざ、全部お見通しなんだよ。諦めろ」
 ハナは、また途方に暮れかけるが、ちょっと前の その時より、更に簡単に気づき、
「はい! すみませんでした! 諦めますっ! 」
と謝り、ドアを閉め、すぐさま回れ右で、ベランダへ向かう。
(出口は1つじゃないしっ)
 ベランダ側の窓を開け、ベランダに出、手摺に掴まって下を覗いた。
(足への負担が大きいかな……? あ、でも、普通に飛び降りないで、手摺の根元に ぶら下がってから手を放せば……)
 考えている最中、ハナは、何となく誰かに見られているような感じがし、その気配のする方向、サスケの部屋のベランダ方向を見、
(っ! )
固まった。 サスケの部屋のベランダとの仕切りに、サスケが腕組みをして寄りかかっていたのだった。
「お見通しだって、言っただろ? 」
言って、サスケは仕切りから身を起こし、面倒くさそうにバリバリと頭を掻きながら、
「まったく……。オレ、疲れてて、早く寝てえんだよ。世話を焼かせんな」
(…そうだよね。お仕事から帰って来たとこだし……)
と、ハナは反省。
「すみませんっ! 今度こそ本当に諦めましたっ! 安心して お休み下さいっ! 」
頭を下げる。
 サスケ、よし、と頷いて、手摺をはみ出しながら、仕切りの外側を自分の部屋のほうへ。
 ハナは、
(…仕方ない……)
さすがに 本当に諦め、部屋に入り、ツキを起こさないよう気を遣いつつ、腹筋を始めた。

SHINOBI~キリ・セキュリティ株式会社身辺警備部隠密警護班~ (20)


              *

 ようやく迎えた 朝6時45分。
「おはようございまーすっ! 」
ハナは、挨拶しながら社食の厨房のドアを開ける。
 チエがピタッと動きを止め、驚いたようにハナを見、
「ハナちゃん! もう大丈夫なのっ? 」
「はい! ご心配をおかけしましたっ! 熱はもう下がりましたし、足も、普通に歩くくらいなら大丈夫ですっ! 」

 たった2日、間が空いただけなのに、何だか久し振りな気がした。仕事を忘れていそうだと心配しながら、いつもどおり、ハナは、掃除を始める。 すると、何もしないでいると つい考えてしまう色々が、頭から離れていった。

 7時を回り、いつものようにサーマルプリンターから連続して何枚も伝票が出て来、人がゾロゾロと食堂に入って来て、席につく。
 スタート時にハナが担当するBセットの今日のメニューは、白飯・のりの佃煮・豆腐の味噌汁・サバ正油干し・和風ドレッシングをかけたサラダ。食器に盛り付け トレーに並べ、カウンターに出して、コード番号を押した。
 先頭で受け取りに来たのは、立岩。
(あ……)
口元のアザが痛々しい。
 素直に詫びようと口を開きかけたハナだったが、それより先に、立岩、
「あんた、暴力事件 起こしたくせに、まだいたのか。さすがは、オボッチャマのお雇いになったバイトだら。 せめてオボッチャマが責任持ってキチンと折檻でもしてくれりゃあいいのにさあ、何か、聞いた話だと、オボッチャマがあんたを皆の前で殴ろうとしたけど 結局殴らず仕舞いだら? あんたの そのアザも傷も無い顔を見る限りじゃ、皆の見てない所で殴られたとかも無さそうじゃあ。 まったく、ろくに躾も出来ねえのに、人なんて雇ってんじゃねえよなあ」
言って、黄色く濁った目で 上目遣いにハナを見、口元だけでイヤラシく笑った。
「それに、あんた自身もさあ、ついさっき、チエさん相手に笑ってたら? 親父が死んでも全然平気か。 親父さんも気の毒にな。ただの金ヅルだったってワケだ。会社に捨てられた時が家族に捨てられる時……切ないねえ。 葬式とか、どうなってんの? 」
そこまで言って、
「……っとお」
わざとらしく片手で口を覆い、
「あんまり本当のことばっか言ってると、また殴られかねねえからなあ。くわばらくわばら」
最後にもう一度 イヤラシい口元を見せてから、トレーを持ち、席へ戻って行く。
 その背中に、ハナ、
「立岩さん! 本当に、すみませんでしたっ! どうぞ お大事になさって下さい! 」
声を掛けた。
 立岩は、後ろ姿のまま首を傾げる。
 ハナは落ち込んだ。 何もしないでいると つい考えてしまう色々が、頭の中に戻ってきたわけではない。単純に、立岩の言葉に対して落ち込んだ。立岩の言葉は、言い方こそ嫌な感じだが、内容は、いちいちもっともだと、立岩の言っていることが、世間の正直な見方なのだと思えるから。立岩自身も言っていたように、本当のことだと思えるから。
 しかし、社食の仕事に落ち込んでいる暇は無い。
(…とりあえず……)
他のことは置いておいて、簡単に片付きそうな、立岩に暴力をふるったことについての罰だけは、
(後で師匠に話してみよう)
そう結論を出して、仕事に集中することにした。

SHINOBI~キリ・セキュリティ株式会社身辺警備部隠密警護班~ (21)


               *

「師匠! 私に罰を下さいっ! 」
出し抜けだったのか、ハナの言葉に、サスケ、
「は? 何をくれって? 」
万年床の上に片手を支えに寝転がり、ハナに背を向け テレビを見たまま、聞き返す。
 ハナは、朝の仕事と昼の仕事の合間の空き時間をトレーニング棟のマシンで汗を流して過ごし、昼の仕事の終了後、サスケの部屋を訪ねていた。サスケが社食に昼食を食べに来たことで、起きたのだと知ってのことだ。
 カーテンを閉めきった薄暗い中、サスケの背後に正座して姿勢を正し、ハナは繰り返す。
「罰です! 立岩さんに暴力をふるった罰! 師匠、私を お仕置きして下さいっ! 」
 サスケ、かったるそうに身を起こし、ハナの正面を向いて あぐらを掻いて座り、大きな溜息。
「……ハナ。男の部屋に来て、しかも、その部屋は薄暗くて布団まで敷いてあって、それで『お仕置き』とか言ってると、何か、イヤ~ラシイ意味に聞こえちゃうぜ? 」
(っ? )
ハナ、驚き、急いで謝る。
「すみませんっ! イヤラシかったですかっ? 」
 サスケ、自分の額から目にかけてを片手のひらで覆い、首を横に振りながら、また溜息。
「…いや、分かんないならいい……。ただ、下手に他の男のとこで言うな? 」
「? はいっ! 」
 ハナの返事に、サスケは もう1つ溜息を吐いてから、
「で? 何? 立岩さんのことでの罰? 」
「はいっ! 」
 サスケは、ちょっと呆れ気味。
「だってハナ、ハナが立岩さんをぶっ飛ばした時、オレが、2・3発ひっぱたいてやろうと思って外に連れ出そうとしたら、手ぇ振り払ったじゃん。そんで仕方なく その場で張り倒そうとしたら、避けて逃げただろ? 」
 ハナ、確かにそうだったと、大急ぎで頭を下げる。
「すっすみませんっ! 今度は逃げませんからっ! お願いしますっ! 思いきり2・3発 やっちゃってくださいっ! 」
そして顔を上げ、歯を食いしばり、目をギュッと瞑って、サスケの鉄拳が飛んでくるのを待った。
 しかし、なかなか来ない。恐る恐る、目を開けて見るハナ。
 その時、サスケの手が、スッとハナに向かって伸びた。 ハナは思わずビクッとしたが、サスケの手は、ハナの頭の上にポンッと優しく載る。
「誰かに、何か言われたのか? ん? 」
サスケは優しい表情でハナの目の奥を覗き込み、ハナが、立岩さんに、と答えると、何か想像つくなあ、と笑った。
「立岩さんの言うとおりなんです! 立岩さんに怪我させといて、私が何もおとがめ無しって、何かズル……イ」
ハナの話の途中で、サスケは、ハナの頭の上に置いたままだった手で、ハナの髪を 少し強めにクシャクシャっと掻き混ぜ、ハナの言葉を遮った。
「ハナは もう、ちゃんと罰を受けてるよ。与えたのはオレじゃないけど」
(罰を、受けてる……? )
 ハナの無言の問いに、サスケ、頷き、
「藤堂の屋敷に忍び込んで下手こいて見つかって怖い思いしただろ? で、その時の怪我で 今もまだ思いきり運動出来ないでいるだろ? それ、辛いだろ? 反省も ちゃんとしてるし」
 ハナ、頷く。 そう、今、好きなように体を動かせないのが 本当に辛い。もともとは、それほど特別運動が好きというワケではなく、本を読んだり音楽を聴いたりして静かに過ごすのも好きなのだが、今は、本当に今だけは、まともに運動出来ないのが辛い。色々と、考えてしまうから……。 社食の仕事をしている間だけは完全に忘れていられるが、仕事の時間は限られている。それ以外の時間に一番気を紛らわせてくれるのは、きっと運動なのに、と、足を使わない運動をしながら思っていた。足を使わない運動では、全身を使う運動に比べて どうしても軽くて、頭の隅がモヤモヤしてくる。例えば、腹筋の回数を数えている最中でも、いつの間にか数えるのをやめ、色々考えてしまっていたりする。
「辛いんなら、それが罰ってことでいいんじゃねーの? 」
言って、サスケはもう一度、ハナの頭をクシャッと掻き混ぜた。
 ハナは納得。
「そっか! そうですねっ! 」
しかし、ふと 立岩の顔が過ぎり、でも、それじゃあ立岩さんは納得しないかも、と思って、サスケに言うと、サスケ、
「いやー、立岩さんは、オレやハナが何をしたって、どうせ気に入らないだろ。大体、オレがハナをひっぱたこうとしたのは、別に立岩さんのためじゃなくて、ハナのためだし。 それにさ、ハナ、あんまり立岩さんの言うこと、気にしないほうがいいぜ? 例えば、オレがハナをひっぱたこうとした時に ハナが逃げたことだって、立岩さんは気に入らなかったみたいだけど、他の連中は、ホッとしたヤツのほうが多かっただろうし」
(そう、だったんだ……)
ハナ、ちょっと驚き、
(…私、思い違いをしてた……。師匠が私を殴ろうとしたのは、私に迷惑を掛けられて腹を立てたからだと思ってたけど、私のため……? それって、立岩さんの言うところの『躾』……? だったら、立岩さんに言わせたって、本当は、師匠は ちゃんとした師匠だってことになるはずだよね? やっぱり、立岩さんが師匠のこと嫌いだから、悪いようにしか見えないのかな……? 大体、師匠が私を殴ろうとした時って、立岩さん、自分の目で見てないんだよね……。他のコトもそうかも! 立岩さんが実際に自分の目や耳で見たり聞いたりしたものなんて、ごく一部や偏った一面で、あとは想像や他人から聞いた話なんだ! だから、立岩さんの話って、本当っぽいけど、必ずしもじゃないんだっ! )
今度こそ、本当に納得した。
 「ハナ、話は変わるけどさ」
サスケが急に真顔になり、ちょっと言い難そうに切り出す。
「復讐、やめない? 」
(っ! )
瞬間、ハナの頭の中に強い光が閃き、今も隅っこのほうで考えてしまっていた色々と その周辺に立ちこめる靄を一掃した。
(……そっか! 復讐っ! )
「一昨日あたり、どうやら脅迫状めいたものが届いたとかで、あの屋敷、かなり警備が厳重になったらしいぜ? 今のハナのレベルじゃ、無理な感じみたいだ。 復讐をやめるとなると修行もいらなくなるけど、行くとこ無いなら、このままここにいて社食のバイト続けりゃいいし、部屋も 空き次第ハナに回してもらえることになってるから」
 サスケの話を遠くに聞きながら、ハナ、たった今見えた希望の光に胸が高鳴る。
(どうして気づかなかったんだろう、ずっと目指してたことなのに! 復讐は、自分を肯定することになる! 復讐しなければ治まらないほど辛かったんだっていう証明になる!  だから家を出たんだって、肯定できる! そうすれば、苦しいのから解放されるっ! )
足が治ったら早速行こう、と決めた。
 そこへサスケが、
「な? 」
 ハナは、自分がサスケの話を途中から全く聞いていなかったことに気づき、何が、「な? 」なのか分からないまま、急いで、
「あ、は、はいっ! 」
返事をした。

