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桃太郎サムネ(タイトルあり)
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桃太郎異聞(1)


*プロローグ「風だけが知っている」

 50代半ばの男性神職と30歳前後の女性神職、それから未だ少年のあどけなさの残る若い神職に巫女姿の稚児が、質素な夕食を囲む。
 穏やかに黙して、ただ食する。
 不意に、女性神職がハッと顔を上げ、それまでの穏やかな表情から一転、険しい視線を東の縁側へと通ずる障子へと向けるや否や立ち上がり、若い神職と稚児の腕を掴んで引きずり強引に押入れへと押し込むと、しゃがんで2人と目の高さを合わせ、
「2人共、朝日が昇るまで、ここから出てはダメよ」
 言ってから、若い神職へ向け、
「幸二(こうじ)、明日からはあなたが桃太郎(ももたろう)を名乗りなさい。安寿(あんじゅ)のこと、お願いね」
 そして稚児に、
「安寿、幸二の……叔父さんの言うことをよく聞いて、頑張って大きくなりなさい。生きていくと色々あるけれど、負けんじゃないわよ。歳が大きくなるにつれて楽に生きられるようになるから、心配いらないからね」
 2人の目を交互に真っ直ぐに見つめる女性神職。腕を放して2人まとめて胸へと包み込み、
「大好き……」
 最後にそう言い、名残を惜しむ眼差しを残して、押入れの襖を閉めた。
 男性神職もゆっくりと立ち上がりつつ、障子のほうを向く。
 女性神職が部屋の隅にあった大幣を手に男性神職の隣へと移動。
 刹那、障子がスパンと音をたてて大きく開き、真夏の夜のなま温かい風がブワッと勢いよく吹き込む。
 同時、男性神職の首が飛び転がった。
 大幣を前方へ向けて構え、風の向こう側を見据える女性神職。
 年の頃30代前半ほどの和装の華奢な男が、市松人形のようななりの幼女を抱え、姿を現した。
 吹き荒ぶ風に黒の短髪を洗わせる程度の影響しか受けず縁側に佇む男は、静かに、
「共に来い」
 しっとりと色香を纏った声。甘やかな微笑みで女性神職を見つめる。
「誰が行くか! 」
 鋭く返す女性神職。
「…そうか。残念だ……」
 四散する女性神職の体。大幣だけが、その場にパタンと落ちた。
 風が止む。
 男は部屋の中へと進み、大幣を足でそっと除けて、ヨッコラショと小さく漏らしながら、その場に腰を下ろし、膝の上に幼女を落ち着かせた。
 虚ろな表情で男性神職の頭部へと弱く手を伸ばす幼女。
「ああ、そっちじゃないよ」
 言って、男は手近にあった女性神職の肉片を拾い、幼女の口元へ。
 条件反射的にポカンと開いた口に含ませると、幼女の瞳に光が宿った。
 散っていた肉片が宙を幼女の前へと集まって来、山となる。
 男の胸にもたれ気味であった姿勢から身を起こし、幼女は両の手を使って自ら肉片を口へ。
 …パキパキ……グチュグチュ……。
 上品に、しかし没頭して。
 男はその様子を、この上なく優しい面差しで見守る。
 ややして手を止め、祈るような形に顔の前で合わせて、幼女は幸せの吐息。
「ごちそうさまかな? 」
 男の問いかけにコクリ無言で頷く。
 笑みで返した男は胸元からハンカチを取り出して、血液で汚れた口元を拭いてやり、何処から出したのかタッパーに食べ残しを丁寧に詰めて風呂敷で包むと、片腕に幼女を抱き、もう片の手に風呂敷包みをぶら下げ、またヨッコラショと漏らして立ち上がり回れ右。縁側の向こうの穏やかな闇へと消えた。

 ごく細く細く開けた押入れの隙間から、若い神職は見ていた。
 とてもではないが見てなどいられぬ惨劇の一部始終。
 強い吐き気に襲われるも気づかれることを恐れて堪え息さえ殺してなお、視線だけは貼りついたように動かせなかったのだ。
 稚児の目は自身の胸に押しつけることで塞ぐ。
 ……時間が、止まっているのか……?
 否、確かに動いていた。
 約束の朝日が昇る。
「…と、うさん……。…ねえ…さ…ん……」
 ほぼ聞き取れない酷く掠れた低い声で呟きながら、フラフラと押入れから出る若い神職。
 頭部と体の分離した男性神職の亡骸の転がる血溜まりに膝をつき、
「ぅあああああああああああああああああああああー!!! 」
 障子が開け放たれたままの縁側から差す熱を持たない早朝の陽光に照らされ叫ぶ彼の髪は、精神的苦痛のため一夜のうちに真っ白になっていた。


                *


「行ってきます」
 通学のため徒歩で家を出た犬吠埼新一(いぬぼうざきしんいち)16歳・高校2年生。
 自宅前の道路から近所の神社の側面に面した道に出たところで、時間に充分な余裕があるにもかかわらず、いっきに歩調を速める。
 他に無いため仕方なく通行しているが出来れば避けたい道なのだ。
 神門(ごうど)神社。
 犬吠埼の肩の高さまで盛土され、その上に、まるで隠そうとするように高低の樹木が生い茂ってツル性の植物まで絡みつき、敷地内の様子が全くと言っていいほど分からない場所。
 これが、犬吠埼を足早にさせる原因。
 もともと邪教気味というか、どうも一般的な神社とは違う雰囲気を醸し出していて何をやっているか分からない、気味が悪いと付近の住民から敬遠されていた神社ではあったが、昔は今ほどではなかったと記憶している。
 かつては木々の手入れもキチンとされ普通に陽も差し、境内の様子が見て取れる程度で、実際、親はあまり良い顔をしなかったが、幼い犬吠埼は幼稚園のお友達と、よくこの神社で遊んでいた。
 変わったのは、5年ほど前の事件以降。
 当時50代の神職の男性が何者かに惨殺され、同じく神職であった彼の娘が行方不明となっている事件。
 警察は行方不明の娘が何らかの事情を知っているものとして捜査をしているらしいが、未解決のまま。
 現在でも被害男性の親族が、この神社敷地内に暮らしていると噂に聞くが、少なくとも犬吠埼の周囲では、その姿を見掛けた人はいない。
(…殺されちゃったとか、気の毒だとは思うけど……)
 犬吠埼は神社が視界に入らないよう、無意味に、5月上旬の爽やかな空を仰いだ。
(でも、やっぱ不気味なもんは不気味なんだよね……)

桃太郎異聞(2)

*第1話「犬猿の仲じゃなくて」

(…やっと買えた……)
 買ったばかりのコロッケパンと牛乳を大切に胸の前で持ち、ボロボロになって購買部から出て来た犬吠埼。
 廊下の窓に映ったボサボサ頭を足を止めて軽く手櫛でなおし、溜息をひとつ。
 このところ、昼休みの購買部は戦場だ。
 これは、学校に出入りしている予約制の弁当屋が4月半ば頃から店主の急病のために休業して以来、GW明けの現在も再開していないことが原因。
 購買部のある本館1階には、職員室、事務室の他、校長室や会議室もあり、客が来ていることも多いため静かにするよう、教師たちから言われているが、昼休みに限っては無理な話……言っている傍から、ドンッ!
 購買部での買物のために残り僅かとなってしまった昼休みを取り戻そうとでもしていたのか、購買部内から走って出て来た女子5人組のうち1人が犬吠埼の背中にぶつかった。
 ヨロける犬吠埼。
 犬吠埼を追い越しざま、ぶつかった女子が犬吠埼を睨みつける。
(…ぶつかってきたのは、そっちなんだけど……)
 犬吠埼は、もうひとつ溜息を吐いてから、教室のある東館へと歩き出した。
 数メートル先を行く、たった今、犬吠埼にぶつかった女子を含む5人組は、購買部を出て来た時の勢いの割に歩くのが遅い。
 遅い理由は、おそらく、いや間違いなく、彼女らの斜め後ろを歩く男子生徒。彼のほうをチラチラ気にしながら、仲間のうちひとりを突いては、コソコソ、ヒソヒソ、キャッキャッとやっている。突かれている彼女が、彼のことを好きなのだろう。
 彼のことは、犬吠埼も知っている。と言うか、この学校の人間ならば、彼のことは誰もが知っている。
 猿爪響互(ましづめきょうご)。頭脳明晰でスポーツ万能、ショタな容姿が母性本能をくすぐると評判のモテモテ生徒会長である3年生。その上、どうやら性格まで良いらしい。
 彼……猿爪に気を取られ過ぎたか、友達との会話に夢中になり過ぎたか、猿爪の最も近くにいた女子の手から、購買部で買ったばかりと思しき紙パックのオレンジジュースがスルリと逃げた。
 5人の女子全員、犬吠埼までが、「あっ! 」となる。
 そんな中、猿爪が即座に反応。軽く身を屈め、オレンジジュースが床に落ちる前にキャッチしたのだった。そして、
「はい、どうぞ」
華のある笑顔で、落とした当人に手渡す。
「あ……あ、ありがとう、ございますぅ……! 」
 女子たちはポー……。
 猿爪は、
「どういたしましてっ」
 アイドルのファンサのような、ものすごく自然なウインクと、同時、余裕のエアキッスまで残して去って行った。
 ポー……から落雷に遭ったかのごとき真っ白な沈黙を挿み、キャー!!!!! の女子たち。
(カッコいいなあ……)
 きっと自分と猿爪では同じ人間と言っても微妙に種類が違うのだろう、などと思いながら、犬吠埼は廊下の極端に隅に寄り、とっくに見えなくなっている猿爪の背中を見送り続けている女子たちを、横目に追い越す。
(けど、ああいうのって、やる側も受け取る側も、どの程度本気の、どの程度冗談でやってるんだろうな……)



 空腹のためと、残り15分となってしまった昼休みの時間を有効に使うため、東館の階段を上りながらコロッケパンの袋を開け、かぶりつく犬吠埼。
 教室は2階なので、そのくらいの距離を我慢できないほどの空腹でもなければ教室まで行ってから食べ始めた場合と比べて時間に大きく差が出るわけでもないのだが、何となく……。
 そこへ、
「コラッ! 犬吠埼クンッ! 」
 背後から大人の女性の声。
 条件反射で足を止め振り返ると、階段の下に、犬吠埼が所属している環境委員会の担当教諭・雉子花霞(きぎしかすみ)。あくまでも犬吠埼の主観だが、教師も生徒も含め、この学校で一番の美人である。
 雉子は犬吠埼の2段下まで上って来て、真っ直ぐに犬吠埼の目を見、
「食べながら歩いたらダメでしょ? 」
「あ、す、すみませ……」
 犬吠埼が素直に謝っている最中、不意に少しだけ雉子の視線が逸れた。
 逸れた位置に視線を固定したまま、雉子はポケットからハンカチを取り出し階段を2段上がって犬吠埼と並ぶと、ハンカチを持つ手を犬吠埼の顔へと伸ばす。
 雉子の突然の行動に、ビクッと固まる犬吠埼。
 ハンカチが、そっと犬吠埼の唇に触れた。
 花のような甘い香り。犬吠埼は、ドキッ。
「ソース」
 言いながらハンカチを引っ込め、雉子は自分の唇を指さしてニコッと笑う。
「ついてたわよ? やっぱり、ちゃんと座って食べないとね? 」
「は、はい……」
 ボー……と思考停止に陥りつつ反射のみで犬吠埼は返す。
 雉子は、よしっと頷き、もう一度ニコッとして見せてから、ハンカチをポケットに仕舞い、階段を上って行った。
 上り出した瞬間にも、今度は髪から、フワッと甘い香り。
 犬吠埼は思考停止状態に自分で気づいていたが特にどうにかしようと思わないまま、変わらずボー……と見送る。
 その時、キチンと仕舞えていなかったのか、雉子のポケットからハンカチが落ちた。
 ハッと我に返った犬吠埼、数段上ってハンカチを拾い、雉子に渡そうとするが、拾うために一瞬だけ目を離した間に、雉子の姿は無くなっていた。
 犬吠埼は、自分の手のハンカチを見つめる。
(先生の、ハンカチ……)
 甘い香りが思い出され、犬吠埼は、何の気なくハンカチを鼻先へ持っていった。
 と、
「見ーちゃったっ」
 すぐ背後から、悪戯っぽさを含んだ明るい調子の男の声がし、声の主が、犬吠埼の顔を覗き込むようにして正面に回り込む。猿爪だった。
「キミ、今、先生のハンカチの匂いを嗅いだでしょ? 」
 つい先程に1階の廊下で見かけたのと同じ、華のある笑顔。
「これを皆が知ったら、どう思うかなあ? 」
 面白がっているような口調で、内容は明らかに意地悪。
(…この人、性格も良いって言われてるのに……)
 周囲から聞く彼の噂とのギャップ。
(僕はすごく苦手だけど、まあ、こういうコミュニケーションの取り方をする人っているからな……。だから、これだけで性格悪いとか決めつけたりしないけど……)
 しかし、やはりどうも苦手なため、相手にせず早々に立ち去ることにした。
 無視してこのまま立ち去っても、特に言いふらされたりなどしない自信がある。
(だって、言いふらそうにも、この人、僕の名前を知らないでしょ? )
 そもそも、自分との今のこの関わりなど、3秒で忘れるのでは? とも。
 相手は先輩なため、一応、失礼の無いよう、
「失礼します」
 会釈してから、犬吠埼はハンカチを返すべく、あれだけ短時間のうちに姿が見えなくなったのだから2階にいるだろうと見当をつけ、雉子を追う。
 だが直後に、キーンコーンカーンコーン。
 予鈴が鳴ったため、放課後でいいか、と諦めて自分の教室へ。



                *



 陽が傾き、赤味を帯びた光と影のコントラストの強くなった、ひと気の無い教室。
「子供扱い、しないでよ……」
 切なげに言って、猿爪は両手を壁につき、その腕の中に雉子を囲った。
「キスするよ? いいね? 」
 ゆっくりと雉子の顔に自分の顔を近づける猿爪。
 その様子を、廊下側のドアからドキドキしながらこっそり覗き見る犬吠埼。
(こ、これは……。とてもじゃないけど、入って行ける状況じゃない……! )
 終礼が終わり、委員会の用事を済ませた後、雉子にハンカチを返すべく職員室へ行った犬吠埼だったが、そこに雉子はおらず、雉子と同じ3年部の教諭から、雉子なら担任をしている32HRの教室で見掛けたと教えてもらい、来てみたのだったが……。
(雉子先生とあの人、付き合ってるのか……)
 しかし絵になるな……と思った。美女と可愛らしい(けっして悪口ではなく素直な意味で)少年。映画か何かのワンシーンのように美しい。
 2人が担任の教師と生徒であるという予備知識が、場面に背徳のストーリーを与え、儚い輝きを添えている。
 初めこそドキドキしながら覗いていた犬吠埼だったが、そのあまりに現実味の無い美しさに次第に引き込まれ、いつの間にか見惚れていた。そう、覗き見の罪悪感すら忘れて……。
 と、その時、
「いいワケないでしょ? 」
 オトナな余裕のある口調で言いつつニッコリ笑いながら、雉子が、手のひらで優しく猿爪の顔を元の位置まで押し戻した。
「えー? いいじゃないですかー、キスくらいー! 」
 わざとらしく子供っぽく甘えた感じでプウッと膨れる猿爪。
「ダーメ! そういうことは、好きなコとやんなさい! 」
「ボクが好きなのは先生だけなのにー? 」
「はいはい。それは、どうもありがとね」
(…なーんだ……)
 現実に引き戻される犬吠埼。
 だが、入って行きづらい状況であることに変わりはない。
 状況云々を抜きにしても、猿爪にはハンカチの匂いを嗅いでいるところを見られている。今はそんな出来事は忘れていたとしても、先生とハンカチと僕と、それだけ揃えば、さすがに思い出すだろうし、無関係の人に噂として話されるのはよくても、本人に、しかも僕がいるところで、というのはちょっと……と。
(…明日でいいか……。僕の口を拭いてくれたので汚れてるし、洗濯して返そう)
 犬吠埼は、諦めて帰路についた。



「やあ! キミはさっきの変態ニオイ少年じゃないか! 」
 学校からの帰宅途中、神門神社の脇の道を入ったところで、背後から聞き覚えのある声がした。
 が、自分に掛けられた声とは思わず、気に留めず、そのまま、いつもこの神社脇の道を通る時と同じように速めで歩を進める犬吠埼。
 すると再び、今度は少し悪戯っぽさを含んで、前の声よりだいぶ近い距離から、
「やだなあ、無視しちゃってー」
(……僕? )
 視界に人がいないことから、犬吠埼は初めて、声をかけられているのが自分かもと思い、足を止めて振り返る。
「やあ! 」
 そこにいたのは、自転車を押した猿爪。
 ハンドルから片手を放し、顔の高さまで上げてにこやかに挨拶。
 犬吠埼は会釈で返す。
(…この人も、こっちのほうなのか…‥。
 この道路って中学校区の境目だから、家が近所でも知らない人って、結構いるんだよな……)
「あれっ? 」
 突然、猿爪は取って付けた感じの声を上げてから、自転車を自立させて両手を自由にし、視線を犬吠埼の腰付近へ移動。そちらへ向かって手を伸ばすと、ズボンのポケットから、ピッと雉子のハンカチを引き抜いた。
「これ、雉子先生のハンカチだよねー? 」
 からかうように言いながら、目の高さでヒラヒラ。
「このまま貰っちゃうの? それって泥棒じゃないのー? 」
 ああ、またこういう感じか……。と、犬吠埼は内心溜息。
(この人、ホントにどういうつもりなんだろう? 僕と仲良くなりたくてコミュニケーションを取ろうとしてるのか? それとも、噂と違って本当は性格悪くて、意地悪出来る良い相手とネタを見つけたってとこなのか? )
 何にしても、意地悪のつもりならもちろん、仲良くしたいという気持ちからであっても、苦手なのだから、こちらの不快な気持ちは続くだろうし、関わらないのが一番だと考え、犬吠埼は言葉に特に何の感情も持たせず、
「返しそびれただけです」
 心の中でだけ、「あなたのせいで」と付け加えた。
 そこまでで、ハッと第3の理由に気づく。
(ヤキモチっ? もしかしてこの人、僕と仲良くなりたいワケでも性格悪くて意地悪したいワケでもなくて、僕が雉子先生のハンカチを拾ったところからじゃなく、もっと前、口を拭いてもらったところあたりから見てて、ヤキモチ焼いてるっ?
 先生とこの人は付き合ってないけど、この人が先生のこと好きなのは本当っぽいし……。
 ひょっとして、雉子先生じゃなかったら絡まれなかったっ? )
 とにかく、もう、ここから離れようと、ハンカチを取り返すべく手を伸ばす犬吠埼。
 それを猿爪は、ハンカチを持つ手を無駄に高く上げてかわし、そのまま、その手で大きな円を描く謎の動きをしながら流れるような動作で膝を曲げて反対の手で足下の小石を拾うと、手早くハンカチで包み、神社の中へ、ポーイ!
(!!! )
 猿爪のおかしな動きに気を取られていた上に、投げる動作は一瞬で、犬吠埼は全く反応出来なかった。
「なっ何するんですかっ? 」
「えー? 何ってー? 」
 猿爪はニッコリ笑って、
「分からないの? 意地悪をしてるんだよ? 」
(…そうか、意地悪のほうか……)
「ボクはキミみたいな気楽そうなヤツを見ると羨ましくなってね。つい、意地悪しちゃうんだ」
「気楽そう? 」
 軽く頷き、すました顔で続ける猿爪。
「ボクみたいに勉強もスポーツも出来ると、周りが放っておいてくれなくてね。
 キミはいいよね。誰にも期待なんてされないんだろう? 」
(…そりゃ、まあ……。確かにそうだけど……。
 失礼な人だな。よく知りもしない人の内面を決めつけるとか。特別期待はされなくても、僕だって、そんな気楽に過ごしてるワケじゃないんだけど)
 だが、気楽そうに見えると言われるのは嫌な気分ではなかった。そう見えるようにしている部分もあるから。
 特に深い理由は無い。気楽そうに見えても大変そうに見えても自分の能力は変わらないのだから、それならば気楽そうに見えたほうが余裕がある感じでカッコイイから、というだけのこと。
 けれども「気楽に見える」発言以外は、やはり不快でしかない。
 ムカムカしながら、
「期待に応えたくないなら応えなきゃいいじゃないですか。他人に八つ当たりするのは、やめて下さい」
「キミ、分かってないなあ。期待には応えたいんだよ。本当は出来ることなのに手を抜いたせいで出来なかったために、自分がその程度と誤解されてしまうのは悔しいじゃないか」
(あ、何かそれ、分かる気がする……)
 共感する犬吠埼。
(僕は期待されないし、自分の選択したことで疲れたからって他人に八つ当たりなんて絶対にしないけど……。だって、それってとても醜いし……)
 ……。
 犬吠埼は、ふと思いつく。
 他人からの評判を気にしている様子なのにもかかわらず、八つ当たりなど醜いことをしている猿爪のこと、これをネタに、これまでの八つ当たりの仕返しが出来るのでは、と。
 犬吠埼、思いっきり嫌味な口調を心掛け、
「頭脳明晰スポーツ万能、皆の憧れ生徒会長が、実はこんなイジメじみたことをしてるって知ったら、学校の皆は、どう思うかなあ? 」
(さあ、困れ! )
 猿爪の反応を窺う犬吠埼。
 猿爪は、一瞬キョトン。それから、クスッと小さく笑い、
「何それ。脅してるつもりなの? 馬鹿だなあ。ボクとキミ、皆がどっちの言うことを信じると思う? 」
(……負けたっ! )
 口では猿爪には絶対に勝てないと、犬吠埼は思った。
(…いや、腕力のケンカでも、スポーツ万能のこの人相手に、人並でしかない僕が勝てるのか分からないけど……)
 猿爪はクスクスと愉快そうに笑いながら、
「何かボク、キミのこと気に入っちゃったよ」
 そして一旦、笑いを止め、得意の華のある笑顔に切り替えて、
「じゃあ、また明日、学校で! 」
ウインクをひとつ。自転車に跨り去って行った。
(…ああ、男にもそのサービスをしてくれるんだ……)
 ドッと疲れてしまい、
(「犬猿の仲」って言葉があるけど……。あの人が「猿」で僕が「犬」だから……。でもケンカにもならないほど一方的だからな……。犬猿じゃなくて「敬遠」を目指そう……。もう、関わらない……! )
 溜息を吐きつつ意味も無くその背中を見送って後、犬吠埼は自宅へと歩き出そうとして、
(そうだ! 先生のハンカチ! )
 思い出し、足を止め、
(…どうしよう……)
 木々が鬱蒼としているために敷地内の様子が見えない神社を見つめ途方に暮れて立ち尽くす。 