 

SHINOBI~キリ・セキュリティ株式会社身辺警備部隠密警護班~ (22)


             * 7 *


 運動を禁止されてから5日が経った。
 昼食の仕事後に行った病院で、もう普通に運動して良いと医者からの許可が下りた、その帰り道、ハナは、久々にジョギングをする。
 足を使わない運動は、暇さえあればやっていた。足のほうも、運動はしないものの普通に歩いて、しゃがんで、背伸びして、くらいは していたため、ブランクと言うほどのブランクがあった感じではない。信号待ちでジャンプもしてみる。特に問題は無いようだ。
(うん! 今日 行こうっ! )
そう決めたら、足は爪先から手は指の先まで、思いきり動かしてもらうのが待ちどおしそうに、熱く、ムズムズし始めた。 逆に頭は、スウッと静かに冴え渡る。
 復讐に向かうのは夜遅くと、前々から決めていた。 昼間では人目につきやすいし、それ以前に 藤堂がどこにいるのか、その日によるため分からない。まだ父が働いていた頃、藤堂と共に仕事であちらこちらに出掛けていたのを話に聞いていた。今だって きっと、他の人を連れて同じように出掛けている。夜遅くならば、人目にもつきにくいし、寝室で寝ていることが多いだろう。以前 病気を見舞ったことがあるため、藤堂の寝室も知っている。いざ行った時に寝室にいなかったとしても、寝室で待っていれば そのうち来る。泊まりで出掛けているなどして 待っていても来ない場合もあるかも知れないが、そうしたら、夜明けギリギリまで待って帰り、また出直すだけだ。

SHINOBI~キリ・セキュリティ株式会社身辺警備部隠密警護班~ (23)


                * 

 ツキの部屋に戻ったハナは、カーテンで仕切られた自分のスペースを整理整頓した。
(藤堂のトコに行ったら、復讐が成功しなかった場合以外は、多分 もう、ここには戻らない……)
そう思うと、何だか名残り惜しい。
 ここに来てから1ヵ月半ちょっと。随分と濃い時間を過ごした気がする。
(もう、師匠にも、ツキさんにも、チエさんにも、シュンジイさんにも、会えないんだ)
そう考えると、やはり寂しい。
 しかし、自分を肯定出来ないまま、自分を責め続けながら生きているのは、もう限界のように思えた。

 すべき箇所の少ない整理整頓を ごく短時間で終え、次にハナは、部屋の隅に置いておいたナノカドーの袋を手に取る。 
 中身は、昨日 買い求めたばかりの黒のスエット上下とスニーカー。 クリスマスパーティの日の夜、ハナは何の考えも無しに キリ・セキュリティのジャージとスニーカーのままで藤堂の所へ行ってしまったが、靄の一掃された頭で考えた時、それは不味かったのだと気づいたのだった。
 袋からスエット上下とスニーカーを取り出して値札を取り、代わりに、ハンガーに掛けて窓辺のカーテンレールに吊るしたままだった学校の制服と、借りた物買い与えられた物以外の数少ない私物を、ツキの部屋に置きっ放しでは処分に困るだろうと考え、藤堂宅に向かう際に持ち出せるよう入れていた。
 その時、部屋のドアが開き、サスケが、
「ハナ、医者、何て言ってた? 」
言いながら入って来て、
「事務方の若い奴らが 正月休みにスキーに行くんでさ、社食も休みだろ? ハナも一緒にどうかって言ってるんだけど……って」
制服等の袋詰めの最中のハナを見、
「何、やってんだ? 」
 ハナ、名残惜しさと寂しさで、一瞬 言葉に詰まる。これを言えば、もう本当に ここでの生活は終わりになる、と。だが、迷いは無い。二度と会うことが無いであろうサスケの顔を しっかりと目に焼きつけようと、真っ直ぐに見つめ、
「師匠、今まで お世話になりました! 本当は、後でキチンと お部屋に ご挨拶に伺うつもりでいたんですけど、私、今夜、藤堂のトコへ行きますっ! 」
 唖然とした表情のサスケ、暫しの沈黙の後、口を開く。
「…あ、のさ……、ハナ。オレ、いまいち話が掴めないんだけど……。藤堂のトコに行くって、復讐に? 」
 他に何があるんだろう、と首を傾げつつ、ハナ、
「はい! そうですっ! 」
 サスケは一生懸命 頭を働かせながら、といった感じで、一語一語、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「…オレ、ハナに、復讐やめないかって、話したよな……? 」
 ハナ、頷く。 確かに聞いた。 その時の、サスケから発せられた復讐という単語によって、ハナは、復讐で自分を肯定出来ることに気づき、足が治ったら早速行こうと決めたのだ。
 ハナが頷いたのを確認したように頷いてから、サスケ、続ける。
「藤堂の屋敷は警備が厳重になってて、ハナじゃ無理なレベルになってるらしいから、復讐はやめて、でも、行く所が無いから社食でバイト続けて ここで暮らすってことに、なったはずだよな? 」
(……そうだっけ? )
 ハナの心の中での、そうだっけ? が聞こえたらしく、サスケ、
「…もしかして その時、話、ちゃんと聞いてなかったのか? ハナ、はっきりと返事してたぜ? 」
軽く責めるような口調。
 ハナ、話を途中から全く聞いていなかった憶えも、何だか全く分からないことに対してはっきり返事をした憶えも、しっかりあり、大急ぎで頭を下げる。
「す、すみません! 上の空でした! 何だか分からなかったけど、師匠から『な?』って言われたので、返事をしてしまいましたっ! 」
 サスケ、大きな大きな溜息をひとつ。それから、
「じゃあ、今から改めて言う」
ハナの目の奥を覗き、
「藤堂の屋敷は、今、厳重な警備体制が敷かれてるって話だ。今のハナのレベルじゃ、藤堂の所まで辿り着けないくらいのな。その状況は、おそらく当分の間変わらない。だから、復讐は諦めろ」
(復讐、諦めろって……)
ハナは途方に暮れた。 せっかく、自分を肯定出来る方法を見つけたのに。苦しみから解放されると思ったのに、と。
「分かった? 」
ハナの目の更に奥深くに踏み込みながらのサスケの問いに、ハナは答えられない。
 サスケは繰り返す。
「ハナ、分かった? 返事は? 」
 ハナ、サスケと目を合わせていられず、顔を背け、
「すみません! 師匠! 諦められませんっ! 私は……」
 その言葉を遮るように、サスケは厳しい口調で、
「返事は『はい』だ。ハナ」
 あまりに高圧的な物言いに驚き、ハナは、サスケを振り仰ぐ。サスケの弟子になってから初めて、サスケに反感を持った。
「私、もう限界です! 復讐して、自分を肯定できないと……! 」
 サスケ、再びハナの言葉を遮り、
「それ、意味分かんねーよ。人を殺して、犯罪を犯して自分を肯定って。 大体、何か、復讐の目的が変わってきてないか? 」
 今度はハナがサスケの語尾に被せ、
「そう言う師匠だって! 復讐に賛成してくれてるから、弟子にしてくれたんじゃないんですかっ? それを今になって諦めろなんて! 今の私のレベルじゃ無理だって言うなら、もっと私を鍛えて下さい! もっと厳しい修行をお願いしますっ! 」
 サスケは声のトーンを低くし、目に力を込め、脅す感じ。
「血ヘド吐いて地べた這いずり回るハメになるぜ? 」
 ハナ、
「構いませんっ! 」
即答。
 サスケはフッと目の力を緩め、小さく息を吐いてから、一転、穏やかな口調、いつもどおりのトーンで、
「オレはさ、正直なところ白状しちまうと、初めから、復讐に賛成なんてしてなかった。 ハナを弟子にしたのは、『変わったヤツだな、面白そうだから傍に置いてみるか』って思ったからで、復讐とか物騒なこと言ってるけど、修行や社食のバイトで汗流して、オレやツキ、シュンジイさんやチエさんと関わりながら普通に生活してるうちに、復讐なんて考えなくなるんじゃないかって、勝手に思ってた」
そこまでで一旦、言葉を切り、深く深く溜息。
「…甘かったよ……」
 ハナは また、サスケから目を逸らす。 サスケの考えは当たっていた。復讐なんて ほとんど考えていない時期が、確かにあった。
(…でも、今は……)
「ハナはさ、オレのこと、嫌い? 」
(っ? )
唐突な質問に驚いて、ハナはサスケを見、首を横に振りながら、俯く。 嫌いなワケない。
「そっか……。オレも、ハナが嫌いじゃない。 一緒に過ごすうちに、家族みたいに大切に思うようになった」
(師匠……。知ってる。大切にしてくれてること。ちゃんと、伝わってくるから……)
「だから、初めは復讐に賛成してないって程度だったけど、今じゃ、大反対だ。復讐がハナにとって良いことだって、全然思えねえから。 ってなワケで、復讐が目的なら、もう、修行もしてやれない。悪いな」
(私のほうこそ、ゴメンなさい……。言うこと、聞けなくて……)
「……なあ、ハナ。ハナが直接ハナを肯定出来なくても、オレが肯定してるハナを肯定することなら出来ないか? 」
 サスケの視線を感じながら、俯き 目を逸らしたまま、黙りこみ続けるハナ。
「……やめようぜ? 復讐」
 沈黙が流れる。