桃太郎異聞(3)

*第2話「マーシーと杜のゆかいな仲間たち」

 神社正面へとまわり、鳥居の前の数段しかない階段の下から、犬吠埼は、入る前に様子を探ろうと、その奥を見つめた。
 しかし、ただ暗い。空間が歪んででもいるかのように、よく見えない。
(なんか、異世界への入口みたいだな……。…いや、見たことないけど……)
 怖い。足が竦む。
(…でも、先生のハンカチが……)
 犬吠埼は一度大きく息を吸って吐き、意を決して踏み入った。



 鳥居をくぐると、薄暗いだけの一般的な神社。
 砂利の敷き詰められた敷地中央の、それほど長くない石畳の参道中程に、体の小さな巫女が頭を抱えてしゃがんでいる。足下に、小石を包んである雉子のハンカチ。
(頭に当たったの……っ? )
 慌てて駆け寄る犬吠埼。
「大丈夫ですかっ? 」
 顔を上げた巫女は、まだ10歳くらいの少女だった。
(子供……っ? この神社の子なのかな? こんな服装だし……)
 犬吠埼もしゃがんで目の高さを合わせる。
「ごめんねっ! 大丈夫だったっ? 」
 すると少女は、キッと正面から犬吠埼を見据え、雉子のハンカチを拾って鼻先に突きつけ、
「アンにこれをぶつけたのはキサマかっ? 」
(いや、直接は僕じゃないけど……。…「キサマ」……って、随分と口の悪い子だな……)
 そこへ背後から、
「大袈裟だな。オマエなら、そんなの大して痛かねーだろ」
 ものすごく最近に聞いた憶えのある声に振り返れば、私服姿の猿爪が鳥居をくぐったところだった。
 やあ、また会ったね! と、犬吠埼ににこやかに手を振りつつ歩いて来る。
「あ、マーシー……」
 嫌そうなトーンで呟く少女。
(…「マーシー」……? 会長のこと……? ああ、「猿爪」だからか……。マーシーとか呼ばれてるんだ……。知り合いなのか……)
 犬吠埼の隣で足を止め、猿爪、
「それに、ぶつけたのは彼じゃない。ボクだ」
 頭すら下に向けず、目だけで高圧的に少女を見下ろす。
「キサマだったのかっ! 」
 少女は雉子のハンカチを猿爪へと突きつけ直した。
「ほぉ……? 」
 低く言ってから、猿爪は、ごく普通に少女の手のハンカチを取り、視線はずっと少女に向けたまま、ハンカチを解いて中の小石を出し、キチッと4つに畳んで犬吠埼に差し出す。
「あ、ありがとう、ございます……」
 謎の礼を言いながら、条件反射的に受け取る犬吠埼。
 猿爪は身を屈めて少女へと徐に両手を伸ばし、その両の頬を摘んで、
「年上に『キサマ』なんて言うのは、この口か? 」
ギュウッと引っ張った。
(っ! )
「ちょ、ちょっと! 何するんですかっ? 」
 驚き、声を上げる犬吠埼。
 痛い! 痛いっ! と悲鳴をあげる少女。
「やめて下さいっ! こんな小さな、しかも女の子相手にっ! 」
「15歳以下はオンナじゃないよ。あと、小さいのはボクも同じだし」
「身長のことじゃないです! 」
「ふーん、やっぱりキミもボクの背を低いって思ってるんだ? 」
(…しまった……)
 気にし、犬吠埼は口を押さえる。
「ま、いいけどね」
 猿爪は、犬吠埼の制止など完全無視して、更に強く引っ張り、
「どこで覚えた? そんな言葉。ん? 」
 少女、叫び声で、
「テレビで! テレビで言ってたのっ! 」
「そうか」
 頷き、手を放して身を起こし、
「悪いテレビだな。捨ててやる」
参道を奥のほうへ歩き出そうとする猿爪。
「ダメーっ! 捨てないでっ! 」
 追い縋り、少女は猿爪のウエストに後ろからしがみついた。
「もう言わないからっ! 」
 猿爪は止まり振り返りつつ、少女の手をウエストから外して、よし、と頷き、
「いい子だ」
微笑みかける。
 急に胸のあたりがホワンと温かくなったのを、犬吠埼は感じた。
(…この人って……。学校の皆や僕相手の時と比べてみても、この子に対しては言葉遣いからして乱暴だけど……)
 フンッと少女はそっぽを向く。

 場が収まり静かになったところへ、拝殿脇のほうから砂利を踏む微かな音。ゆっくりと近づいて来る。
 やがて姿を現したのは、神職の装束を纏った白髪長身の男性。
 猿爪も気付き、
「あ、桃太郎さん。こんにちはー」
声を掛ける。
 桃太郎、という名前らしい。
 小さく手を上げて返しながら歩み寄り、猿爪の真横でなく微妙に後ろに立った彼は、遠目の段階でその白髪からイメージしていたのよりずっと若く、30歳くらいだった。
 目が合ったので会釈する犬吠埼。
 会釈を返してから、桃太郎は猿爪に向けて無言の問い。
「ボクの学校の後輩です。名前は、えーと……」
「犬吠埼です」
 代わって答える犬吠埼。続けて猿爪は、犬吠埼に向け桃太郎を手のひらで示し、
「この神門神社の宮司で、神門桃太郎さん。
 ボクは実は普通の病院じゃ診てもらえないちょっとした病気みたいなものでね、その主治医的な人なんだ。
 体を診てもらうついでに手伝いをしに、毎日ここへ通ってるんだよ」
言ってから、いかにもオマケといったふうに少女を指して、
「で、これが桃太郎さんの姪の安寿」
 と、安寿が猿爪の袖をクイクイッと引っ張り、
「こうはい、って何? 」
「ああ、同じ学校に通ってる、自分より小さい人のこと」
 猿爪の答えに、安寿は犬吠埼を見、猿爪を見、もう一度犬吠埼を見て首を傾げる。
「大きいよ? 」
「背の話じゃねえよ」
 即座にツッコむ猿爪。しかし本気で嫌がっている様子ではない。半分ネタのような……さっきの犬吠埼の時といい、誘ってる感すらある。
(…会長、学校にいる時より自然体で楽しそうだな……)
 普段の学校での猿爪を知っているだけに、フツーの人っぽくて何だかホッとした。
(まあ、僕に対しては、初手から何故かワリと肩の力の抜けた感じで絡んできたけど……。
 …っていうか、最初に思った以上にちゃんと知り合いだったんだな、ここの人たちと……)
 後半は普通に、
「会長、この神社の方々と知り合いだったんですね」
口に出して言ってみた犬吠埼。
 猿爪は、えー? と笑い、
「そりゃそうだよ。キミ、ボクのこと何だと思ってるの? 知らなかったら、こんな得体の知れない不気味なとこに、先生のハンカチを投げ込んだりしないよ」
 すると、
「…ひ、酷いな。得体の知れない不気味な、なんて……」
 桃太郎が遠慮がちに小さな声でボソボソ。
(…喋った……。ずっと黙ってるから、喋れない人なのかと思ってた……)
 猿爪は、本当に楽しそうにアハハと笑う。
 ひと頻り笑ってから猿爪、スッと笑いを引っ込め、真面目な顔で犬吠埼を見つめて、
「でも、ゴメン。やり過ぎた。知らないキミには、すごく怖かったよね? 」
(…この人、本当にいい人なのかもな……。学校での評判どおりとはズレてるかもしれないけど……)
「キミってさ、何か、上手く言えないけど、安心感みたいなものがあるんだよね。だから、甘えちゃった。ホント、ゴメン」
(うん、つまり、ナメられやすいタイプってことか……)



 無事に雉子のハンカチを返してもらえたので帰ろうとする犬吠埼を、
「ねえねえ」
安寿が呼び止めた。
「さっきね、マーシーにイジメられてるのを助けようとしてくれたこと、嬉しかった。ありがとう」
(…あれってイジメだったのかな……? 叱ってくれてたんだと思うんだけど……。
 いや、でも考えてみれば、投げた石が当たってるし、そのことについて謝ってないし、逆ギレか。
 ホント頭のいい人なんだな。一見誤魔化せるオトナのズルさみたいなものを、高校生で既に身につけて……。
 この子に問題があったのは言葉遣いだけで……それだって、怒って当然の状況下でのことだし……)
 どういたしまして、と、笑顔を見せて返す犬吠埼。
「あのね、ワンちゃん。お願いがあるの」
(「ワンちゃん」……? ああ、「犬」だからね……)
「アンね、お友達がいなくて……。だからつまんなくて……。…あの……。
 …お友達に、なってくれる……? また、遊びに来てくれる……? 」
 上目遣いに窺う様子が、小動物のようで可愛い。
「うん、いいよ。また来るね」
「うん! 約束ねっ! 」
 安寿は、とても嬉しそうに笑った。

桃太郎異聞(4)

*第3話「『行ってきます』の意味と『ただいま』の幸せ」

 下校中の犬吠埼は、以前のように足早になることなく、神門神社側面に面した道を歩いている。
 相変わらず木々は鬱蒼としているし、5年ほど前の事件についても解決したとかではないのだが、ここに住んでいる人に直接会い、また、その人たちが特別変な人物ではなかったことでか、不気味さを感じなくなっていた。
「桃太郎のバカ! 大嫌いっ! 」
 神社内から安寿の声。
(? 何? ケンカ? )
 神社のほうへと目をやる犬吠埼。
 と、
(っ! )
 もはや壁である木々の間を突き破るようにして、数日前に初めて出会った時と同じく巫女装束の安寿が、飛び出して来た。道路との高低差のため宙に浮いた状態。
 軽く驚いて立ち止まり見上げる犬吠埼と、目が合う。
 錯覚か、逆光ではないのに安寿の色が黒一色に変化した。
 直後、装束の袖が犬吠埼のほうへと勢いよく伸びて来、驚きも何も思う間もなく地面に対して水平のかたちで首に当たる。
 感触は微か。視界がジェットコースターの如くクルリと1回転してから、顎のあたりを中心に強い衝撃があった後、アスファルトにごく近い高さで安定した。
 何故か目の前に、頭部の無い自身の体が立っている。
 スウッと寒くなったのを感じると同時、
「端境拡張(はざかいかくちょう)! 」
 本当に少し聞いたことがあるだけで自信は無いが、桃太郎のものと思しき声。
 それまで道路だったはずの場所が神社の中のような景色になったのと、安寿に色が戻ったのを見たのを最後に、犬吠埼の視界は暗転した。



                *



「お母さん、家庭訪問のプリント書いてくれた? 」
 出掛けに、台所のテーブルの上に折り畳みの鏡とメイク道具を広げて出勤前の身支度をしている母へと、声を掛ける犬吠埼。
 週明けから始まるクラス担任による家庭訪問の際にスムーズに進むよう、家庭側からの質問があれば事前に受け付けておくためのプリント。金曜の今日が締切だ。
 母は、あ、と小さく漏らして立ち上がり、
「ごめんね、すぐ書くから」
 言いながら、マグネットで冷蔵庫に貼りつけてあったプリントを手に取り、恐らくはボールペンを求めて自身の通勤用のカバンの中を漁る。
「いいよ別に」
 いつものこと。この母は忙しすぎるのだ。
(質問は特に無いだろうし……。
 プリント自体は全員提出だけど、内容が無いから、先生には口でそう伝えればいいかな……)
 そんなふうに考えつつ、母に背を向け玄関を出る犬吠埼。
 出てしまってから、「行ってきます」を言っていなかったことと、目の端に映り込んだ、母の寂しげとも悲しげともとれる表情に気がつき、一旦、足を止めるが、
(…いいか……)
 アパートの金属製の階段を、カンカンカンカンと下りていく。



 下りきったところで、
(……? )
 再び足を止める犬吠埼。
 本来なら隣家のブロック塀とその上部からはみだした瓦屋根と庭木があるはずのところに、見知らぬ木製の天井。和紙と木で作られた和風の四角い照明器具が吊り下がり、明かりが点いている。
 体勢も、立っていたはずが横になり、感触から、恐らく布団に寝かされているのだと分かった。
(夢……? )
 だが今朝の実際の出来事。
 不意に安寿の顔に頭頂側至近距離から覗き込まれ、目が合う。
 安寿は、犬吠埼にニカッと明るく笑って見せてから顔を上げ、
「桃太郎ー! ワンちゃんが起きたよーっ! 」
 ややして視界右側に桃太郎が現れた。
 視界内に他に動くものが無いための自然な反応として目で追うと、右の枕元で足を止め、正座する。
 桃太郎は伏し目がちの疲労困憊している様子、泣いているようにさえ見える表情で、
「…あの……。調子は、どうかな……? 」
 恐る恐るともとれるくらいに遠慮したふうに口を開いた。
(…調子……? って、何の話……? )
 起き上がろうとする犬吠埼に、桃太郎が咄嗟に手を貸す。
 ありがとうございます、と返してから、犬吠埼、
「ここは、どこですか? どうして、いつから、僕はここで寝てたんですか? 」
辺りを見回す。
 6畳の畳が敷かれた土壁の部屋。桃太郎の背後と犬吠埼の左手側には襖、寝ていた時に頭側だった面には障子があり、残る面の壁に寄せて、金属の装飾の施された古い箪笥が置かれていた。
 神社の中ではなさそうだ。
 犬吠埼の問いに桃太郎、ここは自分と安寿の住居であり犬吠埼が寝ていたのは2時間ほど前からであると答え、それから、息を大きくひとつ吐いて、真っ直ぐに犬吠埼を見つめ、
「犬吠埼君」
「…は、はい……? 」
 改まった態度に、犬吠埼はちょっと緊張する。
 桃太郎は深く頭を下げ、
「…ごめんなさい……」
 そこから続いた話は、到底信じられないような……そもそも全く入ってこない話だった。
「君は、死んでしまったんだ……。…安寿に、襲われて……。…オレの、力が足りなかったせいで……。
 本当に、ごめんなさい……」
 色々と説明も受けたが、何ひとつとして入ってこない。
・安寿は神社の外へ出ると黒い化け物となって人を襲うこと。
・神門神社が安寿を封じ込める端境となっていること。
・犬吠埼が死亡しているにもかかわらず現状動いているのは「祈美(きび)の玉(ぎょく)」という神門神社に古くから伝わる眷属神の依代である翡翠製の勾玉の力によるもので、それは今、犬吠埼の体内にあること。
・生き返ったのではなく、あくまでも肉体の形が維持されているだけであること。
・4年前に犬吠埼と同じく安寿に襲われ命を落とし祈美の玉により肉体を維持されている人物が1名おり、その彼は、体が腐る等、何らかの問題の発生することなく現在に至っているが、とにかくその1例のみであるため、それが犬吠埼にも当てはまる保証は無いこと。またその彼も、たった1秒後さえ、どうなるか分からない状況であること。
 ……その、何ひとつ。

 桃太郎の家で暮らすよう勧められたが、犬吠埼は、もう1名もそうしていると聞くように、自宅で暮らし1日1回桃太郎を訪ねてメンテナンス的なことをしてもらうことを選んだ。
 桃太郎宅玄関を出ると、そこは、神社本殿の真裏。ほぼ神社敷地内と言っていい、神社を囲う樹木に一緒に囲われ同様に手入れされていない高めの生垣で区切られただけの場所。左隅に、神社へ行き来の出来る切れ目がある。
 既に辺りは暗く、空には月が昇っていた。
 「桃太郎と話してばっかで全然遊べなかった」と不貞腐るので玄関先でちょっと遊んでやると満足したのか無邪気な笑顔で手を振る安寿と、今にも死んでしまいそうな顔で謝り続ける桃太郎に見送られ、犬吠埼は歩き出す。
 今朝、出掛けに目の端に映り込んだ、母の寂しげとも悲しげともとれる表情が、見上げた月に浮かんでいた。



 アパートの階段を自宅のある2階へと上ると、自宅玄関のドアのすぐ右、キッチンの窓である磨りガラスから明かりが漏れていた。
(お母さん、帰って来てる……。もう、そんな時間なんだ……)
「ただいま」
 言いながらドアを開け、外に漂っていたハンバーグの匂いが自分の家からのものだったと知る。
 珍しく台所に立っている母の後ろ姿。家事は犬吠埼の仕事だから。
 振り返った母は、ホッとした表情で笑む。
「お帰りー。丁度ごはん出来たところだよ。すぐ食べる? 」
「あ、うん」
(…食事も普通にして大丈夫、って、桃太郎さんが言ってたし……。腐る前に取り出せば問題無いから次に桃太郎さんを訪ねた時に処置をしてくれる、って……)
「じゃあ、うがい手洗いしてくるね」
 母に断りを入れ、犬吠埼は浴室へ。洗い場に設置された小さな洗面台で手を洗いつつ、正面の鏡に目をやる。
 何てことない、いつもの自分の顔。桃太郎宅で目覚めてから、初めて見た。
(全然、変わり無いのにな……)
 自分は本当に死んでいるらしい、と、桃太郎宅からの帰り道に、2つのことを確かめてみて思った。
 1つは、呼吸をしていない。2つ目は、脈が無いこと。
 目は見えているし耳も聞こえてる。喋れるし、においも感じる。物に触れる感触もある。手足も、ちゃんと指先まで動く。
 それらと、どう違うんだろう?
 何故、呼吸と脈は無いんだろう?
 他のどこが動いていても、その2つがあることが基本のような気がするから。
 うがいも済ませ、台所へ戻ると、母が皿にハンバーグを盛りつけているところだった。
(…お母さん、僕、死んでるらしいんだ……)
 小学2年生の時に父が病気で亡くなって以降、女手ひとつで育ててくれた。頼れる親戚もいなくて大変だったはず……。
(僕がいなくなったら、お母さんは自由になれるけど、でも、きっと、すごく泣くんだろうな……。そんな気がする……。
 …それは、嫌だな……)
「手伝うよ」
 言って、茶碗に白飯をよそい始めた犬吠埼に、母、
「今日、お母さん、『行ってらっしゃい』って言いそびれちゃったでしょ? だから心配だったの。行ってらっしゃいは無事に帰って来れるおまじないの言葉だから」
(…そっか……。それなら『行ってきます』は、無事に帰って来るよ、っていう約束の言葉だな……。今朝は、言ってなかった……)
「だからね、『お帰り』って言えて嬉しかった」
(うん、僕も、『ただいま』が言えて、よかったよ……)

桃太郎異聞(5)

*第4話「黒巫女再襲と斧の戦士」

 アパートの階段を下り、住宅地内の真っ直ぐに続く道路を進行方向、ほぼ真正面から差す、よく晴れた初夏の早朝の未だ熱を持たない太陽光に、犬吠埼は目を細める。
 毎週月曜日の朝は、所属する環境委員会のペットボトル回収。
 今週は当番なので、いつもより30分ほど早く家を出ていた。
(この体になってから、丸2日が経ったけど……)
 今のところ、特に不便は感じていない。あえて言うなら、本来は不要だが同居家族に体のことを隠して生活していると必須となる食事。咀嚼も嚥下も出来るが消化がされないので溜まる一方。量に気をつけなければ、おそらく口から溢れてくる。
(ああ、でも僕だからか……)
 考えている最中に既に、それを自分があまり不便と感じないのは、母と食事を共にする機会が夕食のみで他はただ食べたことにすればいい、しかももともと、それらを用意していたのが自分だったためであると気づいた。
(もうひとりの人は、どうなんだろう? 家族と暮らしてるとしたら、大変だろうな……。
 僕も、まだ2日だから、これから色々な不便に気づくかもしれないけど……)