 ややして、
「……行く気だな? 」
サスケが静かに口を開いた。
「どんだけ言っても、無駄か……」
そして、大きく大きく息を吐く。
(…ゴメンなさい……)
と、俯いているために極端に狭くなっているハナの視界の隅に、スッと、サスケの足が入り込んで来、ハナは、ハッと顔を上げた。 直後、
「っ! 」
サスケの拳が、みぞおちに めり込んだ。 視界が暗転する。


SHINOBI~キリ・セキュリティ株式会社身辺警備部隠密警護班~ (24)


                *


(…ここは……)
ハナは、辺りの様子が何となく分かる程度の暗がりにいた。仰向けに転がっており、目の前に、見慣れたツキの部屋の天井と全く同じものが見える。 しかし、ツキの部屋ではない。同じなのは天井だけで、周囲が違う。体の下には湿気を帯びた敷布団。そのすぐ横には、コタツ。
(…師匠の、お部屋……)
みぞおちに残る鈍い痛み。
(…そっか、私、師匠に お腹を殴られて、その後、目の前が真っ暗になって……。師匠に、運ばれてきたのかな……? そうだよね、だって、他にいない)
 口元に違和感。口にピッタリと何かが貼りつき、口を塞いでいるのだ。どうりで、息苦しいと思った。
 剥がそうと、何故か不自然に ずっと背中の下に敷いていた両腕を動かそうとする。が、
(っ? )
動かない。後ろ手に縛られていた。そして、足も。足首のあたりで縛られている。
 目だけで辺りを見回し、状況を確認する。静かだ。サスケの姿は無い。 時計を見れば、
(8時っ? )
もう、夕食の仕事の時間だ。……と言うか、既に受付時間は終了し、片付けも、2人作業時であれば、ぼちぼち終わろうという頃だ。
(どうしよう……)
突然休んだりしてしまって、チエさん困っただろうな……と、心配になる。チエが1人で社食の仕事をする時もあるが、初めから1人でやるつもりなのと、2人でやるつもりでいて突然休まれるのとでは、全然違うはずだ。
 とにかく起き上がって社食へ行き チエさんに謝らなければ、と、ハナは両膝を曲げて腹のほうへ引き寄せ、膝で勢いをつけて横に転がり、身を捩って、斜め座りの形に起き上がった。
 そうして起き上がった際に見えた足首は、布テープでグルグル巻きにされており、感触からして、手を縛っているのも口に貼られているのも同じテープ。
 ハナは、起き上がったままの斜め座りから正座、正座の状態で足の指を足下の布団の上に しっかりとつけ、反動をつけて立ち上がると、グルグル巻きにされたままの足で、ピョンピョン跳んでドアへ向かった。
 ドアには鍵が掛かっていたため、ドアに背を向ける格好で、自由になっている手の指先を使い 開けようとする。が、届かない。
 そこへ、コンコンッ。 外側からドアをノックされ、ハナは、ビクッ。
 ノックに続き、
「サスケ、いるか? 」
ツキの声。
(ツキさん! )
「チエさんから、ハナの体調が悪いから夕食の仕事は休ませるって、サスケが言っていたと聞いたんだが、部屋に戻ってみたら、ハナ、いないんだ。ここにいるのか? 」
(チエさんには、師匠が言ってくれてあったんだ……。じゃあ、チエさん 困らなかったよね、よかった……)
ハナは安心して落ち着いてしまいそうになるが、
(……じゃないっ!  今 ここから出してもらえないと、師匠が戻ってくるまで出られなくて……って言うか、戻って来ても 出してくれるか分かんないけど、出してくれるにしても くれないにしても、師匠が戻って来ちゃったら、藤堂のトコに行けなくなることに、多分、変わりはない。 手足縛って口塞いで閉じ込めて、なんて仕打ちから、師匠が私を行かせまいとする本気度が窺い知れるからっ! )
そう考え、ツキさん! ツキさんっ! と、大声で呼ぶ。 しかし、テープで塞がれた口から実際に出る声は、
「んー! んーっ! 」
しかも、あまり大きくない。
 それでも、
「サスケ? 」
ドアの向こうから、ツキの反応があった。
 反応があったことで力を得、違いますっ! ハナですっ!  そう叫ぶも、やはり音としては、
「んごんんんっ! んんんっ! 」
何を言っているかまでは分かってもらえなくても、ただ事ではない雰囲気だけでも伝わってくれれば、と、祈るような気持ちのハナ。 
 返ってきたのは、
「……ハナ? ハナなのか? どうかしたのか? 」
ツキの怪訝な声。
 期待以上の伝わり方に、ハナは、もうひと頑張りだ、と思った。
 ドアノブが静かに回り、ドア全体が揺れる。
「ハナ、鍵を開けてくれ」
  開けれないんです! 手が届かなくてっ! 
「んんんんんんんん! んごんんごごんんっ! 」
「……開けれないのか? 待っていろ、すぐにシュンジイさんから マスターキーを借りてきてやる」
その言葉を残して、ドアの向こうからツキの気配がなくなった。
(…よかった……。伝わったみたい……)
ホッとするハナ。