(……っ! )
 神門神社側面に面した道へと出たところで、犬吠埼は、してない息をハッと呑み、ドクンと、無いはずの脈が強く打ったのを感じた。
(…アンちゃん……っ? )
 交差点より僅かに右手側、神社入口寄りの位置に、神社のほうを向いて佇む、全身黒一色の小さな巫女。
(どうして外に……っ? 桃太郎さんは……っ? 桃太郎さんが出すワケないと思うんだけど……)
 桃太郎が、安寿は神社の外に出ると黒い化け物となって人を襲う、と言っていた。
 犬吠埼自身も、本当に一瞬のことでよくは分からないが、黒い安寿に何やら攻撃のようなことをされた後、気づいた時には死んでいた。
 相手が知り合いであっても関係無い。その時には既に知り合いだった。
 見つかったら、また攻撃されるのではと、道と道のぶつかる角、民家の陰へと身を隠すべく、犬吠埼は後ろ歩きで1歩、戻ろうとする。
 瞬間、左手側に、だいぶ遠く小さいが、こちらへ向かって来る人影が見えた。
(…これ、まずいんじゃ……? )
 あの人が近くに来たら、襲われるかも知れない。
(…いや、あの人が来なくても……)
 それよりも先に、この時間帯の住宅街。いつ、どの家から、今まさに安寿の真後ろの家から、人が出て来てもおかしくない。
(…僕なら……)
 犬吠埼は、何をしているのか立っているだけで動かない安寿の背中を、見つめる。
(僕なら死んでるから、襲われても、もう死なないかも知れない……)
 覚悟を決め、戻ろうとしていた足を、逆に、そっと踏み出した。
(それに桃太郎さんは、「人」を襲う、って言ってた。…もしかしたら僕はそもそも「人」認定されないかも……)
 そーっと、そーっと……。安寿の背後へ距離を詰めていく犬吠埼。
(…さっきから全然動かないけど、何してるんだろ……? )
 前面の様子の分かる位置へ、そろりと回り込んで見てみると、
(…花……)
 安寿は、神社の盛土部分表面の石垣の隙間から生えた高さ20センチほどの淡赤色の花を眺めていた。
 犬吠埼は気持ちの上だけでの深呼吸をひとつしてから、
「アンちゃん」
声を掛ける。
 刹那、安寿の顔すら犬吠埼のほうを向かないまま、前回に襲われた時と同様、巫女装束の袖だけが勢いよく伸びて来た。どうやら「人」認定されたらしい。
 所詮は布だが直感的に、当たってはいけない物のような気がして、
(危なっ……! )
 咄嗟に飛び退いてかわす犬吠埼。
 狙いの外れた袖は、ガッとアスファルトの地面に突き刺さる。やはり当たってはいけない物だった。
(…怖……。多分、この間の僕は、これが首に当たって死んだんだ……)
 そこまで考えてから、あれっ?
(今の僕、すごく動きが速くなかった? この間は何を思う隙も無く当たったのに……。…攻撃が前よりゆっくりだったのかな……? )
 そうこう考えている間に、2発目、3発目。胸を大きく開く形で広げた腕から左右交互に、犬吠埼に向かって斜めに。
 同じくバックステップで、かわす、かわす。攻撃が、よく見える。
 続く猛攻。ひたすら避けながら、犬吠埼は、安寿に気取られないよう気をつけつつ、先程の人影を気にする。
(…いない。よかった……。この騒ぎに気づいて、戻ったか、神社より奥なら、もう1本向こうの道へ抜けられる道がいくつかあるから、そっちへ回ったか……。
 他の人たちも、気づいて避けて行ってくれるといいんだけど……)
 かわしつつ、もう一度、
「アンちゃん、神社の中へ戻ろう」
話しかける。
 一定のテンポで攻撃は続く。
(…もしかして、聞こえてない……? いや、でも、攻撃が始まったキッカケは声をかけたことっぽいけど……。
 って言うか、音に反応してるだけで、内容を理解してない? あと、やっぱり知り合いでも関係無くて、相手が誰かを認識出来てない……? 
 頭が、全然働いてないのかも……)
 一定すぎる攻撃からも、そんなふうに思える。
(けど、花を見てたんだよな……)
 そこまで考えが及んだところで、
(そうだ! 花! 花で釣って、神社の中へ連れ戻せるかも……! )
 花の位置は犬吠埼から見て安寿より向こう。
(…左・右・左・右……)
 一定テンポの攻撃をかわしつつタイミングを計る犬吠埼。
(…軌道も同じ……。左・右・左・右・1・2・)
(3! )
で飛び込んだ。
 安寿の左腕の下をくぐり、彼女の動きを気にし半身左を向いた状態で、石垣に沿って駆け抜けようとする……が、
(っ! )
 まだ来ないはずの右が、突然タイミングを変え、軌道まで変えて向かって来た。
(間に合わないっ! )
 背後はすぐ石垣なので退がれないし、ほぼしゃがんでいるのに近い低く不安定なこの体勢では、幅30センチはある袖を左右に避けるのは難しい。
 犬吠埼は完全に足を止め、目前まで迫った袖に両手のひらを向ける。
 恐怖による自然な反応。
(来るっ! )
 いよいよという瞬間、目をギュッと閉じた上で更に背けた。
 ガキンッ!
 金属同士のぶつかったような音。
 両手の親指と人指し指の股を中心に衝撃。腕が痺れる。
 一瞬のそれが通り過ぎた後も、指の股に重さ。
 見れば、金属の棒。袖を受け止めていた。
 棒の左側先端近くに、銀杏のような形をした刃がついている。
(…斧……? どうして……? どこから、こんな物……)
 突如現れた、としか言いようが無い。
 しかし、これは使える。せっかくだから、と、
(うん、細かいことは後で考えよう! )
 袖を左方向へ流し、斧は右手のみで持って花へと走った。
 目の端に映る安寿の振り返りつつの攻撃を走るスピードを上げることでかわし、花を掴んで根っこごと引き抜きざま石垣の上へ飛び乗る犬吠埼。
 安寿が追って来ていることを確認しながら、木々の間を神社の中へ。
 安寿も、すぐ後から入って来た。色が戻る。
 安寿は犬吠埼を見、
「あ、ワンちゃん! いらっしゃい! いつ来たのっ? 」
 思ったとおり、犬吠埼を犬吠埼と認識出来ていなかったようだ。
 遊ぼう、と誘う安寿。
 すっかり元に戻った様子に安堵すると同時、犬吠埼は腹が立ってきた。
「…どうして、神社の外に出たの……? 」
 自分でも驚くくらい暗い声。だが、ちゃんと言っておかなければと、頑張って続ける。
「もう1人の人の時には、まだ小さかったから分からなかったかも知れないけど、僕のことは3日前のことで、人を傷つけることになるかもって分かったはずだよね? 」
 顔も怖くなってしまっていたのか、安寿はビクッ。それから途方に暮れたような悲しげな表情で、
「…ワンちゃん、怒ったの……? なんで……? 」
(なんで、って……。今、言ったけど……)
 安寿の目から、涙がパタパタと零れる。
「…ワンちゃんが1回死んだ時、桃太郎も、アンのこと、すごく怒ったけど……。
 …なんで、みんなアンのこと怒るの……? ワケが分からないよ……」
 言ったきり俯き、口を噤む安寿。
 もしかしたら自分が言い過ぎたのではと心配になり、見守る犬吠埼。
 ややして安寿は小さく息を吐き、指で涙を拭いながら顔を上げ、力無く首を横に振った。
「ううん、分かってないのは、みんなのほうだよね。死んでも桃太郎が治せるのに……。
 …でも、大丈夫! アンは、そんな桃太郎のこともワンちゃんのことも大好きだから……! 」
 そうして浮かべた悲劇に耐えるヒロインのような微笑みに、犬吠埼の背筋がゾワッと冷える。
(…この子……。ヤバい……?
 うん、確かに外に出れないとか境遇が可哀想なのは間違いなくそうなんだけど……。まだ分からないものなのかな、このくらいの歳の子って……。僕はどうだったっけ? 10歳くらいの頃……。
 いや、でも……。なんか、ここまで自信たっぷりに悲劇のヒロインぶられると、実は分かってないのは本当に僕のほうかもって思えてくる……。
 けど、聞いてる分に、桃太郎さんも僕寄りの考えなんだよな……)
 と、桃太郎の顔が頭を過ぎり、
(…そう言えば、桃太郎さんは……? )
 犬吠埼は辺りを見回す。
(桃太郎さんが、アンちゃんが外に出るのを止めようとしないワケないと思うんだけど……)
 冷えたままの背筋。胸騒ぎがする。
「アンちゃん。桃太郎さんは、どこ? 」
「桃太郎なら、おうちで寝てるよ。桃太郎が起きてると、アン、お外に出れないから、眠らせたの」
(…眠らせ…た……っ? )
 胸のザワつきが治まらない。
 犬吠埼は、桃太郎宅へと駆け出そうとする。
 それを、
「ワンちゃん! 」
安寿は制服のシャツの背中をガシッと掴まえ、
「お花、可哀想だよ」
 視線の先は、先程、犬吠埼が根っこごと引き抜いたきり特に意識せず持ったままだった花。既に少し萎れている。
 犬吠埼は、神社脇の道路へ放置してしまっていた通学カバンを安寿に断ってから取りに行き、その中の500ミリリットル空ペットボトルをカッターで切断して即席の鉢を作り神社敷地隅の土をもらって花を植え、手水舎で灌水するところまで、やっつけでパパッと終わらせると、はい、と安寿へ手渡し、
「これで、少し経てば元気になるはずだから」
言って、桃太郎宅へ急いだ。
 本当は花よりも桃太郎を優先したかったのだが、安寿を無視することを怖いと感じたため。
 そして、一度はひとりで向かおうとしたものの、目を離すことも怖いと感じたため、安寿も連れて。

 神社と桃太郎宅との境の生垣の切れ目まで来ると、玄関の戸が開け放たれ、そのすぐのところに桃太郎が倒れているのが見えた。
 駆け寄る犬吠埼。
「桃太郎さん! 桃太郎さん! 」
 犬吠埼に揺り動かされ、
「…犬吠埼君……」
目を覚ました桃太郎。
 本当に、ただ眠っているだけだったようだ。
(…よかった……)
 桃太郎は暫しボー……としてから、突然、ハッとした様子でガバッと勢いよく起き上がり、
「安寿はっ? 」
犬吠埼が答えるまでもなく目に入ったのだろう、犬吠埼お手製の鉢に植わった花を嬉しそうに様々な角度から眺める安寿の姿。ホッと溜息。
 だが束の間。違和感を覚えたのか表情を曇らせ、
「…あの……、今、平日の朝だと思うんだけど……。どうして犬吠埼君がここに……? 」
 それに対し犬吠埼が、安寿が神社の外に出ていたから連れて来たのだと話すと、桃太郎は、やっぱりか……と嘆息し頭を抱え俯いた。それから恐る恐るといった様子で犬吠埼を窺い、
「怪我人、とかは……? 」
 犬吠埼は、大丈夫、と両手のひらを見せ、
「たまたま周囲に誰もいなかっ……」
 言っている途中で、
(っ! )
 桃太郎が、グイッと犬吠埼の両の手首を掴み寄せた。
(えっ? 何? 何っ? )
 驚く犬吠埼。
「これは……? 」
 問う桃太郎の視線を追うと、親指と人指し指の股。赤く擦り剝けている。
「あ、これはアンちゃんじゃなくて……」
 安寿を神社内へ誘導しようとしている最中に突として現れ、無意識にどこかへ置いてきてしまったのか今は無くなっている斧のこと、おそらくそれを用い安寿の攻撃を受け止めたことによるものであると説明する犬吠埼。
 桃太郎は、ちょっと考える素振りを見せ、
「斧が出た時にしてた動作とか憶えてる? 」
(…動作……。…多分、怖くて反射的に両手を前に出してたとか……)
「…こう、ですかね……? 」
 犬吠埼、たった今した桃太郎に手のひらを見せた動作よりも手の先の力を抜き、親指が他の指より自然に前に出る形で両手のひらを正面に向ける。
 すると、微かな光を放ちながら、先程と同じく両手親指と人指し指の股に柄が渡された形で斧が現れた。
(…出た……! )
 桃太郎も一緒になって驚いてしまいつつ、これは間違いなく祈美の玉の力によるものであると説明。眷属神のうち1柱の武器が戦斧であったと。
(…武器……? 眷属神って、戦う神様だったんだ……? )
 そう口に出すと、桃太郎は頷き、
「うちが祀ってるのは『神門神(ごうどしん)』っていう、神様の住む世界と人間の住む世界を結ぶ唯一の門の守護神でね、眷属の3柱の神は、双方の世界の秩序を守るため好ましくない者の門の出入りを阻むべく一緒に戦ってくれる神様なんだ」
 そうなんだ、と話に納得の意を示した犬吠埼に、桃太郎、今度は、斧を片手で持った上で放すように言う。
 言われたとおりにする犬吠埼。
 すると、
(…消えた……! )
 斧はその場でフッと消え、見えなくなった。
 桃太郎、確認したように頷き、
「じゃあ、手の擦り傷の治療をするから、手のひらを上に向けて出して」
言って、袴の腰紐に差して背中に固定していた大幣を手に取り、胸の前で構えて、
「祓へ給へ清め給へ神(かん)ながら守り給へ幸(さきわ)へ給へ」
 昨日一昨日と腹の中の食べ物を取り出す処置をしてくれた際に唱えていたのと同じ抑揚の無い言葉を唱えて、大幣を左・右・中央と振り、差し出されている犬吠埼の手のひらへ。
 手のひら全体がほんのり温かい。擦り剝けが修復されていき、赤みも消えていく。
 見た目が完全に元の状態へ戻った。
 桃太郎が大幣を下ろす。
 初めから大して無かった痛みも完全に消えていた。
 礼を言う犬吠埼。
 桃太郎は首を横に振り、
「これから学校? 」
「はい」
 そっか……と、桃太郎は申し訳なさげ。
「朝から迷惑をかけちゃって、ごめんね」
 安寿がとにかく全く分かっていないので犬吠埼は心配だったが、犬吠埼君を最初に襲ってしまった時には外に出るなんて想定外のことだったし眠らされないように気をつけさえすれば大丈夫だから、と送り出しにかかられたため、桃太郎宅から神社内を通り、時々どうにも気になって足を止めては、どのみち当番の時間には間に合わない学校へ、のろのろと歩を進めた。

桃太郎異聞(6)

*第5話「ジューンブライドの行方」

 校門を入ってすぐ左手側、毎週月曜日の朝の環境委員会によるペットボトル回収場所は、既に撤収作業が始まっていた。
 安寿のことが気掛かりだったことと、急いだところで当番には間に合わないと分かっていたことも少しあり、のろのろと登校していた犬吠埼だったが、校門手前からは一応誠意を見せ、走って委員会のメンバーのもとへ。
 腹の上部から胸にかけての表面の筋肉を動かし空気を口から外へと太く短く送り出すという、そもそも無い息を切らす演出までして、
「すみません! 遅くなりました! 」
 後ろ姿だった委員長である3年生女子・浅田(あさだ)が振り返るなり、「すみません」への反応でも、おはようでもなく、
「ねえ! 聞いてっ! 」
と、キラキラした目で興奮気味に切り出す。
 偶然に女子ばかりである本日の当番のメンバーたち他4名も、浅田の話への犬吠埼の反応を待ってワクワクしている様子。
「雉子ちゃん結婚するって! 来月! 」
(っ! 結婚っ? )
 思わず、目を見開き口をポカンと開くという、絵に描いたような驚きのリアクションをしてしまう犬吠埼。
 浅田も他メンバーも大喜び。
 浅田が続ける。
「さっき、倉庫の鍵を借りに職員室へ行った時に、先生たちが話してるのを聞いたのっ! 」
 そこへ、
「皆、おはよう! お疲れさま! 」
 雉子がやって来た。
 一斉に雉子に群がる犬吠埼以外の一同。
「先生! 結婚するのっ? 」
「相手は、どんな人っ? 」
「どこで知り合ったのっ? 」
「付き合ってどれくらいっ? 」
 雉子は唇の前に人指し指を立て、シーッとやり、辺りをキョロキョロ。
 その態度が、結婚が事実であると語っている。
 シーッ、を受けて、浅田は小声。
「先生、幸せ? 」
 困ったように照れたように小さく笑んで頷く雉子。
「他の皆には、まだ内緒ね」


                 *


「内緒ね」
 そんなのは無理だ。
 家庭訪問のため午前中で授業が終了する日課であったために生徒同士が会話する機会がいつもより少なかったはずの今日でさえ、下校時には学校中に拡散していた。 
 ほぼその話題しか聞こえてこない生徒たちの流れに乗って、犬吠埼も校門を出る。
 余談だが、学校や仕事が午前中で終わることを昔は「半ドン」と言ったらしい。
 出掛けに母から「シンちゃん、今日半ドンだよね? 」と言われ、「半ドン」って何だ? と検索したところ、「半」は「半日」「ドン」は「ドンタク」の略であり、「ドンタク」はオランダ語の日曜日や休日を意味する語「Zondag(ゾンターク)」に由来し「博多どんたく」の「どんたく」の語源でもあるそう。
(お母さん、たまによく分からない言葉を使うんだよな……。この間も何か言ってたな……。…何だっけ……? )
 その時、
「やあ」
 背後で知っている声……猿爪の声がした。学校を出たばかりなので猿爪の声が聞こえても何ら不思議は無いためスルーしていると、
「やあ」
 もう一度、猿爪の声。同時に、横から犬吠埼を覗き込んだ。
(僕だったのか……)
「あ、こんにちはー」
 犬吠埼の挨拶にニコッと笑み、猿爪、隣に並んで歩き出しながら、
「キミのとこは家庭訪問、いつ? 」
「明後日です」
「そうなんだ。うちは今日の最初。母親が朝から張り切ってケーキ焼いてたよ。
 『お茶の用意は不要』ってプリントに書いてあったのにね。うちの母親は料理が、特にお菓子作りが趣味でさ、写真撮って自分のブログに上げてたりするけど、やっぱ、機会があるなら誰かに食べてほしいみたいで。ボクは食が細くて、あまり食べてあげられないからね……
 ……だから背が伸びないんだ、とか思った? 」
 またこの人は、と、犬吠埼は内心溜息。
「思ってないですよ! 」
 返してから、
「手作りのお茶うけっていうのはスゴイですけど、お茶の用意は、不要って書かれてても、どこの家でも一応してるんじゃないですかね? 昔からの習慣っていうか……」
「断れないタイプの先生は、お茶でお腹タップタプになって大変だろうね」
「そうですよね」
「キミの家は、どんな用意をするの? 」
「僕の家は毎年、母が仕事を休めなくて先生が来る時間帯だけ抜けてくるので準備出来ないから、ペットボトルのお茶と個包装されてる市販のクッキーとか煎餅にしておいて、先生が口をつけなかったら袋に入れて持ち帰ってもらってます。
 歩きや自転車の先生には無理に勧めないですけど」
 猿爪は、へえ……と感心した様子。
「それ、いいね。先生も家庭訪問って気を遣って疲れるだろうし、終わった後でゆっくりとなら、お茶とかお菓子とか欲しいだろうから、しかも、ある程度の期間とっておける物って、キミのお母さんは賢いね」
(…褒められた……)
 母を褒められ、気をよくする犬吠埼。
 最初が悪すぎただけかも知れないが、犬吠埼の中で猿爪への印象は良くなる一方だ。

 そんなこんな会話しつつ結果的に自然に一緒の帰り道。
 会話が途切れ、
「そう言えば雉子先生……」
と、校内における本日一番の話題……雉子の結婚について触れようとして、犬吠埼はハッと口を押さえた。
(そうだった……。会長、雉子先生のこと……)
 しかし、
「うん、学校中の噂だよねー」
 猿爪は軽く流す感じ。
(…意外と平気そう……? 会長が雉子先生のこと好きって、僕の思い込みか……)
「ジューンブライド、か……」
 遠い目をして空を仰ぐ猿爪。口元にだけ笑みを浮かべ、ボソッと、
「式の当日は豪雨だな」
(……怖)
 犬吠埼は、心理的のみならず物理的にも猿爪から距離をとる。
 そのため彼より少し後れて神門神社脇の道を入ると、カラー帽と体育着姿の小学校低学年と思われる児童の列。
 この道を真っ直ぐ行った先にある自然公園からの帰りか、ほとんどの児童の手にビニール袋。その中に野の植物。
(校外学習かな? 季節もいいし、楽しいだろうな……)
 などと、あくまで高校生となった現在の犬吠埼が児童たちを目にしての感想。自身の小学生当時には特別楽しいとは感じていなかったと、ちょっと思い出しながら列の横を進む。
 と、後ろから自動車のエンジン音。条件反射で振り返ると、車高高めのベージュの軽。運転席には、
(…雉子先生……。会長の家へ行くところか……)
 自動車同士が擦れ違えるまでの幅の無い道路。100名は超えている児童たちの長く連なる列に、雉子は道を入ってすぐの地点で立ち往生していた。
 古くからの住宅地である、この周辺には、人の通れる道は無数と言ってしまっていいくらいに存在するが、自動車の通行可能な道は本当に少ない。猿爪宅へ行くのに他の道は無いのだろう、戻ろうとはせず、スマホをいじり始めて、自分の脇を抜けていく児童たちを気長に待つ姿勢を見せている。
(この道が、こんな混雑してるとこ、初めて見た……)
 視線を進行方向へ戻す犬吠埼。
 少し前を行っていた猿爪が、
「あのガキ……」
呟き、先へ向かって突然走り出した。
「会長? 」
 猿爪の向こうを見れば、黒い安寿。
(…アンちゃん……っ! また外に……っ! )
 犬吠埼も慌てて駆け出す。
(しかも、こんな人通りの多い時に……っ! )
 心の中で、そこまで言ったところで、犬吠埼は、あれ? となった。
(…会長、今、黒いアンちゃんを見て「あのガキ」って……? それに、逃げるでも固まるでもなく積極的に向かって行ってるし……)
 誰を何を狙うでもなく、安寿の右袖が鋭く伸びた。犬吠埼の考えどおり音に反応しているのだとしたら、音が多すぎて狙いが定まらないのかも知れない。
 悲鳴を上げながら逃げて行く児童たちを見送り、泣いて蹲る児童たちを追い越し、放心状態の引率の教諭に、
「子供たちを連れて早く逃げて下さい! 」
声を掛け、猿爪を斜め後ろから追いかける犬吠埼。
 ほぼ横並びになったところで、猿爪が胸の前で両の腕をクロスさせた。ポウッと微かな光を放ち、両手に装着された状態で鉤爪が現れる。
(…会長……。もしかして……)
 猿爪は地面を蹴り、安寿との間合いを一気に詰めざま左腕を伸ばして鉤爪の爪と爪の間に彼女の右袖を通す形で絡め取り、動きを封じた。
 すぐさま猿爪を襲う左袖の攻撃。
 受け止めるべく斧を出した犬吠埼だったが間に合わず、猿爪の右腕が肩から切断され地面へ落ちる。
 一滴の出血も無い切断面。顔を歪める程度で済んでいる反応。他にも、これまでに耳にしてきた幾つかのことが、しっかりと裏付ける。
(…もしかして、じゃない……。間違いない……)
 一瞬だが完全に猿爪のほうへと気を取られていた犬吠埼、猿爪の足が顔スレスレを通過したことでハッとなった。
 犬吠埼に狙いを移したらしい位置へ来ていた左袖の広い面を、猿爪が蹴り飛ばし軌道を変えたのだった。
 猿爪、
「ひょっとして、キミなの? 桃太郎さんから、つい最近ボクと同じような存在が出来てしまったって、聞かされたんだけど」
 どうやら、互いに主語だけが違う同じことを思っていたようだ。
 再度襲ってきた左袖を、今度こそ斧で受け止めながら、犬吠埼は頷く。
「そうだったんだね……」
 猿爪は頷き返し、
「…ところで、どうしてコイツが外に出てるんだろう? 桃太郎さんが出すワケないし……」
 実は、と、今朝の出来事を犬吠埼は話した。
「…そんなことが……」
 驚く猿爪。
 刹那、
(っ! )
 ものすごい力で、安寿が犬吠埼と猿爪をいっぺんに突き放した。
 尻もちをつく2人。
 反動で大きく不規則に揺れた右袖が、変わらず放心状態でいた引率教諭を、左袖が、泣いて蹲っていた児童のうち近いほうから3名を、斬り刻んだ。
 犬吠埼は即座に立ち上がる。
 目の当たりの光景は、もちろんショックなはず。
 しかし、今は呑気にショックなど受けている場合ではないとでも、無意識が働いたのか、
(…何とかしなきゃ……! )
 それだけ。
 逃げて行けた人は、ほんの20名かそこら。未だ多くが何らかの心的要因で自力では動けずに残っている。
 このままでは、大変な被害が出てしまう。既に4名が亡くなってしまった。……体が、熱い。
 犬吠埼の隣から、猿爪が安寿へと飛び出す。
 向かい来る右袖。猿爪は先程と同じく左の鉤爪で絡め、続いて来た左袖を、切れないよう広い面にのみ触れるよう気をつける様子を見せつつ脚で巻き込むようにして地面に踏みつけ、動きを封じて犬吠埼を振り返った。
「桃太郎さんを呼んで来て! また眠らされるか何かしてるかも知れない! それまで、何とか押さえておくからっ! 」
 犬吠埼は頷き、
「お願いします! 」
 石垣を上がって神社の中へ。