 その場で腰を下ろしてツキを待つこと数分、
「ハナ、鍵は貸し出し出来ない決まりだそうだから、シュンジイさんに来てもらった」
ドアの向こうでツキの声。続いて、
「ハナちゃん、今 開けるからね」
シュンジイの声。
 直後、カチャッと 鍵の開く明るい音。
「ハナ! 」
ツキの声と共にドアが開き、サアッと廊下からの光が射した。廊下は実際には それほど明るくないはずなのだが、ずっと暗い中にいたハナには、とても明るく感じられたのだ。
(ツキさん! シュンジイさん! )
ハナは本当に嬉しくなりながら、光の中に立つ2人を見上げた。
 そんなハナの視線の先で、ツキは目を見開き、
「ハナ……」
掠れた声で呟いたきり、絶句。シュンジイも、酷く驚いた様子で固まった。
 と、すぐ次の瞬間、ツキがハッと我に返った様子を見せたかと思うと、突然ハナに飛びつく。
(っ! )
驚くハナ。ほぼ同時、ベリッ! ツキが、ハナの口のテープを いっきに剥がした。
「……っ! 」
痛みに、ハナは涙目。
「……っ痛っいです! ツキさんっ……! 」
言葉が出てくるまでに十数秒かかった。
「あ、悪い……」
呟くように言ってから、ツキは、ハナの背後に回って膝をつき、ハナを後ろ手に縛っているテープを剥がしにかかる。
「一体、どうしたんだ? 何があった? 」
 ハナは返答に困った。シュンジイは確か、ハナについて、サスケから、少なくてもハナの前では、知り合いの子で ちょっと面倒をみることになって、としか聞かされていないため、縛られて閉じ込められるに至った経緯をシュンジイの前で話してよいものかどうか、判断に迷ったのだった。話す過程で、もしかしたら、サスケとツキ以外に聞かれてはまずいキーワードなんかを知らずに言ってしまったりするかもしれない、と。 
 俯き、黙り込んでしまうハナ。
 自分がいては話しづらいのだという空気を察したか、シュンジイ、
「それじゃあ、私は下に仕事を残してきてしまっているので一度戻ります。この部屋に また鍵を掛けるときになったら呼んで」
と言い置いて、去って行く。
 その背中に、ツキ、
「ありがとうございました」
 ハナも急いで続く。
「あっ、ありがとうございましたっ! 」
 シュンジイ、一度 足を止め、振り返って、ニコッと笑って頷き、階段方向へと姿を消した。
 遠ざかって行く シュンジイの足音。
 ツキ、ハナの手のテープを剥がし終え、立ち上がりながら、
「ほら、取れたぞ」
 ハナ、ありがとうございますを言い、自由になった手で、足のグルグル巻きを剥がしていく。
 ツキ、ハナの正面に回り、再び体勢を低くして ハナと目の高さを合わせ、小声で、
「それで、何があったんだ? 」
 ハナ、足から取り去ったテープを手の中で丸めつつ、
「…足が治ったので、私、今夜 藤堂の所に行くって決めて、師匠に そう言ったら、藤堂の家が 私じゃ無理なくらい警備が厳重になっているからとかで大反対されて、今は やめとくとかじゃなく、復讐そのものを諦めるよう言われたんです。 それでも行こうと考えてるのを見抜かれて、お腹殴られて気を失っちゃって……。気づいたら 口塞がれて手足縛られた状態で、もう傍に師匠はいなくて、師匠と話していた時は まだ夕方だったはずなのに、もう夜8時とかになってたんです」
 ツキ、小さく息を吐き、
「大反対と言ったって、やることが異常だ。どうかしてるな、アイツ……」
独り言のように言ってから、ハナを気遣うように見て、
「それで、ハナ。体は大丈夫か? 何ともないのか? 」
「はい! 手がずっと 体の下敷きになっていたので、まだちょっと痺れてますけど、大丈夫ですっ! 」
 そうか、それなら良かった、と、頷いてから、ツキ、
「結局、ハナは どうするつもりだ? ここまで強く反対されて……。やめるのか? 復讐」
 ハナは、驚いて首を横に振る。やめようなんて考えは、全く浮かんでいなかった。
 ツキ、頷き、
「そうだな。あたしも、やめないほうがいいと思う。 ……ハナ、久し振りだったんじゃないか? 正確には気絶だが、こんなに、夕方からだから3・4時間くらいか? まとめて眠ったの。じっとしていると、色々考えてしまって辛いんだろう? 熱が下がって以降、ハナが じっとしてるところを見たことが無い。夜も、全然寝てないだろ? 」
 ハナはハッとし、
(静かにしてるつもりだったけど……! )
「すみませんっ! うるさかったですかっ? 」
急いで謝る。
 ツキ、小さく笑みを作り、
「あたしは、いい。気にするな。ふと目が覚めた時なんかに、ああ また起きてるのか、って、何となく思うくらいで、ちゃんと眠れているから。 ……それより、ハナが心配なんだ。寝ないし、おそらく ろくに食べてもいない。それでいて、動いてばかりいる。これじゃあ、体が参ってしまう。心だって……心は、既にズタボロか。これ以上の崩壊はマズイから、させないために、体を動かしているのだろうから」
(心は、ズタボロ……? )
そんなふうに見えていたのか、と、ハナはショック。
(落ち込んでるのとかって みっともないから、一生懸命普通に明るくしてるつもりだったのに……)
 ツキは、探るようにハナの目の奥を覗く。
「ハナ。確認しておきたいんだが、お前は以前、藤堂への復讐を果たしたら 自分も死ぬようなことを言っていたな? この先 どうしていいか分からないし、帰るところも無いから、と。……今も、その気持ちは変わらないのか? あたしやサスケのいる ここは、お前の帰る場所には、なりえないか? 」
(ツキさん……)
ハナは、胸の奥がジンワリと温かくなったのを感じながら、首を横に振る。
「ありがとうございます! ツキさんに そんなふうに言ってもらえて、とても嬉しいですっ!  私、死なないですよ? この間、生まれて初めて自分で働いて お金もらって、嬉しかった。親がいなくても何とかなりそうだって、思えたんです。この先どうしていいか、って、自分で決めることなんですよねっ? 自分がどうしたいのか、って、ことなんですよねっ?  私、これからも働いて、そうして貰ったお金で、好きな物を買いたいです! ……藤堂を殺しても、もしも捕まらなかったら」
 ツキは、驚いたような表情。
「意外だな……。そこまで、ちゃんと考えて、覚悟していたのか……」
 その言葉に、ハナも驚く。
「考えてますよー、それくらい! 死んじゃえば捕まりっこないですけど、私は生きますから」
 ツキは納得したように何度も頷き、
「そうか。死ぬつもりではないことを 確認しておきたかった」
と前置きし、
「ハナ、あたしに依頼しろ。藤堂邸の警備の厳重さ加減については、別にサスケが自分の目で見てきたわけじゃなく、同業者の間での いつもの噂話だろうが、縛ってまで行かせまいとしたくらいだ。信憑性の高い噂なのだろう。あたしが直接 藤堂に手を下すワケにはいかないが、お前を藤堂の所まで警護することは出来る。藤堂邸に行ったはいいが 復讐を果たせず捕まるだけでは、バカらしいからな」
「でも……」
ハナは心配し、途惑う。よその家に無断で侵入するのは、それだけで犯罪だと思うのだが、それを手伝ってもらって良いのか、と。
 そう ツキに言うと、
「契約書の依頼内容の欄に、夜道の警護と書いてくれればいい。そうすれば、あたしは ハナの行くところに どこへでも付いて行って護らねばならず、不法侵入したところで 主に罪に問われるのはハナになるから、気遣い無用だ」
答えて、ツキは、フッと笑って見せた。
 そういうことなら、と、安心してお願いしそうになったが、ハナ、
(……いくらかかるんだろう? )
ハタと気がつき、聞いてみる。
(私が払えるくらいだったらいいけど……)
 ツキの答えは、
「厳重な警備をくぐり抜けて行かなければならないから、本当なら、ハイリスク料金で 少なくても1時間4万円 請求したいところだが、書類上は夜道の警護だからな。ローリスクの1時間1万7500円で、所要時間が分からないから、まあ、多めに見積もって、8時間で算定して、14万円か」
(……無理っ! )
すごい金額だ、と、ハナは思った。しかし以前、サスケがSHINOBIの仕事について説明した際、一般の身辺警備であれば5人必要なところを1人で警備すると言っていたのを思い出し、納得した。5人の人に、しかも別の人を介して、8時間もの長時間 多少なりとも危険の伴うことをお願いするのと同じなのだ。このくらい かかって当然なのだろう、と。
 ハナは丁重にお断りしようとしたが、一瞬早く、
「だが、金のことは気にするな」
ツキが口を開いた。
「聞かれたから答えたが、ハナに話すつもりではなかった話だ。ハナの復讐を成功させたい あたしの保身のための経費だ。初めから、あたしが払うつもりでいた。本当は、依頼するのかしないのかもハナの意見を聞いていない。ハナに断られても、あたしは、勝手にハナの名前で契約書を書いて ついて行く」
(ツキさん……)
ありがたいが、申し訳ない。 ハナは ちょっと考え、
「あの、ツキさんっ。やっぱ、私、払いますっ。出世払いで、何年かかっても必ず お返ししますから、それまで、すみませんが貸しといて下さいっ」
 ツキ、フッと笑い、
「分かった。そうしよう」
言って、身を起こして ハナに背を向け、開けっ放しだったドアの向こう、廊下の向こうの窓より更に向こうを見る。
「副社長室に明かりがついている。まだ いらっしゃるようだ」
その視線の先は、グラウンドを挟んで寮と背中合わせに建つ社屋だったようだ。
「契約書類をもらってくる。 善は急げと言うからな。明日以降になってしまえば、またサスケから どんな妨害を受けるか分からないし、今日がベストだろう。それに、サスケは7時半頃 制服で出掛けたと、さっき鍵を借りに行った時に シュンジイさんが言っていたから、今頃は仕事中なのだろうが、ここ数日の仕事と同じように朝方にならないと帰らないとは限らないから、出掛けるのも早いほうがいい。 サスケが早く帰るかもしれないことを抜きにしても、契約成立には副社長のハンコが必要なんだ。お帰りになられる前に手続きを済ませなくては」

SHINOBI~キリ・セキュリティ株式会社身辺警備部隠密警護班~ (25)


                *

 ツキが契約書類を取りに副社長室へ行ったのを、ハナはツキの部屋で待ち、書類を手に 一旦 部屋へ戻って来たツキに急かされるまま記入。
 今度は書類を提出に 再び副社長室へ行ったツキが、副社長の印を捺された お客様控を持って戻って後、ハナはスエット上下に、ツキはSHINOBIの制服にと、身支度を整えた。
「行こう」
準備を終えたツキがドアに向かおうとしたところで、ハナは、
「あ! 」
先程まとめる途中だった荷物を思い出して、残りを急いで詰め込み、手に持つ。
「何だ? その荷物は」
 ツキの問いに、ハナ、置いたままにしてはツキに迷惑が掛かると考え 持ち出そうと準備した私物であることを説明。
 するとツキは、
「置いていけ。帰って来るんだろう? 」
(ツキさん……)
ハナは また、胸の奥がジンワリとした。
「はい! 必ずっ! 」

SHINOBI~キリ・セキュリティ株式会社身辺警備部隠密警護班~ (26)


                *

 藤堂宅へ歩いて向かう道すがら、ハナ、そう言えば、と、
「同じSHINOBIなのに、ツキさんも、師匠が今 どんな仕事をしてるか、知らないんですか? 」
 答えてツキ、
「依頼主や依頼内容に関しては、あたしがアイツのを知らないだけじゃなく、アイツも、あたしのを知らない。 SHINOBIへの依頼は極秘の場合がほとんどだから、少なくても社内では、SHINOBIへの依頼受付窓口となっている副社長と 警護にあたる本人しか知ることの出来ない仕組みになっているんだ」
「え? でも、それだと、師匠のしてる、班長の役割って? 」
「ああ、2人で組んで働くこともあるからな。その場合のリーダーだ」
 へえ! そうなんですかっ! と、納得するハナ。
 ツキは、そんなことより、と、これから藤堂宅へ忍び込むに当たっての話を始めた。
「ハナは、前に藤堂邸に忍び込んだ以外に、例えば、普通に何かの用事で藤堂邸を訪問したことがあるのか? 間取りが分かるか、ということなのだが」
 ハナは、はい、何回もあります。大体の間取りも、半年前以降 特に変わっていなければ分かります。と答える。
「それは頼もしいな。……にしては、何故、2回も失敗して、サスケに助けられることになった? 」
「はい! 私が未熟者だからでっす! 」
 ツキ、苦笑しながら、それはいいとして、と、続ける。
「どこから侵入して どこを通って どこへ向かうかとか、決めてあるのか? あたしは ハナの後ろを ついて行って援護するという形でいいか? 」
 ハナ、はい! お願いしますっ! と答え、本当は もう少し夜遅くなってから寝室を目指すつもりでいたこと、藤堂の寝室は離れの2階にあるため 離れと1・5メートルほどの距離で平行した 正門から向かって右側面の塀を上り 離れの1階部分の屋根に飛び移って屋根の上を行こうと考えていたこと、藤堂が不在の場合 寝室に潜んで待ち、夜明け前までに戻らなければ日を改めようと思っていたことを説明した。
 ツキは腕組みをしながらハナの説明を聞き、皆まで聞いてから、腕組みの状態から肘を支点に右手を上げて自分の顎をつまんだ格好で、考え深げに、
「日を改めるのは復路のリスクが高すぎるな。場合によっては1ヵ所に潜むこともだ。……何か、事前に藤堂の在宅を確認する手だては無いものかな」
 ハナも一緒になって考え、いいことを思いついた。
「電話とか、どうですかっ? 藤堂のトコに電話してみて、藤堂が電話口に出たら 家にいるってことで! 」
「電話番号、知っているか? 」
 ハナ、あっ、と、口を押さえる。
 ツキ、溜息。

 話しているうちに、藤堂宅の正門の面する道まで来、ハナは足を止めた。
 ツキも合わせて立ち止まり、押し殺した声で、
「ここから見える、あの大きな門が 藤堂邸か? 」
 ハナ、つられて声を押し殺す。
「はい! 」
「随分と静かだな。ハナでは無理なくらいに警備が厳重になっているという話だったはずだが、門の前に警備員が立っていない。……これは、逆に怖いな。どう厳重なのか予想がつかない」
(……? )
ハナは、ツキの言葉に、藤堂宅の門の前に警備員が立っている様を思い浮かべ、違和感を感じた。
(何だろ……。何かが……)
 その時、ハナの視線の先で藤堂宅の門が静かに大きく開き、中から車が1台出て来て、ハナたちのいるほうとは反対方面に走り去り、再び門扉が静かに閉まる。
(あ、そっか……)
ハナは気がつき、1人で心の中で納得。 ハナは 自らも藤堂宅の門を車に乗ったままで以外 出入りしたことが無く、また、藤堂の家の人々や他の訪問者についても 車での出入り以外見たことがなかったのだ。つまり、
(門の すぐ傍に人がいること自体が不自然だったんだ。……って、あれっ? )
「ツキさんっ! 」
突如思いつき、声をあげた。
 ツキは慌てた様子で、シッと唇の前で人指し指を立て、先程から相変わらずの小声で、
「静かにしろ! 何だ、藪から棒に」
 ハナ、小声で、すみません、と謝ってから、やはり小声で、
「車です! ツキさんっ! 藤堂は いつも出掛ける時は車なので、ガレージに車があれば在宅です! 藤堂の車は、半年前から変わってなければ、私、分かります! 藤堂は同じ車を大切に何年も乗り続けるタイプなので、1年くらい前に新車に買い替えたばかりなので、変わってる確率低いですっ! 」
「ガレージはどこにある? どうやって確認できる? 」
「ガレージは、門を入って少し行った左手側に、離れのほうを向いて開いている状態になっていて、離れは手前3分の2は2階部分が無いので、離れが1階しかない辺りの右側面の塀を上った時点で分かると思いますっ! 」
「そうか。では、塀を上った時点で藤堂の車が無ければ、塀を外側へと下りて敷地外で待つことが出来るな。そして、夜明けまでに戻らなければ日を改める、ということか」
「はい! 」
 ハナの返事にツキは頷き返し、
「これで不在の場合のリスクは下がったな。あとは、在宅の場合の目指す場所だが、とりあえずは寝室でいいかもしれないが、寝室に藤堂がいなかった時には、その寝室の状況によって、潜むのに適さなければ 移動したほうがいいな」
「そうですね! それで、ツキさんは どこまで一緒に来て下さるんですかっ? 」
「それは、依頼人であるハナが決めることだ」
(あ、そうなんだ)
それじゃあ、と、ハナは ちょっと考え、復讐の瞬間まで傍にいると ツキも何かしらの罪に問われることになるのではないかと思い、
「藤堂を発見するか、潜む場所が決まるまででお願いしますっ! 」
「承知した」

SHINOBI~キリ・セキュリティ株式会社身辺警備部隠密警護班~ (27)


                 *


 右側面の塀の前へと移動し、塀を見上げるハナとツキ。
「まずは あたしが上ろう。 厳重な警備というのがハナに復讐をやめさせるためのサスケの嘘でない限り、正門前に警備員が立っていない以上、ちょっと一般的でない警備の方法をとっているということだ。塀なども含めて藤堂の私有物に少しでも触れた瞬間、もう何が起こるか分からないからな」
言って、ツキは ジャンプ。塀の上部に補助的に手をつき、ジャンプの勢いを殺さず塀の上に しゃがんだ姿勢で乗り、辺りを見回してから立ち上がって、ハナを振り返って頷いて見せる。
 それを受け、ハナも上った。 案の定、離れの1階部分の屋根の向こうに、ガレージが見えた。そこに並ぶ5台の車のうち、3台までが、似たような白の3ナンバー。 だが分かる。間違いない。似たような3台の中の1台が、藤堂の車。
「ツキさん! 藤堂は在宅ですっ! 」
「そうか」
 ツキが頷いたのを確認してから、ハナ、
「それじゃあ、行きます! 」
屋根に向かって跳んだ。 直後、
(! )
先に動かした右足の足首前面に何か細いものが食い込み、引っ張られてバランスを崩し、落ちる。
 急いで宙で体勢を立て直し着地しようとするも、今度は、足が地面についた瞬間、
(っ? )
ズボッと地面が抜けた。 ハナは叫ぶ間も無く、深い穴の中。
 穴の底に着地し、上を見上げると、ハナの頭のてっぺんから地上までが、ハナの身長分くらいある。底には厚く海綿状のマットが敷かれており、ジャンプを困難にさせていた。
 ジャンプでの脱出が無理なため、ハナは、両手両足を穴の壁に突っ張って登る。
 登りきり、地上に出て穴の縁に腰掛けたハナを、
「ハナ、大丈夫かっ? 」
塀の上から、しゃがんだ姿勢で ツキが覗いた。
「はいっ! 大丈夫でっす! 」
「……よかった」
ツキは、ホッと息を吐く。 そして、
「塀の斜め上に、テグスが張ってあったんだ」
塀のほんの少し斜め上の空間を片手ですくうような仕草。その手の両側で、何かがキラッと微かに光った。ツキの手によって持ち上げられて角度が変わったために 隣戸の明かりを反射したテグスだ。
「先に上っていながら気づかなくて すまなかった。あたしも、ハナが つまづいて初めて気づいたんだ。 ……塀からの侵入者が屋根に飛び移ろうとした際に足を引っ掛けそうな位置にテグス、塀のすぐ内側に落とし穴。それに何だか、ここから よく見ると、屋根の端のほうが中心部に比べ妙にテカッているのだが、滑りやすいように油か何か塗ってあるのか……? ここの厳重な警備というのは、こういったトラップが中心なのかもしれないな。 一体、どこの会社の仕事だ? 何だか見覚えのある私邸警備の方法だが……」
途中から独り言のようになりながら、考え深げに言う。
 それから、まあいい、といった感じでハッキリと頭を切り替える様子を見せてから、ツキ、徐に、腰に差してあった警棒を手にし、縦向きで、ハナの すぐ横の地面に勢いよく投げつけた。 警棒は投げたままの向きで地面に突き当たり、転がる。
「よし、大丈夫だ」
呟いて、ツキは、警棒の突き当たった位置に飛び降り、警棒を拾った。落とし穴が無いか確かめたらしい。
「ハナ、下手に動くな。1歩動くごとに いちいち確かめながらでなければ、何があるか分からなくて危険だ」
 と、その時、グルルルル……と、低く響く動物の唸り声のような音。
(? )
ハナは、それまで腰掛けていた落とし穴の縁に立ち上がり、音の正体を探そうとした。と、探すまでもなく、音の正体と目が合う。 音は やはり唸り声で、そこにいたのは、
(おじいさんの犬っ? 何で、こんな所にっ? )
 ツキが犬に気づいている様子は無い。
 ガウッと吠え、犬は、ツキの背後から飛び掛かる。
 ハナが犬の存在に気づいてから犬がツキに飛び掛かるまでは ほんの一瞬の間しか無く、
「ツキさんっ! 」
ハナが声を上げた時には、犬の鼻先がツキの細い首に届かんとしていた。
 これから起こる現実を瞬時に悟り、ハナの胸が、1度、ドクンと痛いくらいに強く脈打った。
 しかしツキは、ハナが思わず覚悟してしまった未来に反し、犬を振り返りざま身を屈めて 犬の懐に入り、腹を警棒で一突き。
 犬は、地面に落ちて転がった。 瞬間、バンッ!  犬の体の両側の地面から、弓形に曲げられた竹の棒が飛び出し、犬の頭上で合わさって、大きな音をたてた。 犬が転がった丁度その場所にも、トラップが仕掛けられていたのだ。その全体の形は、ギザギザの歯こそ無いが、まさにトラバサミ。人間の身長であれば確実に挟まれている。
 犬は音に驚いたのか、ビクッとして飛び起き、ツキを見、それから、キャウンキャウンと鳴きながら去って行った。
 犬を見送っていたツキが、ふと頭上を仰ぐ。
 (? )
つられて、ハナもツキの頭上を見た。
 同時、ツキとトラバサミの上に、音も無く何かが落ちた。網だった。 初め、ハナの目には見えず、ツキの反応で知った。塀の斜め上に張られていたテグスと同じような細い糸で作られた、目の粗い網。
 網はツキの体に纏わりつき、サッと取り去れないようだった。
 ハナ、手を貸そうと ツキに1歩近づいた。 と、足の下で何かが動き、
(! )
しまった! と思った時には、もう遅かった。突如 地面から現れた輪っかに右足首を取られ、そのまま、離れの1階部分の屋根を見下ろす高さまで、逆さに吊り上げられたのだった。
(どうしよう、今、ここに誰か人が来たら……! )
ハナは焦った。 さっき落とし穴に落ちた時には、自力で穴から出て来たものの、ツキに助けてもらえる安心感があったからこそ冷静でいられ、ジャンプがダメなら壁に手足をついて登ろうと考えることが出来た。 しかし今は、ツキもまだ 下でトラップに捕まって脱け出せないでいるのが ハナの位置から見える。
 距離があり網が見えないためツキの動きから察するに、網は先程より更にツキの体に絡まり、その自由を奪っているようだ。 それに比べれば、右足首を拘束されているだけの自分は全然自由がきくはずだ、と、ハナは気づき、自分だけでなくツキのことも自分が何とかしなければならないのだと考え、とにかく落ち着こうと努める。
 目を閉じ、深呼吸するハナ。
(…落ち着いて、落ち着いて、落ち着いて……)
自分に言い聞かせつつ考えた。
(どうしたらいいの? どうすれば……)
これまでサスケから教わってきたことを 丁寧に思い出す。 トラップからの脱出方法などは教わっていないが、何か役に立つことがあるかもしれない。
 そうしていたら、ふと、「確認しないのは、ハナの悪いクセだな」と、サスケが以前 言った言葉が思い出され、ハナ、ハッとする。
(そうだ、確認! )
危ないところだった、と思った。数分前にもツキが、「1歩動くごとに いちいち確かめながらでなければ、何があるか分からなくて危険だ」と言っていて、それを怠ったために、今、逆吊りになっているのだ。 今も、下手に動いて更に大変なことになる前に、まずやるべきは、自分の置かれている状況の確認だ。 右足首を輪っかで束縛されているのは、トラップに掛かった瞬間にチラッと見えて知っているが、輪っかがどんなもので出来ているのか、普通のロープか、金属製のワイヤか、それとも もっと別のものか。自力で簡単に外せるのか、外せないのか、あるいは、外れ易過ぎて 実は今 既に落下の危険に晒されているのか、とか。
 確認するべく、ハナは、出来るだけ下半身を動かさないよう腹筋を使って、上体をそっと 足首方向へ持ち上げる。 輪っかはワイヤだった。輪っかを作っているワイヤが そのまま上へ伸び、1メートルほど先で、離れにピッタリ添うように立てられている木の支柱に括られている。支柱はグラつかず、キチンと固定されていて、ワイヤもしっかり括られているが、輪っかは スニーカーの一部、踵の上を巻き込んでいるため緩く、スニーカーを脱げば外れそうだ。
 ハナは左手でワイヤの真っ直ぐ伸びている部分を掴んで 全体重を引き受け、右手で右のスニーカーの踵を掴むと、右足を輪っかとスニーカーから引き抜いた。
(よかった、外れた! )
確認には、こういう効果もあったのだと知る。危険を避けるためだけじゃない。悩む前に まず確認してみれば、悩むほどのことではなかったりするのだと。
 左手1本でワイヤにぶら下がり、右のスニーカーを履き直して、ハナは下を見る。ツキがまだ、網に絡まっていた。
(ツキさんを助けなきゃ! )
下に降りるのに、着地する地点の安全を どうやって確認するか、頭を巡らすハナ。
 と、いきなり、ガクン! 
(っ? )
ぶら下がっている位置が下がった。しっかりしているように思われた支柱が、傾いたのだった。
 支柱が もし倒れたら危険だと考え、自分の体重分だけでも軽くしようと、ハナは一旦、すぐ足下の 1階部分の屋根の上に降りることにした。
 ワイヤから手を放し、足が屋根についた瞬間、ツルッ。
(っ! )
滑った。先のツキの言葉のとおりだった。明らかに何か塗ってある。
 ハナは、屋根から滑り落ちるのを防ぐため、咄嗟に屋根の中心に向かって倒れた。ツキも言っていたことだが、ハナの目にも、屋根の中心のほう、腕を伸ばして倒れれば手の届く位置には何も塗られていないように見えたのだった。
 手をついた場所は、思ったとおり、滑らなかった。
 両の手のひらを しっかりと屋根の肌につき、腕を力を込めて曲げると、下が滑るおかげで、手をついた位置まで楽に全身を移動させることが出来た。
 立ち上がろうとして、
(あ、そうだ)
ハナ、スニーカーの裏に滑る原因の物質が付着していて このままでは滑るかもしれないと気づき、屋根肌に尻をついて座って スエットの袖で拭う。
 拭いながら、
(どうやってツキさんのトコまで行こう……)
屋根の縁から内側2メートル弱くらいは、ハナの見る限り、グルリと全体的に 例の滑る物質が塗られているように見え、
(…やっぱ こうなると……)
などと、一生懸命 頭を働かせた。