 1歩入って一旦、辺りを見回す。朝と違って居場所にヒントが無い。
 急がなくてはならないが、薄暗いこともあり、自力で動けない状態にある可能性の高い桃太郎は、注意深く捜さなければ見落とす危険がある。
「桃太郎さん! 桃太郎さん! 」
 名を呼びながら、隅々まで目を凝らしつつ小走りで移動。
 本殿の裏へ回ると、桃太郎宅との境の生垣の切れ目から続く、何かを引きずったような跡があった。
(……? )
 跡を辿り、入った地点からは死角となっている側の本殿側面へ。
 そこに、両手に砂利を掴みうつ伏せで倒れている桃太郎。跡はそこで途切れていた。安寿によって何かされた桃太郎が、力を振り絞ってここまで這って来てのものだったのだろう。
「桃太郎さん! 」
 犬吠埼はしゃがみ、揺さぶるも反応無し。
 寝息をたてているので、特に深刻な状況ではないと判断し、強めに揺さぶる。
「桃太郎さん! 桃太郎さんっ! 」
 ピクリと反応した桃太郎。ゆっくりと頭を持ち上げ、犬吠埼と目が合うや否や、慌てたふうに立ち上がり、周辺に緊迫した視線を走らせつつ、
「安寿はっ? 」
 勢いに呑まれ気味に、犬吠埼が安寿のいる道路のほうを指すと、桃太郎は駆け出した。



(…やけに静かだな……)
 桃太郎を追って神社を囲う木々のところまで戻って来た犬吠埼。
 前を行き道路へ出て行った桃太郎の、
「祓へ給へ清め給へ神ながら守り給へ幸へ給へ」
 略拝詞だけが聞こえる。
 犬吠埼も出ようとした瞬間、
「端境拡張! 」
 視界がグワンと揺れた。
 揺れは数秒で治まり、いつの間にか木々は3メートルほど先に。見えなかったがあったはずの地面の高低差も無くなり、すぐ目の前に桃太郎の後ろ姿。
 その向こうには……。…向こう、には……。
 神社の中のような景色となっている本来道路の場所で、桃太郎はウッと小さく呻き、直後、砂利の上に膝を折って嘔吐した。
 犬吠埼も、吐き気と目眩に似た感覚を覚えたが、体のつくりの問題か、あるいは、立場の違いによる事態の重さの差か、吐くには至らなかった。
 桃太郎の背をさすってやる犬吠埼。
 色を取り戻した安寿が、
「あっ! 桃太郎! ワンちゃん! 」
 累々と転がる遺体に時折、足を取られつつ、他に動くものの一切無い静かな血の海を、無邪気な笑顔で駆けて来る。
 目の端に、拡がった神社空間の隅、斜めに切断された雉子の車の前、やはり斜めに切断され下半分の無い雉子を、片腕で抱きしめ髪に頬を埋めて肩を震わせる猿爪が映った。
 桃太郎の背をさするフリで縋りながら、犬吠埼は、深く深く目を伏せる。
 もう、何も見たくなかった。
 
 

桃太郎異聞(7)


*第6話「これからも続いていくために」

 駆けて来た安寿が、
「ねえねえ」
 惨状にとてもではないが顔を上げられない犬吠埼と、地面に手をつき消耗しきっている桃太郎の周りを、軽やかにウロウロ。
 犬吠埼には、そんな安寿の行動を含め周囲の全てが、自身から急速に遠のいていっているように感じられていた。
「ねえねえ」
 時折しゃがんだり腰だけを曲げたりして姿勢を低くしては桃太郎の顔を覗き込むのを5分ほど続けた後、安寿は、
「ねえってば! 」
 しゃがんだ状態から両腕を伸ばし、痺れをきらした様子で小さな手のひらで桃太郎の頬を挟み強引に持ち上げて、
「どうして無視するのっ? 」
 少し怒ったふうに言うと、一転、ニコッと笑い、
「みんな死んじゃったから治して」
 遠くて、安寿の発言に何も思わず聞き流す犬吠埼。
 桃太郎は、大きく息を吐き安寿の手を外しつつ立ち上がる。
「…無理だよ……」
 酷く掠れた低く暗い小さな声。
 安寿、
「…どう、して……? 」
 驚いた様子で、こちらも小さく漏らし、
「どうして、そんな意地悪言うの……? 」
 繰り返した。
「祈美の玉が必要なんだ。見てたから知ってるかも知れないけど。
 祈美の玉は、あと1つしか無い。出来るとしても1人だけだ。それでいいなら選んで」
 変わらず低く、冷たく突き放す桃太郎。
 安寿は、信じられないといったように首をゆっくりと横に振り、
「…よく、ないよ……」
 初めは小さいまま、次第に大きく、
「みんな、みんな治してよっ! 」
「無理だって言ってるの」
 返す桃太郎は淡々を貫き、
「ほら、選びなよ。早く。前例が少ないから分からないけど、急いだほうがいいと思うんだ。
 いや、本当は、あったらいけない前例だけどね。実際には『治す』って言葉にも語弊があるし。亡くなってしまったことに変わりはないから。
 さあ、選びなよ」
 だが、最後は語気を強め、
「選べよ。選べ! 」
(…桃太郎さん……)
 初めて聞く桃太郎の激しい口調に犬吠埼は少し驚き、遠くから引き戻された。
「選べない! たった1人なんて! 選ばれなかった人は、どうなっちゃうのっ? 」
 被せてヒステリックに叫び、頭を抱え込むように両手で耳を塞いでギュッと目を閉じる安寿。
 桃太郎はその両手首をガッと掴んで強引に剥がし、揺さぶる。
「選ばれようと選ばれなかろうと変わらねえよ! 普通の死体になるか猿爪君や犬吠埼君みたいに動く死体になるか、それだけだ!
 これがお前の、安寿の作り出した現実だ!
 オレは言ったよなっ? 何回も何回も! 外に出ちゃいけないって! 出た結果どうなるかも、2回も目の当たりにして!
 それでも作り出した現実だ! 受け容れろ! 」
 安寿、また被せ気味に、
「だって桃太郎、教えてくれなかったよっ? あと1人だって、教えてくれなかった!
 ちゃんと教えてくれてたら、アン、1人しか死なせなかった! 」
 捲し立て、肩で息をする。
「オレの、せいかよ……」
 低く低く呟く桃太郎。俯き静かに安寿の手を放した。
「桃、太郎……? 」
 窺う安寿。
 沈黙が流れた。
 ややして、
「…やってらんねーよ……」
 桃太郎は足下に転がったままだった大幣を拾い、辛うじて略拝詞であることが分かる早口の小声。続いて大幣を左・右・中央。
「端境縮小」
 グワンと視界が揺れ、木々が迫って来、3人のうち僅差だが最も神社から離れた位置にいた安寿を通過。安寿が黒く変化した。
 この木々は幻影なのか、音も感触も無く、続いて犬吠埼と桃太郎も通過。本来の位置へと戻った。
 安寿の袖が伸び始めたことに気づく犬吠埼。
 直後、至近から桃太郎へと襲いかかる袖。
 犬吠埼は咄嗟に桃太郎を抱き上げ、段差を上がって神社内へと飛び込んだ。
 桃太郎を腕から下ろしつつ、犬吠埼は実際には表に出ない溜息。
(…危なかった……)
 桃太郎は力無く地面へ崩れ、放心状態。
(…今のって、もしかして自殺……? 桃太郎さん、自分で動こうとする気配が全然無かった……)
 どう声を掛けてよいか分からず、犬吠埼は、桃太郎をただ見下ろす。
 死んでしまいたいと思っても仕方ないように思えて……。
(…死なせてあげたほうが、よかったかな……。助けちゃ、いけなかったかな……)
 そんな後悔をした。
(…ずっと、アンちゃんが事を起こさないよう頑張ってきたんだろうに……。アンちゃんは、それを認めるどころか、全部桃太郎さんのせいにするし……。子供の言うことだけど……。…報われないよな……。
 生きてたって、また心を擦り減らしながらアンちゃんの世話をする日々が続くだけなのに……)
 追って入って来、色を取り戻した安寿が、
「桃太郎……」
 珍しくしおらしい様子で、同じく桃太郎を見下ろす。
 沈黙の中、いたたまれず言葉を探す犬吠埼。
 何か桃太郎を慰めれるような気の利いた言葉が無いかと。
 まず、たった今のこの桃太郎の自殺未遂についての自分の気持ちすら定まらない。
(死を望む気持ちは分かる気がするのに、生きていてほしいとも思ってて……いや、どちらかと言えば、生きていてほしいと願う気持ちのほうが強かったりして……。
 …どうして……? どうして僕は、桃太郎さんに生きていてほしいんだろ……? )
 その理由が桃太郎を慰める糸口にならないかと期待を込めて考える。が、
(…ダメだ……)
 行きついた答えは、とても口に出せたものではなかった。
(身勝手すぎる……。自分が、まだお母さんと一緒にいたいから。そのためには桃太郎さんのメンテナンスが必要だから……なんて。
 こんなに苦しんでる桃太郎さんを前にして、僕の幸せのために、これからも苦しみ続けて下さい、とか……。言えるワケない……)
 犬吠埼は、額の辺りを重たく感じ、左手で支える。
(…僕は、欲張りだな……。
 死んだあの日、もし相手が車とかだったら、僕は家へ帰れなかった。お母さんに会えなかった。それが、会えた。それだけでもう、考えられないような奇跡なのに。突然どうなってしまうかは分からなくても、今も一緒にいることが出来てて、本当に有難いのに……。
 あの日以来、いつが最後になってもいいように覚悟を持って大切に、お母さんには接してるけど、心の奥では願っちゃってたんだ。出来るだけ長く続くこと……。
 浅ましいな……。
 恥ずかしい……)



 暫くの後、桃太郎はゆっくりと立ち上がりつつ、小さな吐息混じり、
「……ごめんなさい、犬吠埼君。助けてくれて、ありがとう……」
(…桃太郎さん……)
 犬吠埼の胸が、キュッとなった。
 結局、ひと言も掛けられないままだった。
 そして桃太郎は、一度、静かに深く呼吸してから安寿にも、
「安寿もごめんね。怖かったね」
 言って顔を覗き、優しく笑む。
(…桃太郎さんは強いな……。こんな年齢が半分みたいな奴の前で弱いとこ見せれないからかも知れないけど……。多分そうなんだけど……)
 そう感じてしまったら、見ていて、ただただ痛々しい。
(僕がもっと大人だったら……。桃太郎さんより年上か、年上までいかなくても桃太郎さんが無理に強がって見せなくてもいいくらいに歳が近かったら、よかったのにな……)
 犬吠埼は自分の無力さを呪った。
(せめて、これ以上の負担をかけないようにしないと……。だって、無理って続かない……)
 気づいてしまった心の奥の願いは桃太郎さんに覚られないようにしよう、そう思った。
(桃太郎さんのためだけじゃなくて、自分のためにも。醜くて恥ずかしいから。
 ……何より、これからも続いていくために。
 アンちゃんも、なんか、少しは分かったっぽいし、この先は、ちゃんと休みながら、長く長く続いていってくれたら……)
 しおらしく項垂れたままの安寿に目をやる犬吠埼。
 桃太郎、
「それで、どうするの? 」
安寿に、優しく優しく問う。
「誰か1人でも『治す』の? 」
 それを受け、安寿は木々の隙間から外を見まわす。いつもの元気は無い。
 猿爪に抱かれているためか、雉子のところで視線を止め、全く力の入っていない指で指した。
「分かった」
 頷き、桃太郎は神社の敷地を出、猿爪と雉子のもとへ。少しもしないうちに雉子の下半分を担ぎ、上半分を左腕だけで抱えた猿爪と連れ立って戻って来る。
(…先生……)
 猿爪の腕とは違う、生身のまま切断された体。血液は、ほぼ出きってしまったのか、ポタポタと滴る程度。
 桃太郎の指示で桃太郎宅へと揃って移動しながら、犬吠埼は自身の感情に違和感を覚えていた。
(…なんで、こんなに落ち着いてるのかな……。先生は死んじゃってるのに……)
 しかしすぐに、
(…そんなことないか……)
 当然と納得した。
(だって先生は、この後、僕や会長と同じ存在になる。このまま本当に、こんな突然に終わってしまうことに比べたら、それってきっと悪くない。
 いや、どうかな……。
 僕は幸運だったと思ってるけど、会長は今の体や生活についてどう思ってるか分からないし、自分以外の人を1人でも含んだ内容を代表して物申せるエライ人じゃない僕だから、あくまで主観で、一般的な当然からは、やっぱりズレてるかも……)
 けどまあ、それよりも、と、抱えづらそうにしている猿爪が気になり、代わりましょうかと申し出る。
「ああ、じゃあ代わらなくていいから、ボクの腕を拾ってきてくれる? 」
 言われて、
(…そっか……。それはそうだよな……。いつもなら、きっと気づくのに……)
 自分の気の利かなさを反省。
 脇の道路は今日の下校中最初に安寿と猿爪が接触した辺りへ向かうべく、木々の隙間を道路へと下りた瞬間、ウッとなった。
 充満する鉄の臭いと立ちのぼる生温かい空気、ヌルッとしながらもベタつく足下。
 何だかクラクラする。
 雉子の遺体を間近であらためて見た時の自分の感情から、感覚がおかしくなってしまっているのではと心配したが、至って正常であると知った。
 おおよその場所の見当はついていたのと、妙に白浮きして他の遺体とは明らかに色が違っていたので、幸い速やかに発見出来、極力他に目がいかないよう回収する。



 犬吠埼が神社内へ戻ると、もうそこには誰の姿も無く、他の皆がいるはずの桃太郎宅へ。
「お邪魔します」
 姿を捜しつつ家の中を奥へ奥へ。犬吠埼自身が死んだ時に寝かされていた部屋で、既に体を繋ぎ合わされ布団に寝かされている雉子と、その脇に座り見守る桃太郎と猿爪。隅で膝を抱える安寿を見つけた。
 桃太郎の手には、アルファベットのCの字のカーブを緩くしたような形の緑色の石のような物。それを雉子の口に含ませ、続いて傍らに用意されていたコップの水のような無色透明の液体を自身の口に含み、口移しで雉子へ。
 雉子の喉がコクンと動く。
 確認したように頷いてから、雉子に掛布団を掛ける桃太郎。
 とりあえずの区切りの空気を感じ、
「会長」
 犬吠埼は声を掛けた。
「ありがとう」
 ちゃんと笑みを作って差し出された左手に、右腕を渡す。

「治癒」
 桃太郎に腕をくっつけてもらいながら、猿爪、
「桃太郎さん、先生の車をあのままにしておくと、後から先生が警察とかに疑われたりしないですか? 」
 その発言に、犬吠埼は舌を巻いた。
(この人、これだけの出来事の中で、どうしてこんなに冷静なんだっ? )
 かく言う自身も、事態のわりに頭の芯が冷えているのを何となく感じてはいたが、
(この人のは怖いくらい。……って言うか、ちょっと機嫌良くない? )
 心の中でそこそこ本気で怯える。
 しかし、
(いや、機嫌良いはさすがに気のせいだろ……)
 即座に否定。
 腕を治し終え、桃太郎は、猿爪の意見に、そうだね、と立ち上がり、犬吠埼・猿爪に、
「手伝ってくれる? 」

 言われるまま、後をついて雉子の車の所へ移動。
「じゃあ、猿爪君と犬吠埼君とで左右に分かれて車を持ち上げて、切断前の形にして支えててくれる? 」
 犬吠埼は、は?
(車が何キロあると思ってるの? そんなこと出来るワケが……)
 と思いつつも、猿爪が了解、のひと言で動き始めたので、倣う。
 結果、
(……出来た! )
 驚く。
(…そう言えば、さっき、桃太郎さんを抱き上げた時、全く重さを感じなかったっけ……。いつから、こんな力持ちになった……? )
 桃太郎は略拝詞を唱え、大幣を左・右・中央。
「原状恢復」
 車が元の姿へ戻り、桃太郎が車の外から手を伸ばしてキーを回すと、何と、エンジンまでかかった。
(すごい! )
「じゃあ、ちょっと向こうを回って家の玄関前へ移動させてくるよ」
 神社正面に面した道路を指さし、言って、運転席へ乗り込む桃太郎。
(桃太郎さんって車の運転するんだ……。しなさそうに見えるけど……。大人はわりと持ってるものなんだな、免許証。うちのお母さんも車は無いけど免許だけは持ってるし……)
 僅かの差で、猿爪が口に出す。
「桃太郎さん免許持ってるんですね」
「うん、失効してるけどね」
(いや、それ無免許運転)



 同じ無免許なら運転経験のある人のほうがいいに決まっているので、移動は桃太郎に任せ、先に桃太郎宅へ戻った犬吠埼と猿爪。雉子の寝かされている部屋へ。
 雉子は先程と変わらず静かに布団に横たわっている。
 安寿も……変わらず部屋の隅。膝を抱えている。
(アンちゃん……)
 玄関のほうでエンジン音。無事に移動出来たようだ。
 少しして部屋に入って来た桃太郎、
「君たちの服もキレイにしようか」
 気にしていなかったが、見れば全員、特に猿爪と安寿の服が、主に血液で汚れている。
「原状恢復」
 一瞬でキレイになる服。
 と、外からパトカーと救急車らしいサイレンが複数。続いて同じく複数の人の声。にわかに騒がしくなった。
 神社脇の道路の遺体が発見されたのだろう。
 直後、ピンポーン。
 玄関のチャイムが鳴った。
 桃太郎が応対する。
 こっそり覗いてみると、相手は警察官で、やはり外の騒がしさは遺体が発見されてのことだった。
 暫く話し、
「何かお気付きのことがございましたら」
 言い置いて帰ろうとする警察官。
 突然、安寿が立ち上がり、玄関へ駆けだす。
(アンちゃんっ? )
 安寿は体当たりするくらいの勢いで警察官の制服を掴み、
「アンがやったの! 」
 叫ぶ。
「アンがみんなを死なせたのっ! 」
 叫びながら泣き出し、
「アンを、アンを捕まえてくださいっ! 」
 吸気ばかりの目立つ呼吸音。泣きじゃくりながら叫ぶ言葉は、途中からほぼ聞き取れなくなった。
 警察官は身を屈めて安寿と目の高さを合わせ、
「何か、怖いものを見ちゃったのかな? 
 でも大丈夫。悪い人が来ないように、お巡りさんがちゃんと見回ってあげるからね。
 急がなくていいから、気持ちが落ち着いた時に、お話を聞かせてね」
 ゆっくりゆっくり穏やかに言い聞かせるように言ってから、身を起こし、桃太郎に会釈して去って行く。

桃太郎異聞(8)

*第7話「卒業」

「朝早くから、すみません」
 6月11日(土曜日)大安吉日。天気は……大荒れ。
 傘などほぼ役に立たない強風を伴う豪雨により、猿爪から指定され着用してきた無地の白Tシャツをズブ濡れにした状態で、朝8時、桃太郎宅を訪ねる犬吠埼。
 出迎えてくれた桃太郎の後ろから、
「ボクの呪いだね」
 冗談めかして、同じく白T姿の猿爪。
「原状恢復」
 桃太郎に服を乾かしてもらってから、犬吠埼は玄関を上がった。
 今日は雉子の結婚式当日。
 以前に猿爪の呟いた「式の当日は豪雨だな」が現実となっていた。
(…まあ、梅雨だからな……)
 安寿に襲われ死んだ雉子が、桃太郎によって「治され」た26日前。雉子は、母が心配するといけないと犬吠埼がそろそろ帰宅を考えていた夜も更けた頃になって目を覚ますと、犬吠埼が死んで目覚めた後にされたのと同じ説明を受け、それについて、また、死んだこと自体についても、何を思ったのか口にも表情にも態度にも出さないまま、普通に車を運転して帰って行った。
 以降の学校での様子も生前と全く変わらず、結婚の話もそのまま、予定通り今日、結婚式を迎えるのだった。
 犬吠埼と猿爪は、式の後に行われる披露宴の余興に、雉子の担当していたクラス・部活・委員会の生徒の有志約30名と共にサプライズで参加する。
 担当「していた」と過去形なのは、雉子が昨日付けで学校を寿退職しているため。
 サプライズの発案者は、式と披露宴の行われる式場に勤める、環境委員長浅田の姉。仕切っているのは妹・浅田から相談を受けた猿爪だ。
 犬吠埼は本来、こういったものに進んで参加するタイプではないのだが、猿爪から誘われ、断るほど嫌なワケではないので……。
 桃太郎を訪ねた目的はメンテナンス。
 出番は14時頃と聞いているが、その前に練習があるため、この時間になった。
 いつもメンテナンスをしてもらうのが放課後の時間帯なことを考えれば、終った後でよいのだが、大切な日なので粗相の無いように、と。