SHINOBI~キリ・セキュリティ株式会社身辺警備部隠密警護班~ (28)



 考え込むハナの視界に、地下足袋を履いた足が音も無く侵入してきた。いや、正確には、侵入していることに気づいた。静かすぎて、気配が無さすぎて、もしかしたら本当に たった今 入ってきたのかも知れないし、随分前から その場所に立っていたのかも知れない。
 ハナはギクリとして、その地下足袋の主を仰いだ。
(っ! )
そこにいたのは、SHINOBIの制服を身に纏ったサスケ。静かに、ハナを見下ろしている。
(…師匠……っ? )
過去2回のように助けに来てくれた、という雰囲気ではない。しかも 制服姿ということは……。
「…どうして……? 」
 ハナの問いに、サスケ、
「見てのとおり、この屋敷の警備だ」
夕方 話した時のような重さは無い。本当に いつもと変わらない口調で、
「5日前から、夜間の警備を担当してんだ。……ってなワケで、主な警備対象は藤堂じゃなく大旦那のほうだが、立場上、ここから先に通すワケにはいかなくてさ。 ……で? どうする? ハナ。 あの閉じ込められた状態から脱け出して、トラップ越えて ここまで来れるなんて、大したもんだと思うけど、この先には、オレを倒さなけりゃ進めない。今すぐ引き返すなら、特別に見逃してやってもいいぜ? またトラップを越えて戻るのが大変なら、敷地外まで送ってやってもいい」
 いつもと変わらぬ口調。だが、内容は完全に脅しで、迫力もある。 迫力に騙され、ハナの心に、一瞬、迷いが生じた。
 そんな迷いを、ハナは、首を横に強く振るって振り払う。 
(しっかりして、私! 迷うコトじゃない! )
脅しに乗れば、復讐出来なくなる。乗らなければ、可能性はある。 復讐をして自分を肯定できなければ、もう本当に限界なのだ。
(…やるしか、ないよね……)
ハナは、サスケの向こうに見える藤堂の寝室のある2階部分に、一度、目をやり、腹にグッと力を込め、サスケの目を真っ直ぐに見ながら立ち上がって、身構えた。
 サスケは暫し、ハナの視線を受け止めてから、
「それが、ハナの答えか」
静かに、重々しく、
「……分かった。 んじゃあ、オレの、師匠としての優しい顔は、ここまでだ」
言ったかと思うと、スッと表情を変えた。
 冷然とした その表情に、ハナは、ゾクッ。 ハナがこれまでに見たサスケの表情の中で 最も怖かったのは、ハナが立岩に暴力をふるった後、ハナに手を上げようとした瞬間の顔だが、それでさえ、師匠としての優しい顔だったのだと分かる。
 ハナが怯んだ隙をついて、サスケは、グンッとハナとの間合いを詰めつつ、それまで腕をダランと体の横で伸ばしきった状態で逆手にぶら下げていた右手の警杖を、胸の前の位置、順手に持ち替えた。
(マズイ! )
ハナは腹に力を入れなおし、サスケの右手の動きに意識を集中する。対警杖。これは、徒手のハナには、手で掴んで止めるか 避けるかの2択の後、出来るだけ早い段階で 手や足の届く距離まで近づいて、警杖が使えないよう動きを封じるしかない。
 サスケは、警杖を持つ手をハナに向けて真っ直ぐ突き出してきた。
 ハナは動かず、サスケを引きつける。サスケの腕が伸びきったところで、警杖をかわしつつ懐へ入ろうと考えていた。
 瞬間、サスケと揃いの制服を着た華奢な背中が、ハナの前を塞いだ。 ツキだ。
 ガキン、と、硬い物同士がぶつかる音。
「いいのか? 警備員が先に攻撃を仕掛けて」
ツキが警棒で サスケの警杖を受け止めたのだ。
「ただの威嚇だ。そっちが先に警棒を当ててきたんだろ? 」
「お客様に危険が迫っていたからな、正当防衛だ」
 サスケは警杖に体重を乗せ、
「ハナが1人で ここまで来るなんて、大したもんだと思ったが、なるほど、こういうことだったのか」
 ツキ、警杖を押し返しながら、肩越しにハナを振り返り、
「ハナ、コイツは あたしが引き止めておく。この隙に本懐を遂げろ」
 でも、と、途惑うハナ。ツキはサスケの警杖を押し返してはいるが、その腕が震えている。明らかに分が悪い。
「こんな状況でツキさん1人を置いて行けないですっ! 」
「…これが あたしの仕事だ……っ。気に、するなっ。ここで お前を先に進ませるか逃がすかしなければ、あたしのいる意味が無い。……ただ、あたしが どんなに頑張っても、コイツには勝てない。本当に引き止めておくだけだ。出来るだけ急いでくれっ! 」
 苦しげに、懇願するように言われ、ハナ、
(ツキさん……)
決意を固め 躊躇いを胸の奥に押し込めて、ツキに頷いて見せてから、それぞれ警杖と警棒で押し合い ツキのほうが明らかに分が悪いながらも膠着状態のサスケとツキの横を、走り抜けた。

SHINOBI~キリ・セキュリティ株式会社身辺警備部隠密警護班~ (29)



 自分の走ってきた方向から見て2階部分の正面に当たる壁まで辿りつき、そこには窓が無いため、ハナは、側面に回りつつ、チラッと後方の2人を確認した。
(! )
サスケがハナを追おうとし、ツキが再度 それを阻止した結果か、サスケとツキの位置関係が入れ替わり、ハナとの距離は……真後ろだった。
(いつの間に……)
そして、相変わらずの膠着状態。
 その距離の近さに、実は捕まりそうな危ない瞬間があったのかも知れないと考え、ツキがいるとは言え 自分で もっと気をつけなければならなかったのだと反省しながら、ハナは視線を進行方向へ戻した。
 その時、不意に2階部分の向こう側から、小太りの人物が現れた。
 ハナは、暗くて顔はよく分からないが、その小太りの人物と目が合ったような気がし、特にワケも無く、
(っ! )
ギクッとした。
 小太りの人物が、チイッと、ハッキリ舌打ちするのが聞こえた。 
 距離は そのままに、ハナに向き直る小太りの人物。 その右手で、それほど大きくない何かが 辺りの弱い光を鈍く返した。
 と、
「ハナ、危ない! 伏せろっ! 」
背後でサスケが叫んだ。 ほぼ同時、小太りの人物のほうから、パスッ、と乾いた音。
 直後、背中に誰かが ウッと小さく呻きながらぶつかって、そのままハナを屋根肌に押し倒し、覆い被さった。 ツキだった。
 屋根肌についたハナの手が、何やらヌルッとした液体で濡れる。初めは、例の滑る物質かと思ったが、どうも違う。
(これは……)
血液だった。
 ハナは、それが どこから来ているのか探し、ツキの制服の左肩が破れ 肌が一部露になり、そこからトクットクットクットクッ……と溢れ出ているのを見つけた。
(ツキさんっ! )
「ツキ! 」
サスケがハナとツキの すぐ横まで来、一度 ツキに目をやってから、小太りの人物のほうを見据えた。
 ハナ、サスケの視線の動きにつられる。
 小太りの人物は、その体型からは想像出来ない よく弾むゴムまりが如き身軽さで、母屋の方向へ消えるところだった。
「大丈夫かっ? しっかりしろ! 」
サスケは、ツキに声を掛けつつ しゃがみ、ツキを抱き起こして、自分の胸に上半身を もたれさせる。
 上に覆い被さっていたツキが退いたので、ハナも起き上がった。 起き上がって改めて見てみると、ツキのダメージの深刻さが窺えた。
(…ツキさん……)
 ツキ、グッタリとサスケに身を預けたまま、うつろな目でサスケを見上げ、
「ハナ、は……? 無事、なのか……? 」
 ハナは大急ぎでツキの顔を覗き込む。
「はい! 無事ですっ! ツキさんっ! ハナは無事ですっ! 」
答えながら、涙が出そうになった。
「…そう、か……。よかった……」
掠れた声で返すツキ。
 サスケは、ハナとツキが そんな会話を交わす中、力無く されるがままのツキのブルゾンを脱がせ、ハイネックシャツの左の袖を破れた箇所から引きちぎり、それを使って手早く止血した。 それから再びブルゾンを羽織らせながら、
「ハナとの契約は、どこまでだ? ハナが目的を遂げるまでか? 」
「…い、や……。籐ど…う、を、発見す…るまで、だ……」
 ツキの声は、もう殆ど聞き取れない。それをサスケは誠実な態度で皆まで聞き取り、
「なら、ツキの任務は完了だ。お疲れさん」
すぐ横の2階部分の窓の下の外壁をヒタッと触って、
「この壁の向こうは、藤堂の寝室なんだ。藤堂も、ちゃんといる。 オレは、さっきの侵入者を追わなけりゃならない。数分で戻るから、そうしたら病院へ運んでやる。それまで、頑張れるな? 」
 「ああ」と答えたつもりだろう、ツキの口が その形に動く。声は、完全に聞こえない。
 サスケ、ツキの両肩に手を添え、そうっと、壊れ易いものを扱うようにハナに渡し、
「ハナ、ツキを頼む」
早口で言い、立ち上がったかと思うと、驚いたハナが振り仰いだ時には、もう、母屋の屋根の上に その遠く小さい背中があり、そして すぐに見えなくなった。
(師匠、どうして……? )
ハナが驚いたのは、何故、あの小太りの人物と同じ侵入者であるはずの自分を 捕まえも排除もしないで放置するのか、ということだ。 小太りの人物の持っている凶器や、先程 見た限りの運動能力からして、ハナより小太りの人物のほうが危険度が高いのは、もちろん そうなのだが、ハナの記憶が確かならば、サスケの言ったとおり、壁の向こうは本当に藤堂の寝室なのだ。そんな場所に、など。 ツキのことが心配で復讐どころではなくなっているとでも判断したのだろうか。それとも他に、ハナは復讐をしないとの サスケにとっての安心材料でもあるのだろうか? 例えば、藤堂が寝室にいるというのは嘘で、実は家にさえいない、とか。

SHINOBI~キリ・セキュリティ株式会社身辺警備部隠密警護班~ (30)


                *

 サスケがハナを放置した理由など、そんなことを考えながら 結局はサスケの言いつけを守る形で、ツキを抱えてサスケを待ってしまっていたハナの頭上の窓のほうから、キャッ、と、小さく叫び声が上がった。
(? )
ハナが見上げると、丁度 窓が開き、藤堂の妻・美代子が顔を出すところだった。
「どうなさったの? 」
(藤堂の、おばさま……! )
ハナはドキンとしたが、美代子は相手がハナであることに全く気づいていない様子で、
「外が何だか賑やかでしたので、覗いてみたら……。 そちらの方の制服、いつもの警備員さんのお仲間よね? 今日は3人で警備してくださっていたのですね、ありがとう。 怪我をされたの? 外では寒いでしょう? どうぞ中へ。うちは病人がいるので、お医者様が常駐しているの。そちらの方を診ていただきましょう」
「あ、はい……! 」
ハナは途惑いつつ、美代子の言うまま、グッタリと動かないツキを抱き上げ、窓から、ハナの記憶上 藤堂の寝室である部屋の中へ。


 寝室内に入るなり目に飛び込んできたものに、
(っ! )
ハナは固まった。そこは、記憶に違わず藤堂の寝室だった。入って すぐ左手側のベッドの上、窓を頭側に、いくつもの機械に囲まれ、その機械から伸びた何本もの線や管に繋がれて、口と鼻をスッポリと呼吸器らしきもののマスクに覆われ 目を閉じ、横たわっている藤堂の姿があった。
 静かで、周囲の機械の 実際には微かであろう音が、やけに大きい。
「警備員さん」
美代子から声を掛けられ、ハナは ハッとする。
(あ、警備員さん、って、私のことか。 やっぱ、気づいてないんだ……)
 美代子は、電話の受話器を片手に、
「今、別室にいらっしゃる お医者様に、連絡しました。すぐにいらしてくれるそうです。とりあえず、そちらの方を ここへ」
言って、ベッドの脇、壁に寄せて置かれたソファを、手のひらで指す。
「あ、ありがとうございます! 」
美代子の言葉に従い、ツキをソファへ寝かすハナ。
(? )
何だか視線を感じ、振り返ると、美代子が ハナをジッと見ていた。
 美代子は、自信無さげに口を開く。
「…あの……。間違っていたら、ゴメンなさいね。 …警備員さん、ハナちゃん……? 雪村花ちゃんでは、ないかしら? 」
(ああ、気づいてたけど確信持てなかったんだ……。半年前に会ってるんだけど、何でだろ……? )
と、一度 心の中で首を傾げてから、返して ハナ、
「はい、ハナです。藤堂のおばさまっ。ご無沙汰してますっ」
 途端、美代子は持っていた受話器をポロッと取り落とし、両手で口元を押さえた。そして、目から涙をパタパタパタと落とす。
(っ? )
ハナは驚き、うろたえた。
(なっ何で泣くのっ? 私、何もしてないよねっ? まだ! )
まごつきつつ、
(…まだ……? )
自分の心の中で発した台詞に、引っかかりを覚える。
(これから、本当に やるの……? )
 そんなハナの視界の中で、美代子は涙を拭い、藤堂の枕元へ歩いて、
「康男さん……」
眠る藤堂を覗き込み、話し掛けた。
「ハナちゃんが、見つかりましたよ」
藤堂の反応は無い。しかし美代子は話し続ける。
「本当に、良かった……」
 ハナは途惑っていた。自分の心の中の引っ掛かりに。
(本当に やるのか、って……)
そう言えば、全く殺意が湧かない。
(いつからだろ……)
考えてみれば、2度目に復讐を決意した時には既に、殺意など あったかどうか怪しい。確実に あったと自信を持って言えるのは、初めて藤堂宅へ復讐のために侵入した時までだ。 大体、殺害方法は? 1度目の侵入時には、撲殺でもするつもりだったのか、ちょっとした棒っきれを持っていたが、2度目も今回も丸腰だ。侵入経路などは それなりに考えていたが、いざ殺害するという場面は、漠然とでさえも思い浮かべていなかった気がする。 ……それどころか、今、どう見ても元気そうには見えない藤堂を目の当たりにして、実は、衝撃を受けている。
 と、不意に、
「ハナちゃん」
美代子から声が掛かる。
「康男さんの傍へ、来てあげてもらえないかしら? 」
 もう すっかり、どうしていいか分からなくなっていたハナは、言われるままに、藤堂のベッドの脇、美代子の隣に立った。
「ハナちゃん。康男さんね、ハナちゃんの行方が分からないと知って、ずっと心配していたの」
(心配? どうして? 自分が原因を作っておいて、意味分かんないんだけど……っ)
ハナは、疑問と、同時に怒りを覚えた。 しかし、
「病気で倒れて社長の任を解かれたのだけど、それとほぼ時を同じくして雪村君……ハナちゃんのお父さんも会社を追われたと知ったのは、康男さんが倒れてから、もう1ヵ月くらい経ってからだった」
(…それって……)
美代子の話の続きを聞き、ハナは、藤堂を愛しげに眺めながら話す美代子の横顔を、思わず見つめた。疑問と怒りが ふっ飛んだ。ショックだった。真実が……。恥ずかしかった。父の独り言を鵜呑みにして勝手に思い込み、藤堂を恨んで復讐など考えたことが……。今 思い返してみても、確かに父は、藤堂に辞めさせられたと言っていたし、それは事実に聞こえた。だが、父もまた、そう思い込むよう誰かに仕向けられていたとしたら……? だって、美代子が嘘をつく理由は無い。例えば、今まさにハナが藤堂を殺そうとしている場面とかであれば、言い逃れもするかも知れないが、美代子は、まさかハナが藤堂を殺すために ここに来たなどと、夢にも思っていないだろう。
 ハナが自分を見つめていることに気がついているのだろうか、美代子は ひたすら藤堂を、視線で抱きしめるようにしながら、話し続ける。
「固定電話も携帯電話も繋がらなくて、代理の者をマンションへ向かわせたのだけど、引っ越してしまった後で……。雪村君一家が行方不明になってしまったのは自分が倒れたせいだって、気にしてた……」
(…そんな……! 病気なら、藤堂……のおじさまのせいなんかじゃ……っ! )
ここ1ヵ月強の間の藤堂に対する自分の気持ちを申し訳なく思い、悔やむハナ。それから、父が誤解から藤堂を恨みながら死んでいったであろうことを思い、悲しくなった。父が、昔から藤堂を慕い尊敬していたことを知っているから……。
「人を雇って捜してもらうことにしたのだけど、康男さんの病状は悪化の一途を辿って、やっと引っ越し先を突き止めた時には、目を覚まさなくなっていたの。そして その時、雪村君は……」
ずっと藤堂に抱きしめるような眼差しを向けていた美代子は、そこで やっと、会話の相手であるハナのほうを見、
「…ハナちゃん、お父さんのことは 知っているの……? 」
(お父さんのこと……。…死んじゃったこと、かな……? )
「はい、知っています」
「…そう……。 ハナちゃんは 今、警備会社にお勤めしてるのよね? お住まいは? 何処で暮らしているの? お母さんも一緒? 」
「いえ、母が何処にいるのかは、私も知りません。私は今、キリ・セキュリティでアルバイトとしてお世話になっていて、社の敷地内にある社員寮で暮らしています」
「…そう……。そうなの……」
美代子は、労わるような表情で何度も何度も頷き、ハナの右手を取って両手のひらで包んだ。
「ワタクシ、さっき、ハナちゃんに直接確認するまで、ハナちゃんがハナちゃんであると確信出来なかったの。 よく見れば、お顔立ちなんかは もちろん変わらないのだけど、表情が違いすぎて……。まるで別人のように見えたの。大人びて、陰があって……。苦労、したのね。大変、だったのね……」
(おばさま……)
ハナは、何となく分かった気がした。いや、多分 間違い無い。自分は、この言葉を言われたかっただけなのだ、と。本当は美代子にではなく、藤堂に。復讐という名目で顔を合わすことで、自分の抱えている辛い気持ちを知ってほしかったのだ。

SHINOBI~キリ・セキュリティ株式会社身辺警備部隠密警護班~ (31)



 コンコンコン。寝室のドアをノックする音。 美代子がドアを開け、寝室へ通したのは、白衣姿の中年男性だった。 美代子からハナに向けて、この家の常駐医であると紹介されてから、ツキの治療に当たる。
 サスケの応急処置を褒めつつテキパキと傷口を消毒し、包帯を巻き、弾丸は抜けているが出血が酷いから、と、救急車を呼ぶよう言う常駐医。
 その言葉に美代子は頷き、再び受話器を取った。