 メンテナンスの最中、
(…アンちゃん……)
 犬吠埼は安寿を見ていた。
 開け放した障子の向こうの広縁で膝を抱え、土砂降りの外を眺めているのかいないのか、今にも昇華して空気に紛れ消えてしまいそうな、小さすぎる背中。
 雉子が死んだあの日から、こんな感じだ。
 あの場所に座って……ただ座って……。
 初めは食事さえも取らなかったが、さすがにそれは、桃太郎が根気よく言い聞かせたり、猿爪が強引に食べ物を口の中へ捩じ込んだりしているうちに、諦めたように食べるようになった。
 それ以外は、ずっと……。


                 *


 せっかく乾かしてもらった服を再び濡らしながら、猿爪と共に、他の皆との待ち合わせ場所である式場裏口の見えるところまで来た犬吠埼。
 もう待ち合わせ時刻の3分前くらいなのだが、そこに傘を差し立っていたのは1人。浅田だけだった。
 浅田も犬吠埼・猿爪と同じ白T姿。サプライズの内容を全く聞かされていないが、
それに必要な服装なのだろう。
 まだ少し遠めの距離で犬吠埼と猿爪に気づき、手を振る浅田。
「2人で最後だよー!雨、すごいからー、他の皆には先に中に入ってもらってるー!」
(…そうなんだ。皆、早いな……)
 浅田の近くまで歩き、足を止めてから、
「待っててくれたんだね。ありがとう」
 猿爪は、ニコッと華やかにスマイルする。
 空いているほうの手を口元へ持っていき、浅田は分かり易く息を呑んだ。
(…わー……。この感じ、久し振りに見た気がする……。ホント会長って、学校の人たちといる時は別人だな……)
 浅田は、一拍置いて、また分かり易くハッと我に返り、
「ど、どういたしましてっ! じゃ、じゃあ、行こうかっ! 」
 裏口を入って行く浅田。
 続く犬吠埼と猿爪。
 控室兼練習場所として、式場スタッフ用の会議室を使わせてもらえることになっている。
 皆の都合が合わず、練習どころか顔を合わせるのも初めてだ。

 少し歩いて「会議室」と書かれたドアの前へ到着。
 浅田の後ろを猿爪が入ると、キャーと歓声が起こった。
(? )
 更にその後ろを入った犬吠埼が目にしたのは、猿爪の呼び掛けで集まった約30名。白T姿の……全員女子。
(…この人たち、本当に雉子先生を祝うために来てるのかな……? )
 そこへ、
「おはようございまーす」
 大きな段ボール箱2つを載せた台車を押して、黒のスーツ姿、浅田を大人にしただけのような顔をした女性が入って来た。サプライズの発案者・この式場に勤める浅田の姉だろう。
「これ、頼まれてた物です」
 言いながら、段ボールを床に下ろそうとする女性。
「ありがとうございます! 」
 猿爪は駆け寄り、得意の華のある笑顔で、
「ボクがやります! 」
代わって下ろした。
 女性の頬が紅潮する。
(…ああ、姉のほうまで……。ホント会長って……)
 犬吠埼は内心溜息。
 女性は誤魔化すように口を開く。
「ど、どうでしょう? こっこれで、だ、大丈夫ですか? 」
 段ボールの中身を手に取り確認する猿爪。
 犬吠埼の位置から見えたのは、カーテンのようなテーブルクロスのような白い大きな布と、造花と安全ピン。
「はい、ありがとうございます! 充分です! 」
 それに対し「よ、よかったです」と頷いてから、女性は他の皆にも向けて、
「でっでは、本日はよろしくお願いします。
 出番は14時頃になる予定です。に、20分前に係の者が、こ、声を掛けさせていただきますねっ」
 早口で言い、まだ少し赤い頬を隠そうとしたのか、そそくさと出て行った。
 そのすぐ後を猿爪、ドアが閉まるのを押さえて止め、1歩外へ丁寧に見送りに出、戻って来て皆を見回す。
「さあ、始めようか! 」


              *


 予定より少し押しているらしく、係の人から声を掛けられたのは13時50分頃だった。
 白Tシャツの上から白いテーブルクロスを古代ギリシアのドーリス式キトーンのイメージで身に着け造花を配った女子たち。花の代わりに猿爪が父親から借りてきた宴会芸用の天使の羽と輪っかをつけた犬吠埼。テーブルクロスは身に着けずに同じく父から借りたという白の角襟とスパンコールの蝶ネクタイ付きのチョーカーを装着し黒いベストを着た猿爪……。各々の衣装の最終チェックをし揃って移動。披露宴会場入口の、観音開きの重厚なドアの前で待機する。
 サプライズの段取りは、
①猿爪をドアの外に残し犬吠埼と女子たちが踊りながら入場。
②新郎新婦を席から連れ出す。
③新郎新婦を囲んで踊りながら、1人ずつ祝福の言葉を言っていく。
④③の最中に「その結婚、ちょっと待った!」と猿爪乱入……これは往年の洋画の名場面のひとつらしい。
⑤「先生のことを愛しています!ボクと一緒に逃げてください! 」と猿爪が愛の告白。
⑥当然断られるので「幸せにならなかったら許さないからな!」と捨て台詞を吐き退場。途中で一旦足を止め振り返り「あばよ! 」……これもどうやら往年の何かのネタらしい。
⑦猿爪の後について、踊りながら他の一同も退場。
……以上。
(……)
 犬吠埼は緊張していた。
(どうして、来ちゃったんだろ……)
 もちろん雉子を祝う気持ちはあるが、ちょっと後悔までしていた。
 ダンスなんて体育祭でやらされる以外したことが無い。しかも会長の他は女子しかいないだけに、どうしても頭1つ分以上の身長差のある自分は悪目立ちするだろうし、加えてこの格好……と。
(皆は女子だし体も小さいから、全身白のヒラヒラした服装に花までくっついてても、仮にそれが天使の羽に変わっても、可愛いからいいだろうけど……)
 そんな犬吠埼の心中を察したか、猿爪、肩を抱き、
「だーい丈夫! とってもキュートだよっ」
 至近距離から華のある笑顔でウインクをひとつ。
 周囲の女子たちがキャーと叫びたいのを静かにしていなければならないので堪えているのか口を押さえて足をジタジタしているのを横目に見ながら、犬吠埼は、
(…いや、絶対にキュートでは……)
 何故か落ち着いた。見え透いた慰めだったが……。
(…体が大きくても、桃太郎さんあたりは似合いそうだよな……。そもそも普段の神職の装束だって一般目線で見れば充分コスプレだし……)
 天使姿の桃太郎を想像する余裕まで出てきた。
 その時、会場入口のドアの隣の普通の大きさのドアから2名のスタッフ。
「お願いしまーす」
 いよいよ出番だ。
 犬吠埼は足元に置いてあった自分の小道具である、花びらを模した薄色の紙吹雪入りの大きめの藤の籠を手に持つ。



 左右に分かれたスタッフによって開かれたドアの正面、会場内に全10卓ほどと思われる丸テーブル同士の隙間を他より多くとることで作られた中央の通路終点の高砂席に、黄色のカラードレスを纏った雉子。
(…先生……)
 キレイ……。見惚れる犬吠埼。周囲の人の流れでハッとなり、共に踏み出した。
 犬吠埼の役割は、踊りながら通路を進む女子たちの中心に陣取り自らも踊りつつ5秒毎に真上方向へ紙吹雪を撒く。
 10と数メートル。距離も時間も、やけに長い。
(…なんか、公開処刑みたい……)
 犬吠埼は、列席者の視線が予想どおり自分に集中しているのを感じた。
 ようやく先頭から4名の女子が高砂席へ辿り着き、各2名ずつ付いて新郎新婦を席から連れ出す。
 新郎新婦を囲み、1人ずつ短い祝福の言葉を言っていき、順番以外の者はBGMに合わせて体を揺らす程度にゆるく踊る。
 その最中、バンッ!
 派手な音と共にドアを開け放ち、
「その結婚、ちょっと待ったぁっ! 」
 手はずどおりに猿爪乱入。
「猿爪クン……? 」
 驚いた様子の雉子と新郎。どよめく場内。
(…そりゃそうだ……)
 しかし、乱入して来た男の服がどう見ても学芸会だからか、その男が明らかに子供だからか、あるいはその両方か、すぐに演出の一部であると分かったようで、誰にも止めに入ったりはされなかった。
 通路をズンズン進み、猿爪は雉子の前へ。右手を手のひらを上に向ける形で差し出し、
「先生のことを愛しています! ボクと一緒に逃げてください! 」
 全てが台本のとおり。
 と、雉子の右手が静かに猿爪へと伸びる。
(? )
 雉子は猿爪の手のひらの上にそっと手をのせ、
「はい」
 この上なく幸せそうに微笑んだ。
(っ? )
 驚き固まる犬吠埼。
 猿爪も驚いたようで目を見開いている。
 入場前の緊張は落ち着いてはいたものの、それでもやはり少しは残っていたのが、いっきにぶり返した。
(どうするのっ? )
 無いはずの動悸をバクバクさせて、犬吠埼は猿爪へ無言の問い。
(雉子先生って、こんなノリ良かったっけ? 気さくっぽく振る舞ってるけど、お堅い人だと思ってた! )
 見開いた目を戻し猿爪、いつも学校でよく見せる華やかな笑みに謎のオトナっぽさをプラス、何とも甘やかに笑んで、自分の手の上の雉子の手をギュッと握ると踵を返し、
(えっ? )
ドアへ向かって駆け出した。その前の一瞬、犬吠埼に目配せをして……。 
 幸せいっぱい実に楽しそうに逃げていく2人の背中。
(め……目配せされても……)
 途方に暮れて見送る犬吠埼。
 2人がドアの向こうへ消える。
(と、とにかく、何かしらの形で幕を引いて、皆で退場しないと……)
 必死に考えを巡らせるが、急がなければとも思ってまとまらず、助けを求めるべく周りを見ても一様に固まっており……。
(儘よっ! )
 犬吠埼は半ばヤケクソ、籠の中に3分の1ほど残っていた紙吹雪を出来る限りの大きな動作で全て天井に向かってぶちまけ、
「おめでとうございまーすっ! 」
 声を張り上げた。
 浅田がビクッと犬吠埼を見て目が合ったので、頷いて見せる。
 頷き返し、
「おめでとーございまーっす! 」
犬吠埼を真似て声を張り上げてから、踊り始め、ドアへ向かう浅田。
 他の女子たちも倣って「おめでとうございます」の声を上げ踊りながら移動、次々とドアをくぐる。
 殿で踊り、会場を後にしようという瞬間、犬吠埼は、ふと思いついて回れ右。空になった籠を右手で一度右斜め頭上へ振り上げてから胸の前を通過させ左脇腹へ持っていくと同時に頭を下げ、ちょっと気取った感じの一礼を演出してから退場した。



 ドアを閉め、犬吠埼は、その場にへたり込む。
(…疲れた……)
 体は当然疲れないが、気持ち的に。
 女子たちも皆、ぐったりとしている。
「皆、ありがとう! 」
 雉子の声に、そちらを向くと、雉子がニッコリ笑って、その場の生徒一同を見回していた。
「こんないい生徒たちに囲まれて過ごせた教師生活は、先生の宝物よ。
 皆、大好き。
 これからは傍にいられないけど、先生は、いつも、いつまでも、心の中で皆のことを応援してるからね」
 昨日の全校集会で全校生徒の前でお別れをしたが、もう一度、話をしてくれるために出て来てくれたのだ。
(…良い先生だよな……。結婚するからって、何も辞めることないのに……。
 まあ、それぞれ考え方もあるから……)
「雉子……ちゃんっ……! 」
 浅田が泣き出し、雉子に抱きつく。
「大好き、だよっ! 私たちのことは、何も心配いらないからっ! だって、雉子ちゃんが、いっぱいいっぱい、くれたからっ! 今まで私たちのことばっか考えてくれてた分、これからは自分のことを一番に考えて、絶対、絶対、幸せになってねっ! 約束、だよっ……! 」
(…先生が良い先生なら、生徒も良い生徒だな……)
 犬吠埼もつられて泣きそうになった。
 雉子は浅田の両肩に手を置き、宥めるようにポンポン。体を離して、
「卒業式までいられなかったから、ここで、先生に、皆を見送る側をやらせてね」



 会場のドアの前に立つ雉子に見送られ、控室へ戻る生徒一同。
 別れを惜しんでか、絶え間なく誰かは後ろを向いている。
 おそらく雉子も桃太郎のメンテナンスを受けに来るため、犬吠埼の場合は、他の皆に比べてまた会える可能性が高いのだが、角を曲がるので完全に見えなくなる寸前、もう一度と振り返った。
 雉子は手を振っている。
 少し寂しげながら穏やかで晴れやかな、卒業生を見送る教師に相応しい笑顔で……。

桃太郎異聞(9)

*第8話「お姉ちゃんのプリン」

(あれ? 浅田先輩? )
 下校途中に食材を買うため立ち寄ったスーパーで、牛乳を手に取ろうとしていた犬吠埼は、すぐ近くのデザートコーナーに、私服姿に通学時のサブバッグとして使用している個性的なトートバッグを肩に掛けた環境委員長・浅田の後ろ姿を見つけた。私服、しかも後ろ姿など見落としそうだが、完全にトートバッグのおかげ。
 昼休みに委員会のアンケートを届けに教室を訪ねたところ、今日は欠席していると、クラスの人から聞かされていた。
 アンケートは副委員長に預かってもらったので、それを伝えようと、犬吠埼は牛乳をカートに入れてから、
「先輩! 」
声を掛ける。
 振り返った浅田は、
「犬吠埼、今、帰り? 」
 いつもと変わらない明るく元気な笑顔。
(元気そう……。…そう言えば欠席の理由は聞いてなかったか……)
 3連のプチットプリンでいっぱいの浅田のカート。
 犬吠埼の視線が自分のカートの中のプリンなことに気づいたようで、浅田、
「お姉ちゃんがね、プリン好きなの。だから、いっぱい食べさせ……」
 言いながら、顔は笑ったまま涙がポロリ。
「せ、先輩っ? 」
 涙はポロポロポロポロポロポロポロポロ……止まらない。
「だっ大丈夫、ですかっ? 」
 狼狽える犬吠埼。
「と、とりあえず、一旦、で、出ましょうか……! 」



 浅田のカートはいっぱいとは言えプリンのみで、しかも売場は目の前。犬吠埼のほうも、まだ牛乳とキャベツしか入れてなかったため、一旦全て元の位置へ戻し、2人は店を出た。
 人目を避け、スーパー裏手の遊具の錆びついた雑草だらけの公園へ。
 唯一まともに座れる場所である傾いたブランコに浅田を座らせる。
 そのまま数分。
「ごめんね、ありがとう」
 俯き気味に、ぽつりぽつり話し始める浅田。
「昨日の朝早くに、お姉ちゃん、自殺しちゃって……」
(自殺っ? 一昨日の先生の披露宴の時は、普通に元気そうだったのに……っ? )
「幸い発見が早かったから体のほうは何ともないって、お医者様が言ってたんだけど……」
 驚いたが、体が何ともないと聞き、犬吠埼は、ひとまずホッ。次の言葉を静かに待った。
「目を、覚ましてくれなくて……。
 今の時点で、もう丸1日半以上、何も食べてないから、お腹空いたんじゃないかなって、起きたらすぐ食べれるように用意しとこうって、初めは消化のいい物がいいなって、お姉ちゃん、プリン大好きだから、プリンが丁度いいなって……」
(…そう、だったんだ……)
「辛い…ですね……」
「うん」
「…でも、どうして自殺なんて……」
 口に出したつもりは無かった。気づいて慌てて口を押さえる。
「すみません! 関係無いのにっ! 」
「ううんっ! 」
 顔を上げ、浅田は真っ直ぐに犬吠埼を見た。
「そんなことないよ! 心配してくれてるんだよねっ? ありがとうっ!
 …それにね、無関係ってワケでもなくて……」
(…無関係じゃ、ない……? )
 浅田は説明する。雉子が、一昨日の披露宴の自分たちのサプライズ後、会場へ戻らずに「披露宴に関わって下さった全ての皆様」宛の手紙をドア外側に貼りつけて失踪したこと。姉の自殺は、失踪が姉のサプライズ企画のせいであると、雉子の両親から責められたためであること。
(失踪って……。どうして、そんな……)
「雉子ちゃんの手紙ね、お姉ちゃんが見つけて、先ず、ご両親に渡したら、ご両親はザッと読んで破こうとしたらしくて、でも、それを新郎の方が取り上げて、読んだ後、手紙の中の指示どおりに会場内で列席者の方々もいる前でマイクを使って読み上げてから、お姉ちゃんに返されたんだって。
 お姉ちゃんがお風呂で手首を切った時、遺書と一緒に置いてあったの。披露宴に関わって下さった全ての皆様へって書いてあったから、私も読んでいいはずって思って、読ませてもらったんだけど……。
 私ね、お姉ちゃんのことより雉子ちゃんのことが心配で……。
 だって、体は何ともないって、お医者様が太鼓判捺してくれてるし、目さえ覚ましてくれたら、お姉ちゃんには、私もお父さんもお母さんもいるから、あとはプリンがあれば完璧でしょ?
 でも、雉子ちゃんは……」
 言いながら、浅田はトートバッグの中をガサゴソ。開封済みの白い封筒を取り出し、
「これが、その手紙。犬吠埼も読んでみて……」
 犬吠埼に差し出す。
 条件反射で受け取る犬吠埼。
「サプライズに参加してた誰かに偶然にでも会えたら相談したいと思って、持ち歩いてたの」
 浅田の話を聞きながら、犬吠埼は手紙に目を通した。
「披露宴に関わって下さった全ての皆様へ」と宛名書きされた、その手紙は、酷い内容だった。
「お願いがございます。この手紙を披露宴会場内にいらっしゃる皆様の前で読み上げていただけないでしょうか?
 この手紙が読まれているということは、私は既に皆様の前にいないのですね。どなたが読まれておられるのでしょう?
 いなくなった身で何のお礼を致す術もございませんが、冒頭に書きました私の最後のお願いを聞いていただけたら幸いです」
 という書き出し。この願いを聞き入れ、新郎は読み上げたのだ。
 続く内容は失踪の動機。
「私は両親を恨んでいます。その御尊顔に泥を塗って差し上げたく、結婚式あるいは披露宴の最中の失踪が効果的と考え、実行致しました」
「少し前までは大好きでした。正確には、そう思い込まされておりました」と、両親を恨んでいる理由も綴っている。
 幼少期からピアノを習わされていたこと。他の全てをなげうってと言っても過言ではないくらいに打ち込まされてきて、それなりの結果も出してきたこと。にもかかわらず、やっと雉子自身がそれを楽しいと感じられるようになってきた高校3年生の春、「ピアノなんて将来何の役にも立たない」とやめさせられ、ピアノに触れることを禁止までされたこと。
 新しく始めさせられたのは受験勉強。「大学へ進んで教員になれ」と。雉子は言われたとおり勉強し大学へ進学し、教員になった。自身で選んだ職業ではないが、やりがいを持って取り組める大好きな仕事だった。生徒たちは皆、可愛くて、昼夜オンオフ問わず生徒たちのことだけを考えて過ごせて幸せだった。充実していた。天職であると思った。何より、やっと親の望みどおりの人間になれて誇らしかった。だが違った。1年ほど前、「子供は思いどおりにならないって、花霞を育てて知った」と。敷かれたレールを走ってるのに。悪い夢から醒めた気がした。かえがえなかった日々が零れていくのを感じたこと。
 幼い頃は親に怒られるのが怖くて、ただ言うことを聞いた。小学生くらいになって、自分のチャレンジしてみたいこと等を伝える度、「難しいよ」と否定され自分がいかにダメな何も出来ない子であるかを繰り返し説かれ、そのうち何も言わなくなった。親が全て正しいのだと、従っていれば親は喜ぶし親が喜んでくれるのは嬉しかった。完全に刷り込まれていた。それが証拠に夢から醒めてなお、「女が仕事ばかりしていたって仕方ない。そんなだから恋人も出来ないんだ。いい歳して恥ずかしい」と、言われるまま見合いをし結婚を決めたこと。
 しかし「結婚したら仕事を辞めて家庭に入れ」。またか、と思った。また奪うのかと。何のためにピアノを習わせた? 何のために教員にならせた? 奪って悲しむ顔を見て楽しむため……さすがにそんなふうには思わない。自慢出来る何かが欲しかったのだろうと思う。「いい歳して恥ずかしい」の言葉を思い出し腑に落ち着いた。傍目を気にしているのだと。結婚生活も、楽しくなってきた頃になって奪われるのだろうと思うと、そもそも頑張る気力が起きなかったこと。
「自分は何も出来ないダメな子なので親に従わなければなりませんが、もう無理であると悟り、逃げることを決めました。泥はせめてもの置き土産です」
と締めくくって。
 あとは新郎へ「お見合い以降の短い付き合いでしたが、あなたのことは人として尊敬しています。巻き込んでしまい、申し訳ございませんでした」との謝罪と、「先日あなたの車に乗せていただいた際に、助手席のシートの下に今回の結婚に関連して発生した全ての費用分の現金を置かせていただきました。後ほどご確認下さい」との補償の話、「お金しかお返し出来ず、本当に申し訳ございません」と重ねて謝罪。
 そして最後に、列席者と式場スタッフへも、無駄な時間と労力を使わせてしまったことへの謝罪。
(……)
 便箋を封筒へ仕舞い、浅田に返す犬吠埼。
 浅田、受け取りながら、
「どう、思った? 」
(…どう、って言われても……)
 雉子の気持ちが、犬吠埼には、よく分からなかった。ただ、手紙内の文の量の配分的に親子関係で苦しんでいたんだなと、それは過去形ではなく仮に結婚したとして以降続くことの予想できる根の深いものらしいと、推察するのみ。
 自分の取れる具体的な行動も思いつかない。「先生は自分からいなくなったんだから、そっとしておいてあげるのが一番かな」と。けれども、それを口に出してしまうと冷たく聞こえる気がして……。
 答えに詰まる犬吠埼に、浅田はちょっと笑って見せる。
「ごめん、急に聞かれても困るよね? 」
 言って、ブランコから立ち上がり、
「話したら落ち着いた。ありがとね。買物あるのにごめんね。スーパーに戻ろ! 」