(ツキさん……)
ハナが、ツキの いつも以上に白い顔を見つめながら救急車を待っていると、遠くでパトカーのサイレンが聞こえた。サイレンは次第に近く。やがて、止まった。
 止まったサイレンの近さに、ハナは音の方向に目をやる。すると、窓の外、正門から母屋へと真っ直ぐに続く敷地内の道にパトカーが停まっており、サスケが、パトカーから降りてきた警察官に、小太りの人物を引き渡しているのが見えた。
 パトカーが小太りの人物を乗せ、慌しく正門を出て行ったのと入れ替わりに、今度は救急車。パトカーを見送り、やれやれ……といった感じで踵を返したサスケは立ち止まり、救急車を振り返った。
 救急車は正門を入ってすぐ、離れの玄関の真正面あたりで停まり、救急隊員が2人、担架を持って降りてきた。
 ほんの2分か それくらいの後、いつの間にか救急隊員を迎えに階下まで下りていた常駐医の手引きで、救急隊員が寝室まで来、手際よくツキを担架に乗せて寝室を出、階段を下り、外へ。 後をついて行くハナ。

「ハナ! 」
担架に乗せられたツキが救急車内に運び込まれたところで、サスケが駆け寄って来た。
 ハナ、そう言えば、待ってろ、というようなことを言われていたのだったと思い出し、
「屋根の上にいるところを、藤堂の奥さんから、寒いから中に入るよう言われて、この家の常駐医さんにツキさんを診てもいただいて、その方の指示で救急車を呼んだんです 」
説明する。
 サスケ、そうか、と頷き、
「ハナ、このまま ハナがツキに付き添ってくんない? 」
「あ、はいっ! 」
もともと、そのつもりだった。
「サンキューな。助かるよ。 さっきツキにはさ、侵入者を捕まえたら、オレが病院に連れて行くようなことを言ったけど、捕まえた奴が、警察に引き渡す時に、オレにだけ聞こえるように、自分だけだと思うな、って、捨て台詞を吐いて行きやがったんだ。 ハッタリかも知れないが、今は まだ、警戒レベルを落とせなくてな」
 ハナは急に、そうだ、と思い出し、
「師匠」
「ん? 」
「私、復讐やめました」
サスケに少しでも早く報告しなければと思ったのだ。
「……そうか」
サスケに特に驚いた様子は無い。 5日前からこの家に出入りしていたのだから知っていたかも知れない、現在の藤堂の あの状態からか、これまでもハナの考えていること等を何度も見抜いてきたサスケのこと 殺意が無いことも見抜いていたか、あるいは その両方か、全く別のことからか分からないが、こうなることを分かっていた感じだ。
「乗るなら乗って下さいっ」
救急隊員の声に、
「あっ、はい! すみませんっ! 」
ハナは急いで救急車内へ乗り込む。
「んじゃ、頼むな」
「はいっ! 」
 後部ドアが閉まり、ハナとツキを乗せた救急車は、サイレンを鳴らして走り出す。



SHINOBI~キリ・セキュリティ株式会社身辺警備部隠密警護班~ (32)

               * 8 *


(わ……! キレイ……! )
真新しいスーツに身を包み、寮を出、裏門を出て、一旦、わざわざ敷地外を歩いてから、キリ・セキュリティの正門を、少し緊張気味、身の引き締まる新鮮な思いで入ったハナを、数え切れないほどの本数の満開のソメイヨシノが出迎えた。
 4月9日。 今日は、キリ・セキュリティ株式会社入社式。新卒者の入社時期に合わせ、ハナは、キリ・セキュリティに 正社員として就職した。
「よっ、ハナ。入社おめでとう。1週間ぶりだな! 」
桜に見惚れていたハナに、背後から声が掛かる。
 振り返ると、スーツでビシッとキメたサスケが立っていた。
「あ! 師匠! おはようございますっ! 今日は師匠もスーツなんですねっ。スーツ姿、初めて見ました! 何だか知的な感じがしてステキですっ! 」
 サスケ、うーん そうかー やっぱり そうかー、と、一通り ワザとらしく照れて見せてから、
「で、どうだった? 新人研修は」
「はい! 楽しかったですっ! 私、学校では部活とか入ってたことが無いので、部活の合宿とかって、こんな感じなのかなーって! あと、富士山って、近づき過ぎると見えないんですねっ! 」
「そんな興奮するほど楽しかったか……。さすがハナだな」
サスケは苦笑。
「でも、今年の新入社員は根性あるヤツ多いみたいだよな。研修終わって、3分の2くらいの人数が残ってんだろ? いつもは半分も残らないんだぜ? 」
(へえ……、そうなんだ……)
「ああ、あと、学校の部活の合宿で あんなキツイの、フツー無いから」
(んー……、そんなに キツかったかなあ。ホントに楽しかったんだけど……。皆で一丸となって ひとつのことに取り組んで、皆で一斉に「いただきます」「ごちそうさま」言って、何やるにも いちいち制限時間決めて 時間に間に合わないとぺナルティで腕立て伏せとかゲーム的で……)
 と、サスケ、不意に真顔になり、
「あのさ、ハナ。配属先って、どうやって決まるか知ってるか? 」
(? )
ハナ、質問の意図が分からなかったが、とりあえず、
「はい、知ってますっ! 新人研修の時に、教官役の方々が適性を見ていたんですよねっ? 」
「ん、正解。じゃあ、もう1問。 その新人研修で特に優れた運動能力を持っていると判定されたヤツの配属先って、どこになると思う? 」
内容のワリに、サスケの口調は重々しい。
(? ? ? )
やはり質問の意図の分からないまま、ハナ、
「SHINOBI、ですか? 」
「ああ、そうだ」
サスケは、深く重く頷き、
「正式な発表は まだだが、その2つが分かってるんだから、当然 察しはついてるだろうから言っちまうと、……ハナの配属先は、SHINOBIだ」
言い難そうに言った。
(? 何で そんなに言い難そうに言うんだろ? )
不思議に思いながら、
「そうですよね! そうだと思ってましたっ! 」
ごく普通に明るく元気に返すハナ。
 サスケは驚いたような表情をし、
「…ハナ、怖くねえのか……? 」
(? )
ハナは首を傾げる。
「何が、ですか? 」
「この間、偶然オレの仕事現場を見学するハメになって、別の契約だが同じ場所でツキが任務中に怪我をするところも目の当たりにしちまってるワケだから、SHINOBIの仕事は命の危険に晒されることがあるって、分かるよな? しかも、あの時の依頼は、何も特別危険な依頼じゃない。あれが日常なんだ」
 ハナが足が治って藤堂の所へ行くと決めた時、サスケが縛って閉じ込めてまで行かせまいとしたのは、藤堂の舅目当てのプロフェッショナルな刺客とハナが鉢合わせてハナに危害が及ぶことを恐れたためだと、後から説明されていた。実際、本当にタイミング悪く刺客と鉢合わせてしまい、ハナを庇ったツキが怪我をしてしまった。ツキは、もう完治したのだし労災も下りたのだから気にするなと言ってくれているが、ハナは、今でも気にしていた。
 その時のことを思い返し、
(怖い、か……。ある意味、そうかも……)
と、ハナは思った。 SHINOBIにサスケやツキがいるのが怖い。危険な現場で、ツキや、想像つかないがサスケが、怪我をしたり死んでしまったりすることが怖い。身近にいて、その場合に いち早く その事実を知ることになるであろうことが怖い。自分の怪我や死については、何故か、いまひとつ怖いという感覚が湧いてこないのだけど……。 …そう、これまで、幾度となく怖いと感じた経験はあるが、それら全て、怪我や肉体的痛みを恐れたのではない気がする……。
 そうサスケに言うと、サスケ、
「何か、オレら似てるのかもな。オレも全く同意見だ」
だから正直、ハナにはSHINOBIに入ってほしくなかったし、ツキがいるのも堪らなく嫌なのだ、と。そして、ついでに白状してしまえば、毎春 新人がSHINOBIに入っているにもかかわらず、今 現在、所属しているのが自分とツキだけなのは、自分のせいなのだ、と。新人が辞めてもいい前提で、鬼か悪魔かというくらい厳しくトレーニングしてしまうからだ、と。SHINOBIに向いていない者には早めに向いていないと気づかせてやるほうが親切だし、その鬼か悪魔の所業のトレーニングを乗り越えられるようであれば、その者に対する心配が少しは軽くなるから、という理由で……。
「師匠」
「ん? 」
「師匠は、SHINOBIが嫌いなんですか? 」
ちょっと悲しげとも寂しげともとれる感じで話すサスケを見ていて、ハナは、何となく そう思った。
 答えてサスケ、
「んー、好きとか嫌いとか考えたこと無いな。仕事だし……。ただ、オレの能力を最大限に生かせる オレ向きの仕事だとは思ってるけど」
(そっか)
サスケの答えに、ハナは納得し、満足? した。だから、
「師匠っ! 」
ハナは両腕を伸ばし、サスケの肩をガシッと掴んだ。自分を心配などして落ち込んでいてほしくなくて……。
「私は、乗り越えますっ! 血ヘド吐いて地べた這いずりまわりながら、ついて行きますっ! ハナの心配なんてするだけ無駄、って思ってもらえるように、頑張りまっす! 
だから、御心配なくっ! 厳しさも愛情のうちですっ! ちょっとでも たるんでたら、『甘ったれんな! ビシバシーッ! 』って、やっちゃって下さいっ! 」
 サスケは暫しハナを見つめ、それから、フッと笑って、自分の肩のハナの手をそっとはずし、
「そっか。 んじゃ、遠慮なく」
 そこへ、
「サスケ! 」
こちらも初めて見るスーツ姿のツキが、小走りで やって来、
「ここにいたのか。副社長がお呼びだ」
急き立てる。
 サスケ、ああ そうだった、と、のんびり、社屋のほうへ少しだけ歩いてから、ハナを振り返り、
「んじゃ、ハナ。また後で。部ごとの顔合わせの時にな」
そして またツキに急かされ、歩き出す。
 ハナは、サスケとツキの背中を見送った。


                                                 終
 
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獅兜舞桂

Author:獅兜舞桂
獅兜座(しっとざ)座長・獅兜舞桂(しっとまいけー)です。
よろしくお願いします。

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