 スーパーへと、軽く弾むような足取りの斜め後ろ姿。何だか無理をしているように見えて……。
(…会長だったら……。もしも会長が今の僕だったら、どう答えたのかな……?
 きっと無理じゃなくて、ちゃんと元気づけれたんだろうな……。
 桃太郎さんの時と違って、先輩とは1つしか歳が違わないのに、結局ダメじゃん……)
 つくづく自分の無力さ加減が嫌になった。



                  *



 買った物を置きに、一度、自宅アパートへ戻り、着替えもしてから、メンテナンスをしてもらうべく、犬吠埼は桃太郎のもとへ。
 訪ねるのは2日振り。雉子の結婚式の日は、母が珍しく職場の人と飲みに出掛けたので夕食を自宅で食べず、そうなると当然犬吠埼は一切飲食をしないためと、特に他に変わったことも無かったので、昨日はメンテナンスを受ける必要が無かったのだ。
 鳥居を1歩、入った瞬間、
「原状恢復! 」
 桃太郎の声と共に、
(っ! )
 犬吠埼は神社から放り出され、鳥居前の階段下の車道に尻もち。
 丁度通りかかった原付と衝突しそうになり、紙一重で避けた運転手の男性が「気をつけろ! 」と怒鳴り去って行くのを見送る。
「犬吠埼君! 」
 慌てて出て来る桃太郎。
「ごめんなさい! 大丈夫っ? 」
 言いながら手を貸し立ち上がらせ、
「一昨日の豪雨で落ちた枝とか葉っぱとかを片付けようとしてたとこなんだ。昨日はちょっとバタバタしてて出来なくて……。
 すぐ済むから、ちょっと待っててくれる? 」
 頷く犬吠埼に頷き返してから、桃太郎は階段を上がり、鳥居の真下に立って神社へ向かい略拝詞を唱え、大幣を左・右・中央。
「原状恢復! 」
 犬吠埼の位置からでは鳥居のすぐのところくらいしか見えないが、それまで乾いていた散らばる枝葉が地面ごとビシャビシャに濡れた。
「原状恢復! 」
 繰り返し唱える桃太郎。
 それにより、枝も葉も落ちていない乾いたキレイな状態に。
(…どうして2回……? )
 犬吠埼は、服の濡れたのや汚れたのは1回で元に戻るのに、と、不思議に思い、「お待たせ」と振り返った桃太郎に聞いてみる。
 答えは、
「連続している異状の原因の1区切り毎の恢復になるから」
(ああ、だから先生の車も1回の原状恢復だと野球ボールの凹みがそのままだったんだ……)



(…先生……! )
 メンテナンスに使用する水を用意するから先に行っているよう桃太郎から言われ、部屋の入口の襖を開けたところで、犬吠埼は足を止めた。
 開け放した障子の向こうの広縁で膝を抱える相変わらずの安寿の隣に、床にペタンと座る雉子の横顔。
 全く反応の無い安寿に大きな身振り手振りを交え何やら話し楽しげに笑う。
 それを少し離れて大窓の枠に寄り掛かり微笑ましく見守る猿爪。
(…って、別に驚くことじゃないよな……。体の状態を維持したいって考えてることが前提だけど、メンテナンスが必要になれば来るよ。
 披露宴のサプライズの後、別れ際にも確かそんなことを思ったっけ。また会える可能性が高いって……。失踪前だけど……)
 しかし失踪後の今、ここにいることこそ、今後も自分を大切に存在し続けていく意思の証明と、犬吠埼は安堵する。
(明日にでも浅田先輩に言おう。先生を見掛けた、元気そうだった、って。
 それだけでもきっと、少しは心配が軽くなるよな……。詳しく話せれば、ちゃんと安心してもらえるんだろうけど、それは無理だから……)
 と、後ろから、
「犬吠埼君? 」
 水の入った洗面器とタオルを手にした桃太郎。
 犬吠埼はハッとし、
「あ、す、すみません」
桃太郎に対して反射的に言い、
「こんにちはー」
誰に言うともなしに言いながら、部屋へ入った。
「やあ」
 猿爪が、いつもの調子で軽く返す。
 雉子は、
「あ、犬吠埼クンっ! 」
 体ごと犬吠埼のほうを向いて、
「一昨日はありがとね! 」
(…これは、どう返せばいいんだ……? )
 反応に困る犬吠埼。
 察したようで雉子、上目遣いで窺うように、
「もしかして犬吠埼クン、知ってるの? 」
「はい。下校途中に寄ったスーパーで、偶然、浅田先輩に会って、聞きました」
「…そっかー……。浅田サンは、お姉サンが式場のスタッフさんなのよね……」
 雉子はバツが悪そうに小さく笑い、
「ごめんね。せっかくお祝いしてくれたのに……」
 犬吠埼は、
(…何だ? この感じ……)
 吐き気を催し、口を押さえる。
「あの後、手紙を会場のドアに貼りつけて抜け出して、真っ直ぐに、ここ、桃太郎さんのお宅へ向かって、それからここでお世話になってるの」
(うん、まあ、ここは都合がいいよな。隠れるにも、体の面でも……)
 心の中で、きちんと言葉にして肯定しているのに、
(…何だろ……? 何か、素直に話を聞けてない感じがする……)
 自身に途惑う犬吠埼。
 雉子の説明を猿爪が補足する。
「ボクが手引きしたんだ。
 先生が死んですぐの頃、ちょっとあってね。たまたまボクが居合わせたから、それ以来、相談に乗ってた。家庭環境に似てるところがあるから、気持ちも分かるし」
(そう言えば、前に言ってたっけ……。期待されてるから大変、みたいなこと……)
「ボクのところは、ボクがやりたいことをやって、その全部について親が応援してくれて期待してくれてるだけなんだけどね。ボクの望んでない、本気でやめてくれって思うことと言ったら、毎日オヤツに牛乳とカルシウム入りの何かを出してくることくらい。
 で、浅田さんからサプライズの話を持ちかけられて、これだ、って思ったんだ」
(…つまり……? あのサプライズは初めから……? )
 犬吠埼は目眩がした。
「…全然、知らなかったです……」
 突然の原因不明の体調不良を堪えながらの犬吠埼に、猿爪は得意げ。
「うん、敵を欺くには先ず味方からって言うでしょ? 」
 犬吠埼の脳裏に、浅田の泣き顔が浮かんだ。
 直後、
「犬吠埼君っ! 」
 桃太郎の声。
 同時、二の腕を後ろ方向へ引っ張るように掴まれ、気遣わしげな桃太郎の顔が視界に割り込む。
「大丈夫? 」
(……? 大丈夫って、何が……? )
 視界3分の2を占める桃太郎の顔の向こう、手を伸ばせば届く距離に、驚きに少し恐怖の混ざった表情で固まる猿爪。
 桃太郎に掴まれている腕の先にあるのは、不自然に胸の高さで握られた拳。
 その内側に微かな痛みを覚えて解いて見れば、親指以外の四指の付根下の丘に、爪の食い込んだ痕。それほどまでに強く握っていた。
(…僕、何を……?
 …どうしてか分からないけど、急に先輩の泣き顔を思い出して……。その後……? )
 全然記憶が無い。
「とりあえず、座ろうか」
 桃太郎は腕を放し、代わりにそっと肩に手を添えて、犬吠埼を広縁から手前の部屋の畳の上へ誘導。隅に積んであった座布団を1枚、片手を伸ばして取って敷き、
「ほら、ここへ」
「…はい……」
 言われるまま座布団へ落ち着く犬吠埼。再度、自分の手のひらの丘の爪痕を眺めた。
(…状況からして……。会長を、殴ろうとしてた……?
 吐き気や目眩は、怒ってたから……?
 先生が辛い思いをしてたのは知ってる。手紙を読んだ。会長は家庭環境に通じるものがあって先生の気持ちを理解出来るから手を差しのべた。
 会長も先生も悪くないのに……)
 鳩尾が燻る。
 キラキラした目で犬吠埼を驚かせようとした浅田。雨の中、遠目の距離から手を振り大きな声を出す浅田。サプライズ時、実はハプニングでも何でもなかったが、犬吠埼のパスを拾って、いの一番に動いてくれたのは浅田だった。いつも元気で明るく素直、一生懸命。そして優しい。雉子との別れとプリン売場の2つの涙。優しさゆえに一生懸命嘘つく素直。
(…嘘……。先輩には、一番似合わない……。僕が、そうさせた……。僕が、不甲斐ないから……。
 完全に無意識だったけど、会長と先生に八つ当たりしちゃったんだ……。だって、2人は多分、知らないのに……)
 犬吠埼は気持ちの上でだけの深呼吸をし残り火を消火してから顔を上げ、2人を交互に見、
「……浅田先輩のお姉さんが自殺未遂をされたの、ご存知ですか? 」
 やはり知らなかったようで、猿爪も雉子も驚いた様子。
 犬吠埼は続ける。
「僕もさっき、先輩から聞いて知ったばかりなんですけど……。
 先生の失踪をサプライズの企画のせいだと、先生のご両親から責められたことを苦にしてのことだそうです。昨日の早朝に。
 幸い発見が早くて、体のほうは何ともないとお医者様が仰っていたそうなんですけど、目を覚まさないらしくて……。
 でも先輩は、お姉さんより先生の心配をしていました」
「…そうだったんだね……」
 驚きのためか、猿爪は小さく掠れた声。
「…それで、浅田さん自身は、どんな様子だったの……? 」
「プリンを買われていました。お姉さんが目を覚ましたら食べさせるんだ、って……。
 明らかな空元気でした」
「…そうか……。浅田さんらしいね……」
 俯き、口を噤む猿爪。
 沈黙が流れる。
 ややして、
「…アイツら……! ほんとクソね……! 」
 雉子が呻くように言った。拍子、彼女の口元から長さ3センチくらいで、ある程度の厚みのある柔らかそうな何かがポトッと落ち、床に転がった。
 一瞬そちらに気を取られてから雉子に目をやる犬吠埼。
(っ? )
 雉子の顔に下唇が無い。自ら噛み切ってしまったようだ。
「言い返してこない弱い立場の人を攻撃して……! なんて卑怯なの……っ? 」
 ギザギザの断面を歪ませて、吐き捨てるように続ける雉子。
「やっぱり、殺してやればよかった……! 」
 両手をグーにし、床にダンッと打ちつける。床に穴があき、手首から先が埋まった状態。縦方向に埋まったものを勢いよく横方向で引き抜いて、割れた床材で皮膚が削げ落ちた。
「殺してやれば……! 殺さなきゃ、いけなかったのよ……! 」
 繰り返し、雉子は床に拳を叩きつけようとする。
 初めて見る雉子の激しい様に、犬吠埼は呆然としてしまう。
 猿爪が、
「…先生……! 」
 動きを封じようとしたのか、抱きしめた。
 しかし止まらない。
「ねえ、猿爪クン……! やっぱり殺さなきゃダメだったのよ……! 猿爪クンの提案を呑んで私が失踪するだけにしたけど……!
 浅田サンのお姉サンが助かったのは運が良かっただけ! 死んでしまったかも知れないのに……!
 甘かった……! 甘かったわ……! 」
「先生……! 先、生……っ! 」
 まるで祈り。ただただ抱きしめる猿爪。
 そこへ、桃太郎が低く静かに、
「猿爪君、離れて」
 猿爪はビクッ。雉子を抱きしめたまま、顔だけで桃太郎を振り仰ぎ、酷く怯えた様子で弱く首を横に振る。
「…あの……それだけは……」
 猿爪の反応に犬吠埼は、
(……? )
 会長は桃太郎さんと長いから前に何かあったのかな……? と軽く結論づけた。
「許して、ください……。今、大人しくさせ……」
「離れて」
 桃太郎は猿爪の懇願を高圧的に被せて遮り、
「祓へ給へ清め給へ神ながら守り給へ幸へ給へ」
 心ならず、雉子を見つめながら後ろ歩きで離れる猿爪。
 大幣が左、右、と振られ、最後に雉子に向けられる。
「繋縛! 」
 大きなしゃっくりをしたように一度ビクンとなったのを最後に、雉子の動きが止まる。言葉も。目だけが暗く力強く桃太郎を睨めつけていた。
 桃太郎は真っ直ぐに視線を返し、歩み寄る。
「強引な止め方をして、ごめんなさい。複雑な形状をした傷口の場合、動かし続けることで形が変わり易いし、そうなるとキレイに治せなくなってしまうから。
 苦しい? 苦しいね? ごめんね。動きを止めるだけなら眠ってもらう方法もあったけど、少し話を聞いてほしくて……。暴れないなら解くけど。どのみち傷を治すには、同時に2つの術を使うことは出来ないから……。
 …でも、その様子だと、暴れそうだよね……? 」
 困ったな……と桃太郎は苦笑。
「雉子君は、正直、オレのことが嫌いなんだよね? オレのことが、って言うより、親というもの全体に対するアレルギーかな? オレは安寿の親みたいなものだから……。
 そして、無条件に子供の味方。……うちに来て以降、丸2日間以上、ずっと安寿に寄り添っていてくれたよね? ありがとう」
 ひとつひとつ丁寧に選びながらといった感じで言葉を紡いでいく。
「『浅田さん』というのは、君と猿爪君と犬吠埼君の共通の知り合いで犬吠埼君が先輩と呼んでいるところから察するに、君の教え子だね? 君の大好きな、大切な存在。
 そんな子が、君を心配しているって。失踪したことへの心配だから会えば安心するだろうけど、その時に君の顔に傷痕が残ってたら、どう思うかな? また別の心配をしてしまうんじゃない? そんなの可哀相だよね? そうなったら、君だって辛いよね? 気持ちを吐き出すのはね、いいことだよ。ここには味方しかいないから、思いっきり感情を爆発させたらいい。ただ、後で。傷を治してからね。
 説教くさい言い方になってごめんね。でもね、オレは君を、猿爪君や犬吠埼君のことも、怒る資格なんて無いけど、それと同じ理由で、出来る限り幸せに過ごさせてあげる責任と、同時に心配をする権利があると思ってるから」
(…桃太郎さん……)
 桃太郎の言葉に、犬吠埼は、自分のことをそんなふうに考えてくれていたのだと、申し訳なさ半分、感動をしたが、雉子には響いていないようで、その様は、さながら罠に拘束された傷ついた獣。
 解こうものなら襲いかかってきそうだ。
 その時、それまですぐ隣で大暴れされていても全く動じずにいた安寿が、ス……と雉子に手を伸ばした。
(…アンちゃん……? )
 安寿の手が雉子の肩に触れる。
 途端、雉子の目からフウッと力が抜けた。
「解除! 」
 桃太郎が繋縛を解く。
 目を閉じ不安定に揺れて床に崩れる雉子。
(先生っ? )
 立ち上がろうとする犬吠埼に、桃太郎、
「大丈夫。眠ってるだけだよ」
 軽く状況を伝え、安寿に、
「ありがとうね、安寿。これで治療が出来るよ」
 安寿は無反応。いつもの膝を抱えた姿勢に戻った。
(…すごくない……っ? アンちゃんって……!
 だって、これ、桃太郎さんがやるとしたら、きっと、略拝詞を唱えて大幣を振って……。それをただ触るだけって……! )
 犬吠埼は驚き、そして、実は気にし続けていた雉子の死んだ日の一件について、仕方の無いことだったのかも知れないと思えた。もし自分が学校へ行かずに残っていたとしても、一緒になって眠らされただけなのでは、と。
(……生きている人たちの眠りとは違うんだろうけど。だって、死んで以降、睡眠が必要ない……っていうか、眠ろうとしても眠れないから。
 今の先生の状態も……)
 雉子の穏やかな寝顔を、犬吠埼は遠目に見守る。



桃太郎異聞(10)


*第9話「お迎え」

 畳の上に布団を敷いて、眠ったままの雉子を移動させ、治療に取り掛かる桃太郎。
(先生……)
 傍らで見守る犬吠埼と猿爪。
 本来見えるはずのない部分の剥き出しになった傷口は、遠目には気にならなかったが近くで見ると痛々しい。
 先ずは右手の皮膚の治療。周囲の皮膚からの再生を試みる。
 略拝詞を唱え、大幣を左・右・患部。
「治癒」
 やっている事としては犬吠埼の擦り傷を治した時と同じだが、範囲からして広く、深さも皮膚に止まっていない感じで、時間がかかっている。
 15分ほどが経過し、キレイな状態に戻った。
 一度、桃太郎は小さく息を吐き、続いて左手。
 こちらは床材の細かな破片が刺さってもいたため、ピンセットで除くところから。
 全て除去したことを注意深く確認し、
「治癒」
 あとは右手と同じに治療していく。
 そこからはやはり15分ほど。
 元に戻った左手を、先に治した右手と見比べたり何だりしてから、頷き、今度は右手を終えた時より少し長めに深く息を吐いた。
 そしていよいよ、素人目にも大変そうな下唇に着手。
 本体と、噛み切り離してしまったほう、それぞれの断面の観察から始める。
 下唇のあったはずの位置に、離れてしまった下唇をそっと置き、大幣を左手だけで持って左・右、自身の右手へ。
「縫合」
 大幣を背中の定位置へ差して両手を空けると、雉子に覆い被さり気味に、左手で顎と下唇を支え、右手人指し指を向けた。
 目を凝らし、慎重に慎重に、繊細な指先が断面と断面の間を行ったり来たり。時折、糸のようなものが光る。
 桃太郎は、最小限と思われる語を唱えた以外、無言。これまで目にしてきた治療の場面では喋りながらだったのだが、それだけ大変ということなのだろう。汗が滴る。
 汗をかいているところなど、初めて見た。
 猿爪が、手近にあったタオルで遠慮がちに拭う。



                  *



 下唇の治療を始めてから1時間が経過した。
 手を止め、大きく息を吐きつつ身を起こす桃太郎。
(…え……? これで終わり……? )
 雉子の下唇は、元の位置に一応くっついているといった感じ。ガタガタだ。
(…まあ、先生が自分でやってしまったことだから自業自得だけど……。目が覚めたらショックを受けるんじゃ……? )
 犬吠埼の不安を他所に、桃太郎は手応えを感じているような表情。
 大幣を手に取り、左・右・雉子の口元。
「治癒」
 10分ほどで、ガタガタしていたのがスルンと滑らか、完全に元通りに。
(…よかった……! あれで終わりじゃなかったんだ……! )
 犬吠埼はホッとする。
 その時、
(……? )
 広縁のいつもの場所の安寿が不意に立ち上がった。
 雉子の死んだ日以降、犬吠埼が安寿の立ち上がるのを見るのは初めて。食事も、いつも誰かしらが目の前まで運んでいたから。
 先刻の雉子を眠らせた手を伸ばしただけの動作でさえ、ここ暫くの中では大きな動きだった。
 夜の闇に沈んだ外との境界である黒い大窓を、ただじっと見つめる安寿。
 ややあって、ガガンッ! ガシャンッ!
 大窓が大きな音を立てて勢いよく開き、もともと建て付けが悪いせいもあってか外れ、倒れてガラスが割れる。
(っ? )
 同時、梅雨時期のぬるく湿った風が、ブワッと吹き込んだ。
 犬吠埼は腕で風を防ぐ。
 音のためか風のためか両方か、目を覚まし起き上がる雉子。
 いつの間にか濡れ縁に、歳の頃30代前半くらいの和装・黒髪の華奢な男性が立っていた。
 犬吠埼の全身表面に、蜘蛛の巣が纏わりついた感触。
「ダメッ! 」
 悲鳴に近い声を上げ、両腕を広げて、男性の前に立ち塞がる安寿。
 纏わりつく感触が消える。
 男性は、へぇ……と感心した様子。
 安寿は男性を見据え、
「アンのこと、お迎えに来たんでしょ? お父さん」
(お父さんっ? …アンちゃんの、お父さん……? )
 フッと笑いを漏らし、それを消化してから、
「話が早くて助かるよ」
 しっとり落ち着いた声で返す男性。
 安寿は頷き、
「ひとつだけ、聞きたいことがあるの」
「うん、何? 」
 安寿は、どうやら次の言葉を躊躇っている。
 男性は優しい眼差しで待つ。
 見た目に明らかに、安寿は、言おうとして、やめて、言おうとして、やめて、と繰り返し、ようやく思いきったように、
「…アンが……、アンが一緒に行ったら、嬉しい……? 」
「もちろん」
 甘やかな笑みと共に即答する男性。
 無事に残っている窓に映る安寿の口元が、照れたように嬉しそうに緩んで見えた。
「じゃ、行く」
 言って、安寿は男性のすぐのところまで歩み寄り、右手で男性の左手中指だけをキュッと握る。
 男性は愛しそうに安寿を見下ろしながら、踵を返した。
 連れ立って、ゆっくりと濡れ縁の向こうの闇へと向かう安寿と男性。
(…本当に、行っちゃう……? )
 桃太郎に目をやる犬吠埼。
 桃太郎は目を見開き小刻みに震え固まっている。
 数歩、歩いて立ち止まり、安寿は後ろ姿のまま、
「桃太郎、今までごめんね」
 それから、キュッと男性の指を握りなおし、また歩き出す。
(…『ごめんね』って……。アンちゃん……)
 桃太郎と安寿、どちらの立場にも悲しい言葉が、犬吠埼の胸を詰まらせた。
 と、
「待って! 」
 雉子が立ち上がりざま、安寿に向かって叫び、駆け出す。
「『ごめんね』って何っ? まだ10歳のアンちゃんに、自分のせいなんてひとつも無いわよっ?
 アンちゃんが本当にお父さんと行きたいなら別に止めないけど、ちょっとだけ待って! もしかして、って思うから伝えておきたいことがあるの! 」
 既に濡れ縁から降り、闇に翳む小さな背中。
「世界が自分を爪弾きにしてるって感じても、それは気のせいよ! アンちゃんは誰かの世界の隅っこにいさせてもらってるわけじゃない! いつだってアンちゃんの世界の中心にいるの! だから、こんな世界って泣くより怒って! 他の誰を嫌って恨んでもいいけど、アンちゃん自身のことだけは嫌いにならないで! 本当に大事なところは我儘でいいの! 後悔するから! だって自分の人生だもの! 自分を縛ってきた何もかも、責任なんて取ってくれないんだから! それにね、自分を一番縛っているのって、結局自分だったりするものよ! 
 私は、この歳になって気づいて、でも勇気が無くて縛られ続けて、アンちゃんが力尽くで解放してくれてやっと、初めて自分を生きてる気がするの! 」
 追いかけて濡れ縁を降り、早口の大声でひと息に喋って、そこまでで一旦切ると、より大きな声で、
「ありがとう! アンちゃんと出会えて、私、幸せよっ! 」
 再び立ち止まり、驚いたように振り返る安寿。
 男性も、少し頭を傾ける程度に振り返った。
 刹那、犬吠埼は、とても嫌な感じがした。
 先程の蜘蛛の巣の感触を思い出す。
(…先生……! )
 漠然としているが強い不安感に、突き動かされるように犬吠埼は走り、雉子へと全力で右手を伸ばした。
 一瞬早く、
「先生! 危ないっ! 」
 猿爪が濡れ縁の縁を蹴って割り込み、雉子に飛びついて自身と位置を入れ替える。
 直後、
(っ! )
 感触のみの蜘蛛の巣の網目サイズに刻まれ、犬吠埼の右腕と猿爪の全身が地面に崩れ落ちた。
 痛みは大して無いが、さすがに気を半分取られる中、安寿と男性が静かに融けるように闇へ消える。
(アンちゃん……! )
 闇が周囲を、初めは薄く、次第に濃く、黒い霧のごとく覆う。
 犬吠埼から最も遠くにいた桃太郎の姿が見えなくなり、次に雉子。自身の腕と猿爪の肉片も紛れて消え、全てが呑まれた。
「犬吠埼君っ! 」
 慌てた様子で黒霧を掻き分け視界に現れた桃太郎。
 しかし、すぐにまた呑み込まれていった。





桃太郎異聞(11)

*第10話「黒霧の向こう」

(…ここ、どこ……? )
 黒霧が晴れた時、犬吠埼は、木々に囲まれた開けた場所にいた。
 大きな月に照らされ明るい。
 桃太郎宅の敷地ではない。立ち並ぶ木々に奥行きがあるし、だいたい家屋が無い。
 目の前に桃太郎、少し離れて雉子と、それぞれ犬吠埼を基準として呑み込まれる前の位置関係でいるのを認め、何かが頭の中を過ぎって何の気なく足下に目をやる。
 そこには、自身の右腕も混ざっているはずの肉片の山。
(…会長……っ! )
 焦って身を屈め声を掛けようとした時、
「ここは、どこなんだろうね? 」
 肉片の一部がモゾモゾ動き、猿爪の声が、いつもと全く変わらない調子で言った。
 ひとまずホッとする犬吠埼。
 続けて喋ろうとしたふうの猿爪を、
「シッ! 」
桃太郎は潜めた声で制し、
「静かに。何かいる」
辺りを窺う。
 雉子も、他3名のほうへ。
 ややして、グル……と地を這うような唸り声とともに、長毛の大きな犬が20頭ほど、殺気立った様子で木々の間からゆっくりと姿を現した。
 背中定位置から大幣を取り、略拝詞を唱える桃太郎。
 そうしている間に、
(っ! )
 犬たちは飛びかかってきた。
 雉子が緩く握った左拳を縦にして前へ突き出すと、ポウッと鈍く光って弓が出現。
 続いて矢を番えるポーズをすると、実体のあるようにも無いようにも見える光り輝く矢。そのまま真上を向き、
「ゴメンね……」
小さく呟いてから矢を放つ。
 矢は無数に分かれて夜空に光の放物線を描き、ドスドスドスドスドスドスッ! 犬たちを射抜いた。
(…スゴい……! 先生は弓か……! )
 その正確さに美しさまで備わった攻撃に感嘆する犬吠埼。
 直後、略拝詞を唱え終えた桃太郎が、大幣を左・右・中央と振った後、右手のみに持ち替え、空いている左手のひらは開いた状態で、左右同時に真横へバッと勢いよく腕を伸ばした。そしてすぐに引っ込め、上体を素早く90度捻って再度伸ばし、
「障壁生成! 」
 一同の周囲の四方を、無色透明の大きく分厚いガラス板のようなものが囲った。
 矢に射られずに向かって来ていた犬たちが、それにぶち当たり怯む。
 向かって来る存在が無くなり静かになって気持ちがやや落ち着いたことで、
(…僕、生きてる犬たちが目の前で射抜かれるとこを見て、ただ、先生のことをスゴいって思っちゃってた……! )
 犬吠埼は、今し方の自身の感情にショックを受けていた。
(前にも思ったことあったけど、僕、時々、感覚がおかしくなってる……? )
 攻撃したこと自体は、自身と猿爪、雉子はともかく、桃太郎を守るためには仕方の無かったことと分かっているが、と。
 そこへ、
「ポチ―! おーい! ポチやー! ポチどもー! 」
 男性の声。
 声は初め遠く、次第に近く。
 少しして、ポチ―、ポチ―、と呼びながらやって来たのは、明るいと言っても夜であり薄暗いためか灰色がかった血色の悪い肌色をしているように見える、ずんぐりむっくりな体に丈の短い和服を緩く着た、頭髪の無い中年男性。
 力は入っていないながらも4本の脚で立ち犬吠埼たちに警戒したような視線を向けている犬たちに、まずは目が行った様子で、
「ポチどもー、こんな所におっただかぁー。捜したぞー。心配させてー、いけない子らだなあー」
ニコニコ歩み寄って来る途中、地面に臥している犬たちを見つけたと思われるところで、一度、表情も動きも凍りつかせ、声になりきらない叫びを上げ、足をもつれさせ転びそうになりながら、うち1頭へと駆け寄り、膝をついて抱き起こし胸へと包んだ。
 犬たちの飼い主だろうか? 長い毛に頬を埋め、肩をうち震わせる。
 桃太郎、障壁はそのままで中年男性に、
「襲いかかって来たので……ごめんなさい。
 息があるようなので治せます。私たちの安全を約束していただけるなら」
(治せる…んだ……。よかった……! )
 桃太郎の能力と、それ以上に犬たちの生命力に感謝する犬吠埼。
 中年男性は、ゆっくりと顔を上げる。
「…治せる、だか……? 」
 頷く桃太郎。
 犬を抱えたまま中年男性は膝で歩いて、障壁に顔をくっつけんばかりに近づき、
「襲っちまったことは、すまんかっただ! けんど、ポチどもに悪気は無かっただ! 怪しいもんを見つけたら襲えって、オラの言いつけを守っただけで! 」
そこまでで「あっ! 」と口を押さえてから大慌て、
「べ、別に、お前さんがたを怪しいもんって言ってるわけじゃあねぐて……! 」
(…いや、言ってるよ……)
 でも、この人は、すごくいい人なんだろうな……と犬吠埼は思った。
 中年男性は続ける。
「悪いのはポチどもでねぐてオラだ! 安全なんて、もちろん約束するだ! どうか治してやってほしい! 」
 桃太郎、頷いて障壁を解く。
 と、
「先生」
 猿爪が小声で雉子を呼び、更に小さな小さな声で、
「いつでも攻撃出来るつもりでいて下さい」
(…会長、ほんといつでも冷静だな……。この男性は、いい人そうに見えるけど、本当のところは分からないもんね……)
 感心しているところへ、犬吠埼にも、
「犬吠埼君、申し訳ないんだけど、シャツを脱いでボクを包んで持っててくれる? 何かの時にすぐに動けるように。
 キミの腕も混ざってるし」
 確かに、とシャツを脱ぎ地面へ広げて、
(もし、また犬たちをけしかけてきた時に、この場所から逃げる必要があるかもしれないからか……)
しゃがみ込み、ひとつひとつ拾っては乗せていく犬吠埼。
 ふと視線を感じ、そちらを向くと、既に治療に取り掛かっている桃太郎の隣、驚いた様子の中年男性と目が合った。
「…それ、生き物だか……? 」
(…それ……? ああ、会長のこと? 生き…てはないけど……)
 普通に「僕の先輩です」と返そうとして、犬吠埼はハッとする。
(こんなバラバラになっても動いて喋る会長って、他の人に見られちゃいけなかったのかも! )
 そう、今の自分や猿爪や雉子は、一般的には化け物なのだ、と。
(どうしよう……っ! )
 返答に困っていると、桃太郎、
「アクシデントによって本来の形を失ってしまっている彼も、片腕の彼と、そちらの女性も、私の力によって動いているだけで生きてはいません」
 治療の手を止めることなく、さらりと言った。
(桃太郎さん……っ? )
 犬吠埼は、わけが分からない。
(どうしてっ? 要らないよね、そのカミングアウト! 
 不思議な力で傷を治す奇跡に驚かないのと、化け物が平気なのは、イコールじゃないよっ? )
 中年男性は絶句している。どのような意味合いであれ当然だ。
 ふざけたことをと全く本気にせずに呆れているほうであってくれと、固唾を呑んで中年男性の反応を待つ犬吠埼。
「す……」
 中年男性から擦れた声が漏れた。
(す? )
 続いて出た言葉は、
「すっげえだな! そんならお前さんがた躯鬼(くき)だかっ? 」
(くき? )
「言い伝えでしか聞いたことねえけんど! 」
(言い伝え? )
「あの言い伝えは本当だかっ? 」
 つぶらな瞳をキラキラ輝かせて、1語発する毎に1歩、犬吠埼へと寄って来、最後は額と額がくっつきそうな至近から真っ直ぐに覗き込む。
(……? 言ってることが何ひとつ分からない……)
 歓喜が極まって大興奮の中年男性に、犬吠埼は困惑。
 中年男性はテンションそのまま喋り続ける。
「あの何故か着物さ着せられで偉そうに言葉ぁ話す人間の力によっでってのは、意味がよぐ分かんねえけんど、傷さ治す能力なんかもあっで、やっぱ、躯鬼殿の食糧ともなると特別ってことだな! 匂いもめちゃめちゃ美味そうだしな! 」
(…食糧……って、なんか桃太郎さんのこと指して言ってない……? )
「アクシデントって言ってたけんど、ひょっとして、今、ここにいることもそうだかっ? 」
 勢いに圧されながら頷く犬吠埼。
「なら、今晩はオラの村さ泊まるといいだ! 話もいっぺえ聞きてえしっ! 」
 変わらず圧倒されつつ、チラッと桃太郎に視線を送って指示を仰ぎ、頷いたのを受けて、
「あ、はい。ありがとうございます……」



                  *



 怪我をした犬たちの治療を終え、小鬼田(しょうきでん)と名乗った中年男性に連れられて、シャツに包んだ猿爪を担いだ犬吠埼、桃太郎、雉子、犬たちは、ゾロゾロと歩く。
 木々の間の小道を入り、少し行くと、またすぐ視界が開け、木の板で造られた簡単な塀に囲われた集落が現れた。
「ここがオラの村だ」
 小鬼田の後について、門であるらしい塀の切れ目を入る。
 塀と同じく木の板で造られた簡素な家々の建ち並ぶ中を奥へと進み、他より3倍の大きさのある家の前へ。
「帰っただよー」
 言いながら玄関と思しき引き戸を開け、先に犬吠埼たちを通す小鬼田。
 犬たちを外に置いたまま自らが最後に入って戸を閉め振り返った小鬼田の、昼間に近い明るさの照明に照らし出された肌の色に、犬吠埼はギョッとし固まった。
(…灰…色……! )
 初めから灰色がかった血色の悪い肌色をしているように見えてはいたが、薄暗いためであると思い込んでいた。
 それほど濃くはないものの、ちゃんと灰色。
「お帰りなさい」
 玄関を入って正面の部屋から出て来た、小鬼田と同じずんぐりむっくり頭髪の無い中年女性も灰色の肌をしており、犬吠埼は繰り返しギョッ。
 中年女性のほうも、犬吠埼たちを見るなり固まる。
 犬吠埼たちに向け中年女性を、
「オラの嫁さんの耕(こう)っていうだ」
と紹介してから、小鬼田は耕へ穏やかに笑み、
「大丈夫。似てるけんど始鬼(しき)じゃあねえ。この方々は、かの有名な言い伝えの躯鬼殿だ。オラも初め、始鬼かと思って警戒しちまったけんどな。
 困ってるみてえだから、今夜、うちに泊めっから」
 言って、草履を脱いで玄関を上がる。
(…しき……? )
 桃太郎も雉子も、小鬼田と耕の肌色について特に驚いた様子は無い。先に立って廊下を奥へと案内してくれている後を、裏の汚れた足袋や靴下を各々脱いでから玄関を上がり、ついて行った。
 呆然と彼らの背中を見送ってしまっていて、犬吠埼、ハッとし、急いで靴下を脱ぎ続く。



「この部屋さ自由に使っでくれでええがら」
 廊下の突き当たりの戸を開け、その向こうの部屋へと犬吠埼たちを通して小鬼田、
「オラは反対側の端の部屋さいるで、何か用事さあっだら気軽に呼んでくろ」
口々にだが結果的に揃った犬吠埼たちの「ありがとうございます」を受け取り、戸を閉めた。
 その足音が遠ざかっていくのを聞きながら、犬吠埼は一応小声で、小鬼田の肌色について切り出そうとする。しかし、
「ねえ」
雉子が先に、
「2人とも全然驚いてなかったけど、何とも思わなかったの? 小鬼田サンと耕サンの肌の色」
(先生! 声、大きいって! )
 ごく普通の大きさの声だが、辺りが静かな上に内容が内容なので、小鬼田に聞こえやしなかったかと、出入口の戸を気にする犬吠埼。
 直後に、あれっ? となる。
(先生も驚いてたの? 全然そんなふうに見えなかったけど……)
 犬吠埼のシャツに包まれ担がれたままだった猿爪がモゾモゾ。
(…あ……)
 気付いて犬吠埼、包みをそっと床に下ろし、結び目を解いた。
 広げられたシャツの上、伸びをしているのと同じようなことなのか、一部の動く肉片を微かに膨らませ、縮ませ、また膨らませとやってから、猿爪、
「耕さんの肌色も小鬼田さんと同じだったんですか?
 …と言うか、小鬼田さんの肌色、暗さのせいではなくて、実際に変わった肌色をしていたんですね? 」
 雉子は頷き、
「しっかり灰色だったわ」
 そうなんですね、と返して、猿爪は比喩表現としてのひと呼吸を置いてから、
「桃太郎さん」
 ちょっと改まった感じ。
「あの方々……小鬼田さんや耕さんって、何者なんですか? 」
 いつもより低めのトーン。
 少しの沈黙の後、桃太郎は言い辛そうに、
「…ごめん、オレにも分からない……」
「…分からないんですね……」
 猿爪は低いまま続ける。
「障壁を解いたことは、あちらも犬を治してほしいでしょうし、万が一再び襲われたとしても、小鬼田さんに関しては分かりませんが、半数の犬たちより先生1人のほうが強いようなので、片腕が無くて斧は出せなくても動ける犬吠埼君もいますから、先生と犬吠埼君で時間を稼いでくれている間に、また障壁を作って下さればいいんでしょうけど、ボクたちが、生きていないのに動いている、つまり化け物であると明かしたことは、どういった考えからだったんですか?
 あと、誘われるまま、ここにいることも」
 空気が重い。
(…なんか、ギスギスしてるな……)
 犬吠埼は、居心地の悪さを感じながら、ただ黙って見守る。
 いたたまれなくなったようで、雉子、
「あの、猿爪クン? 」
 取りなすように声を掛けた。
 猿爪は再度比喩的ひと呼吸。ややいつもの調子に戻って、
「責めてるわけではないです。分からないのはボクも同じで、正解なんて持ってないですから。純粋に聞いてみたかっただけで……。
 桃太郎さんのことだから何か考えがあってのことなんだろうな、って」
(…うん、頼りにしてるんだよね、自然と……。僕も……。日頃の面倒みる側みられる側そのまま……。あまり良いことじゃないと思うけど。桃太郎さんに全部背負わせちゃってるみたいで……。
 …でも多分、桃太郎さん自身も、自分が何とかしなきゃ、って思っちゃってるんだよな……)
「…不安な思いを、させちゃってごめんね……」
 桃太郎が、申し訳なさげにゆっくりと口を開く。
(ほら、やっぱり。桃太郎さんが謝ることじゃないのに……)
「…さっき安寿を連れて行った、安寿の実の父親……。あいつはね……」
(…「あいつ」……? 桃太郎さんが他の人を指してそんな言葉を使うのって、珍しい気が……)
「鬼、なんだ……」
(鬼……っ? …じゃあアンちゃんは…‥)
「安寿は、あいつとオレの姉との間に生まれた、半鬼(はんき)、とでも言うのかな……。
 安寿が普通の人間じゃないことは、君たちも気づいてたよね……? 」
(……うん。それは、そう)
「どうして姉があいつの子を孕んで出産にまで至ったのか、詳しい話は聞かされてないけど、出産直後に姉のところへ現れたあいつは、双子として生まれた安寿の片割れを連れ去って、その5年後には、姉と、あと父も、殺したんだ……」
(…アンちゃんの生まれた5年後だから……5年前……? 50代の神職の男性が何者かに惨殺されて同じく神職の娘が行方不明になってる、あの事件……? …桃太郎さんのお父さんとお姉さんだったんだ……。行方不明って話だったけど、娘さんのほうも亡くなってたんだな……)
「あいつの名前は、始鬼遥(しきよう)」
(…「しき」って……)
 犬吠埼が思うと同時、
「しき、って、小鬼田サンと耕サンの会話の中に出てきたわよね? 」
 雉子が口に出す。
 頷く桃太郎。
「それで確信して、ひとまずだけど安心したんだ。オレの判断はとりあえずは間違ってなかった、って。理由としては単純だけど……。小鬼田さんと耕さんは始鬼について印象の良くない言い方をしてたでしょ? だから……。敵の敵は味方。それだけ。
 小鬼田さんたちにとって、始鬼が良い印象じゃないのは確かでも、敵と呼べるほどのものなのかは分からないけどね。
 で、ここからがやっと、猿爪君の質問の答えになる部分なんだけど、生前に姉から聞いた話に拠ると、あいつの暮らしている場所は、君たちやオレの暮らしてる場所と地続きじゃないらしいんだ。日本の本州じゃないって意味じゃなくて、所謂異世界らしい」
(異世界……っ? )
 アニメやラノベの中の話みたいだな、と犬吠埼は思った。
(…いや、今の僕の存在も、ホラー漫画の登場人物みたいではあるけど……)
「あいつが安寿を連れて行くのに巻き込まれて移動してしまったんだから、ここは、あいつの暮らす異世界なんだろう、って思ったところへ、小鬼田さんが現れて……ほら、あいつの肌の色も灰色がかって見えるから、灰色の肌をした小鬼田さんは、あいつと同じ世界で暮らす方のイメージとしてピッタリで、きっとそうだ、異世界なんだって思いを強くしたんだ。
 全く知らない世界だから、元いた世界へ帰るためには、この世界の人の協力が必要だと考えて、小鬼田さんは、いい人そうだったし……でも……」
 そこまでで一旦、言葉を切り、桃太郎は、犬吠埼を見、雉子を見、最後に視線を落として、床の上の猿爪を見、
「どんな可能性も逃さないように正確な情報をと君たちのことを明かしたのは、猿爪君から叱られて当然。軽率だったって反省してる。後々伝えるにしても、あの時じゃなかった……。ここへ身を寄せる判断も、簡単にしすぎた……。
 平静を保ってるつもりだったけど、出来てなかった……。ごめんなさい……。今のところ悪い方向へ転んでなくて、結果的に間違いじゃない選択をできてたんだろうな、ってホッとしてる……」
 噤む直前の語尾が震える。
(…平静……なんて保っていられるわけないよね……。だって、アンちゃんが……。
 知らなかったけど、アンちゃんを連れて行ったのは普通のお父さんじゃない。おじいちゃんとお母さんを殺したお父さんなんだ……。
 …アンちゃん……。無事、かな……)
 雉子の死んだ一件以前の子供らしく無邪気な安寿が、黒い安寿が、一件を経て膝を抱え消えてしまいそうに小さすぎる背中が、「桃太郎、今までごめんね」悲しい言葉が……様々な安寿が犬吠埼の脳裏に浮かんでは消えた。
 その足下で猿爪、
「ボクのほうこそ、ごめんなさい……。いつも桃太郎さんに頼りっぱなしで……。しかも、それを当然みたいに……」
 桃太郎は優しい笑みで首を横に振る。
 それから大きく1度、息を吸って吐き、
「さあ、猿爪君と犬吠埼君の治療をしようか」



                  *



「桃太郎さん、それ違いますね。そのカワイイのはボクの手です。犬吠埼君のは、ほら、そこ。桃太郎さんの左膝の前にある、デカくてゴツいやつです」
 使える手を増やすべく、先に犬吠埼の腕の治療に取り掛かり、あとは手首から先をくっつけるだけという段になったところで、猿爪がストップをかけた。
「あ、ごめんなさい」
 桃太郎は手にしていたカワイイ手を置き、左膝前のデカくてゴツいやつを取って、犬吠埼へ渡す。
 受け取り、犬吠埼は、くっつけるべき位置へ左手で支える。
 桃太郎、略拝詞を唱え、大幣を振り、
「治癒」
 始鬼遥のあの蜘蛛の巣は切れ味抜群だったらしく断面が非常にキレイであったため、くっつける所要時間は1ヵ所につき2~3分。それよりも、パズルのように各位置の正しいパーツを探すほうに時間がかかっていた。
 少し離れた所で、端切れのような状態になった服を元の形へと同じくパズルのように並べるのに、雉子も頭を抱えている。
 猿爪が、
「もう少し部屋が明るければ、もっと捗るかもしれないですね」
 それを受け、腕を治してもらい終えた犬吠埼、
「小鬼田さんに聞いてみます」

 部屋を出、廊下を真っ直ぐ。反対側端の部屋の前で足を止めると、
(……? )
 中から不穏な空気。
「まったく……! 」
 おそらく耕のものである声。
「田さんは、いつもいつも突然に客を連れて来すぎるだ! あの方々は、本当に躯鬼様だか? オラには始鬼にしか見えねえだよ!
 オラ、怖ぐて眠れねえっ! 」
 どうやら、小鬼田が耕に怒られている。
(…僕たちを泊めてくれたせいで……)
 申し訳なく思いながら、犬吠埼は戸の前で、声を掛けれるタイミングを待った。
 と、
「いげねえ! オラ、お隣に回覧板回すの忘れでただよ! 」
 小鬼田の声。
 戸が開き、小鬼田が出て来る。
「待つだ! まだ話さ終わっでねえだよっ! 」
 耕が声だけで追いかけて来たのを遮るように背中で戸を閉め、小鬼田はふうっと溜息。犬吠埼と目が合い、バツが悪そうに笑いつつ、
「どうしただ? 」
 部屋をもう少し明るく出来ないかと聞くと、小鬼田、すぐ横にあった和紙製の照明器具の中へ徐に手を突っ込み、スズランのような形をした強い光を放つ花を取り出して、
「この夜光花(やこうか)さ使うといいだ。廊下はちょっとくれえ暗ぐても平気だから」
 犬吠埼へ差し出し、
「また何か困っだこつあっだら、遠慮なぐ言うだよ」
(…僕たちのせいで怒られてたばっかなのに、本当にいい人だな……)

 
 
 

桃太郎異聞(12)

*第11話「鴉鬼(あき)の少年」

(…あれから……アンちゃんが連れて行かれてから、どれくらい経ったんだろ……)
 小鬼田宅の部屋の窓辺に座り、白み始めた空を眺める犬吠埼。
 猿爪の治療を終え服の恢復を済ませ布団に横になっても、なかなか寝つけずにいた桃太郎が、ようやく静かな寝息をたて始めていた。
 恐らく、その眠りを妨げないようにとの理由から、犬吠埼と同じく睡眠を必要としない猿爪・雉子両名も、各々無言で、ただ座って過ごしている。
(今頃、どうしてるのかな……。無事だと、いいんだけど……)
 遠くで一番鶏の高らかな声。
(…僕のことも、きっとお母さんは心配してるだろうな……)
 そこへ、カンカンカンカン!
 鐘がけたたましく鳴り響いた。
 廊下でバタバタと足音。
「んだら行ってくるだ」
 早口の小鬼田の声に、
「気をづけで」
 返す耕の声。
(……? )
 床を這う状態で部屋入口の戸へと進み、そっと細く開けて低い姿勢のまま覗いてみると、小鬼田が心配そうな耕に見送られ玄関を飛び出して行くところだった。
 鳴り続ける鐘。
(…何か、あったのかな……? )
 犬吠埼が思うと同時、
「何かあったのかな? 」
「何かあったのかしらね? 」
 いつの間にか背後へ来て犬吠埼の開けた戸からやはり覗いていた猿爪と雉子。
 頷き合って、3人は耕のもとへ。
「おはようございます。何かあったんですか? 」
 猿爪が声を掛けると、耕はヒイッと裏返った声を上げ、腰が抜けてしまったようで尻もちをついた。
(…そっか……。そう言えば僕たちは耕さんに怖がられてたんだ……。それに会長は初対面か。
 怖い存在が当たり前の顔して1人増えてたら、それは驚くよな……)
 察したらしく、猿爪、
「驚かせてすみません」
 謝ってから犬吠埼を手のひらで示し、
「ボクは昨晩は、彼の担いでいた包みの中にいたんです」
「…あ、ああ……そうだっただか……」
 はっきりと距離を取りつつ立ち上がる耕。
 耕の説明に拠れば、鳴り続けている鐘は見張り台の鐘。
 この村には見張り台があり、当番制で常に誰かが立っており、異変のあった際には鐘を鳴らして知らせるのだそう。
「何があっだかは、今、田さんが確認さ行ってるだ」
 そこまでで一旦、言葉を切り、
「大丈夫。何があっだとすても、田さんが何とかしてくれるだ。安心さしてでええ」
 力強く言い、明るく笑って見せた。
 しかし、
(耕さん……)
 その目の奥に不安げな影が揺らめいて見えて、犬吠埼、
「僕も一緒に見て来ましょうか? 」
 昨晩の小鬼田の親切へのお礼の気持ちで。
「いや、とんでもねえ! 」
 耕はすぐさま首を横に振る。
「そんなこつさせで、もす客人であるお前さんに怪我でもされだら、オラが田さんに叱られちまうだよ! 」
(…うん……。会ったばっかで知らないことだらけだけど、小鬼田さんが優しい人だってことだけは間違いないし、常識的なオトナっぽくもあるから、きっとそうなんだろうな……)
 でも、と犬吠埼は返した。
「それって、小鬼田さんに怪我をする危険が迫ってるってことですよね? 」
 耕の目を真っ直ぐに覗き、ゆっくり語りかける。
「行かせて下さい。昨晩は泊めていただけて、本当に助かったんです。
 僕は『くき』ですから、もう死んでいるので、どんな大怪我をしたとしても、これ以上は死にませんが、小鬼田さんは違いますよね? 」
 犬吠埼には「くき」が何なのか分からないままだったが、生きていないが動く「殿」や「様」をつけて呼ばれるような存在。使わない手は無い。あくまでも言い伝え上の存在なので何を言っても間違いにはならないはずだから、と。
「それに、怪我も簡単に治りますから」
 これは言いながら心の中で桃太郎に謝ったが……。そこが納得してもらうための一番のポイントだと思って……。
 実際には、これ以上死なない=存在し続けられるとは言い切れない。何なら、まさに今、バッタリ倒れて動かなくなることだって考えられる。だからこそ意味も無く大事にしたって仕方ない。母のところへは帰りたいが、小鬼田を助けに出て行かなければ必ず叶うのか? 答えは否だ。今この時に最も意味のあることをするべき。今の場合は小鬼田の命を守ること。異変が何であっても、それだけに集中すれば何とかなる気がしていた。
「ありがどう……。よろすく、お願いするだ……」
 涙で声を詰まらせる耕。

 土間に揃えて置かれていた草履を使うよう耕から勧められ、下りざま突っ掛け玄関の戸へと歩き出す犬吠埼。
 すぐ後ろ、
(…え…… )
 猿爪と雉子が同様に草履を突っ掛け続いたことに驚き、立ち止まって振り返る。
 自分だけのつもりでいた。2人の行動を勝手に決めてしまったと気にした。
 雉子は横を通り過ぎながらニコッと笑顔を向け、
「一宿の恩義、大事よね」
 猿爪も足を止めないまま犬吠埼の肩を抱き、前を向かせて歩くよう促しつつ、
「いい判断だよ」
 優しく言う。



 玄関を出ると、周囲の家々から小鬼田によく似た風貌の男性たちが出て来、一様に、非常に急いだ様子で村の門の方向へ走って行くところだった。
 後をついて行く犬吠埼、猿爪、雉子。

 門の少し手前に、犬たちに囲まれ門のほうを向いて空を見据えている小鬼田の背中が見えた。
 昨晩は気づかなかったが、門の左内側、塀に接して見張り台らしきものが設置されており、これまでそこに立っていたと思われる、やはり小鬼田と似た感じの男性が、梯子を伝って下りているところだった。
 下りきって小鬼田へ目をやり、頷いたのに頷き返してから、最寄の民家の軒下へ。
 空へと視線を戻す小鬼田。
 つられて見れば、遥か上空、黒い翼をもつ大きめの鳥が数十羽。
 小鬼田のもとへ到着したところの男性たちへ、小鬼田は鳥たちを見据えたまま、
「男衆、来てくれですまねえ! 奴等が地面さ下りるまで、屋根さ下で待機しででくろ! 」
 それに従い、道々合流し最終的に17名となった男性たち……男衆は、各々近くの軒下へ移動。
 鳥たちが、こちらへと滑空してくる。
 ある程度まで近づいて来たところで、
(っ? )
 鳥たちの両翼の中央にある部分が人の形をしていることが分かった。
(翼の生えた、人っ? しかも、ちゃんと空を飛んで……! )
 綺麗なV字型編隊で向かって来る統制のとれた様子のわりには共通点が和装というだけで派手な色柄であったり地味であったり丈も長かったり短かったりと全く統一感の無い服装をした、黒髪で小柄な、犬吠埼と同じくらいの年齢と思われる、全員少女。
 先頭にいた、他より少しだけ年上に見える少女が、胸の前で両腕を交差させてから、勢いよく外側へ振るように開いた。
 直後、それほど大きくない何かが小鬼田のほうへ。
 容姿からは想像のつかない身軽さで飛び退きかわす小鬼田。
 何かは、タタタタタタッと地面に突き刺さる。竹のようなもので作られた、仮に投矢(なげや)とでも言おうか、長さ20センチほどの細い棒6本。
 大して重量があるように見えないにもかかわらず、こんなふうに刺さるということは、先端はもちろん尖っているにしても、
(すごい力で投げたってことっ? こんな体の小さい女の子がっ? )
「小鬼田さん」
 声を掛けながら駆け寄る犬吠埼。少女たちを見、
「あの方々は一体……? 」
 小鬼田は振り返り、
「おお、躯鬼殿! 来てくださっただか! ありがてえだっ! 」
 それから、ん?となって、
「鴉鬼(あき)さ知らねえだか? 」
(…あ……)
 犬吠埼、不審を抱かれたかも、と小鬼田を窺う。
「言い伝えでは躯鬼殿はオラたちの住んでる土地とは捩ずれたところにある土地から来るっで言われてるけんど、本当みてえだな。着物も見たことねえ着物だもんな」
(ああ、なんか大丈夫だったみたい……。捩じれたところ、って異世界ってことなのかな……? それと多分だけど、ここでは僕も会長も先生も、大して化け物じゃない……? )
 小鬼田によれば、鴉鬼とは小鬼田の村の近くに暮らす幾つかの種族のうちのひとつ・鴉鬼族。小鬼田たちが農耕をし鴉鬼族以外の種族と協力し合って生活している中、そこに与せず他種族から略奪をすることで生きている少し困った存在で、小鬼田の村へは、農作物が収穫期を迎える頃になると毎回やって来るのだそう。
 因みに小鬼田の村の人たちは全員「小鬼」と呼ばれる種族らしい。
「襲って来るんでねぐて、普通に貰いに来てくれだらええのになぁ……」
 そんな話をしている間に、先頭の少女が再度腕を交差。周りの少女たちも全員交差した。
 小鬼田に飛びつき覆い被さ……れてはいないが急所は守れる形で地面へ伏せる猿爪。
 犬吠埼は地面の2人と空の少女たちの間に入り、少女たちを仰いで両手を前へ構え斧を出す。
 降り注ぐ投矢。斧をブンッと全力で横へ振り、風圧で、一部は柄で、払い落とした。
 間髪入れず重ねて腕を交差する少女たち。多少陣形を崩しながら、距離もグングン縮まっている。
 大振りをしたために、
(ダメだ! 間に合わないっ! )
 犬吠埼は体勢を立て直せない。
 雉子がすぐ隣へ来、空へと弓を向けた。
 と、
「攻撃さすねえでくろ! 」
 小鬼田が叫ぶ。
「田畑さ荒らされねえよう、あど、村の衆さ怪我させられねえよう、追っ払えれさえすだらええだ! 」
(いや、出来ればそのほうがいいに決まってるけど、この状況じゃ‥‥‥! )
 犬吠埼の視線の先、少女たちの腕が一斉に開かれた。
 犬吠埼は投矢を何とかすることは諦め、斧を捨てて猿爪の更に上から小鬼田に覆い被さる。
 瞬間、
「障壁生成! 」
 桃太郎の声と共に犬吠埼や猿爪、雉子、小鬼田の頭上の空中、斜めに無色透明の大きく分厚いガラス板のような障壁が現れた。
 一同のいる辺りより小鬼田の自宅寄りのだいぶ離れた位置に、両手のひらを空へと向けた桃太郎の姿。
(…桃太郎さん……)
 ホッとして身を起こす犬吠埼と猿爪。
 小鬼田も起き上がる。
 先ずは投矢が障壁に当たって勢いを失い障壁表面を滑って下方からパラパラと落ち、続いて突然のことで止まれなかった数名が、そのまま突っ込みぶち当たる。
 仲間の手を借りて身を起こした彼女らも、無事止まれた残りの者たちも、明らかに、障壁のこちら側の犬吠埼たちを見たことで、ピクッ。固まった。
「…し、き……? 」
 一部の口から、そう漏れる。
 その時、ドサッ。
 視界からは外れた障壁隅の下あたりで、重い物が落ちたような音。
 見れば、少女たちのうち1人が地面に倒れていた。
 障壁の出現したタイミングに、障壁よりこちら側へ来てしまっていたのだろう。
 少女はすぐに自力で立ち上がるも翼を損傷したのか少し動かしただけで顔を歪め、その隙に駆け寄って来た村の男衆に拘束された。
「撤収! 」
 障壁の向こうで無感情に単なる号令。
 少女たちは速やかに回れ右。飛び去って行く。
(え……)
 心の中でさえ一瞬言葉を失う犬吠埼。
(仲間を、置いて……? )
 置いてけぼりを喰らった少女のほうへ目をやれば、受け容れているのか、全くの無表情。恐怖も絶望も何も無い。
 飛び去る少女たちのうち誰ひとり振り返ることのないまま、やがて、その姿は彼方へ消えた。
「障壁解除! 」
 ゆっくり歩いて来、桃太郎が合流。



 桃太郎を見て、小鬼田はとても驚いた様子。
(……? どうしたんだろ……? )
 その答えはすぐに、犬吠埼、雉子を順番に見、猿爪にも迷いのある視線を中途半端に向けつつ、申し訳なさげに、小鬼田自身の口から。
「お前さんがた、昨晩は飯さ食わなかっただか? 弁当持ってるでいいかと思っで用意さしなかっだけんど、あれは非常食だか? 」
(「あれ」って桃太郎さん……? …この人やっぱり昨日、桃太郎さんを指して「食糧」って言ってたんだ……。
 桃太郎さんはお弁当でも非常食でもないんだけど……)
「お気遣いなく」
 小鬼田へ、他所ゆきに笑んで返す猿爪。
「ボクたちは食事を必要としませんので。それから、あの『人間』の彼は、ボクたちの面倒をみて下さっている方で、食糧ではありません」
 そこまでで、あ、となり、
「ボクは昨日はバラバラになっていた、猿爪という者です。他の3名は昨日のうちに自己紹介を済ませていましたが、すみません、ご挨拶が後れました」
 オラのほうこそ、と自己紹介を返す小鬼田。
 互いに目を合わせ少し笑い合ってから、猿爪、
「後れた原因のバラバラを治して下さったのも彼です」
と付け加えた。
 小鬼田は、目を見開いて猿爪を上から下まで舐めまわすように見、感心したふうな低い息。
「いやー、大したもんだなぁ」
 視線を桃太郎へと移し、
「何だかこれまで失礼なこつ言っちまってたみてえで申し訳なかっただ」
 視線は外さずに、ペコッと頭を下げる。
 合わせて桃太郎もペコリ。
 猿爪が続ける。
「ボクたちは必要ありませんが、彼は食事が必要ですので、泊めていただいた上に図々しいお願いで恐縮なのですが、ご用意いただけると……」
「もちのろんだ」
 快く頷く小鬼田。
「好き嫌いさ無いだか? 同族を食うこつば病気さなる危険さあるって聞くで、人肉は避けたほうがええだな? 他は平気だか? 」
「あ、はい……」
 桃太郎の返事に、あれ? と猿爪が口を挿む。
「桃太郎さん、豚肉とニンニクがダメでしたよね? あ、でも、この間てりやきバーガー食べてましたっけ? 豚肉のパティなのに。大丈夫になったんですか? あと鶏肉も、鳥を飼ってたことがあるから、その日の気分によっては無理な日があるって」
(…まあ、こういう時、オトナは自分のことでは言えないよな……。
 それにしても会長、長いからかな、よく知ってるな……)
 小鬼田はおおらかに笑い、
「なんだー。そんなんは遠慮なぐ言ってくれてええだよ? 」
 桃太郎へと歩み寄って背に手を回し、ポンポン。帰ったら一緒に朝飯にしよう、と。
 そうしてから、
「けんど、その前に、ちょっとだけ待っててくろ」
 一言、断りを入れ、自宅方向へ駆け出した。

 ややして戻って来た小鬼田は、5キロの米袋程度の大きさの麻袋を抱えていた。
 上部から、トマトやキュウリ等の野菜が覗く。
 小鬼田は真っ直ぐに、男衆に押さえられている少女のもとへ。
 あらためて見ると、少女は少年だった。小柄なことに変わりはなく、小鬼田や男衆と同じくらいの背丈しかない。
 小鬼田は男衆に少年から手を放すように言う。
 少年に初めて表情を見た。非常に驚いた表情。
 男衆が渋々手を放すのを待ってから、小鬼田、
「久し振りだなぁ」
 少年に優しく微笑みかける。暖かく穏やかな圧。
「お前さん、鴉鬼葉(あきよう)んとこの隠(いん)でねえだか?
 でっかくなっただなぁ……」
 少年はフイッと目を逸らすが、
「隠は姉ちゃんで、オイラは弟の翔(しょう)。アンタになんか会ったことねえよ」
 律儀にぶっきらぼうに応えた。
「ついでに言うと、今は姉ちゃんが葉。親父が死んだから」
 そう、だっただか……と小鬼田は項垂れる。
「鴉鬼葉、死んじまっただか……。そいつは、すまねえこつ言っちまっただ……」
 少年・翔は変わらずぶっきらぼうに、
「気にすることじゃねえよ。オイラたちみたいな生き方してたら仕方ないことだ」
「…翔……お前さん……」
 小鬼田は顔を上げ、麻袋を地面へ置くと、徐に両手を翔の頭へと伸ばし、
「ええ子だなぁっ! 」
 ガショガショ髪を掻きまぜ、頬ずり。
「やめろっ! 撫でんなっ! 良い子って言うなっ! 」
 顔を真っ赤にして両手両足をバタつかせ、翔は小鬼田を振り払い、ハア……と溜息。落ち着きを取り戻し、
「喋りすぎた。帰る」
 小鬼田の脇へ抜けて歩き出した。
 それを、
「待ってくろ」
 小鬼田は足元の麻袋を持ち上げ、
「オラの村でこさえた野菜さ持ってってくろ。そんために来たんでねえが? 」
 呼び止める。
「いや、奪うんじゃなきゃ意味ねえから……」
 と、翔の腹がグウ……と鳴いた。
 再び真っ赤になる翔。
 小鬼田はここぞとばかり、
「お天道様の光さたっぷり浴びて、肥えた土の養分とキレイな水さいっぱい吸って育った野菜たちだで、とびきりうめえだよ? 」
 ほれほれ、と麻袋を突きつける。
「…そんなに、言うなら……」
 気のすすまないふうに差し出される翔の両腕。
 落とさないようしっかりと渡して、小鬼田は満足げ。
「隠は、新しい鴉鬼葉は、どうしてるだ? 元気にしてるだか? 」
「姉ちゃんなら、さっきまでいたよ。先頭で指揮とってた」
 小鬼田は、へえー! と感心。
「あの娘っこなら、この村さ襲いに来るたんびにいたけんど、あれがそうだっただか! すっかり立派になっで、気づかなかっただ! 」
「あと、姉ちゃんの名前『よう』じゃなくて『は』って読んでやってくれ。始鬼と同じ音で呼ばれると鳥肌たつらしいから。もともと鳥だから仕方ないんだけど」
「分かっただ。『あきは』だな? 」
 大きく頷いて返す小鬼田。
 翔は、また喋りすぎてしまった、とでも思ったか、分かりやすくハッとなり、
「……帰る」
 そそくさと少し離れたところまで歩き、翼をバサッ。
 同時、クッ……と声を漏らし動きを止めた。
(やっぱり、翼を傷めてる……? )
 駆け寄って、小鬼田は顔を覗いてから、翼全体をザッと見、左側の付け根付近に目を止めて、
「桃太郎殿」
 桃太郎を振り返る。
「これさ治してやれねえだか? 」
 呼ばれて桃太郎は、小鬼田と翔のほうへ。
 注意深く至近から翼付け根を観察。大幣を振り、
「治癒」
 大人しくしている翔。
 数分が経ち、頷いて見せ離れる桃太郎。
 小鬼田も離れる。
 翔は翼を、最初は恐る恐る、パサッパサッと確かめるように動かし、それから、バサッ! 僅かに宙に浮く。
 そうしてから、ちょっとだけ桃太郎と小鬼田を見、頬を赤らめ小さく、
「……ありがと」
 言い残し、バササッ! 空高く舞い上がった。
 何故か胸をキュンッとさせられた犬吠埼の隣で、猿爪、
「彼はどうやら、ボクの敵だね」
 視線は、微笑ましく翔を見送っている雉子。
プロフィール

獅兜舞桂

Author:獅兜舞桂
獅兜座(しっとざ)座長・獅兜舞桂(しっとまいけー)です。
よろしくお願いします。

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